とりかえばや07

「一大事だ!」

麗らかな午後だった。自室から庭先の梅を眺め、春の陽気に身を任せていたカガリは、突然の珍客に眉を顰めた。

「何をまた、藪から棒に」

目前では、彼女の父親が、御簾の中へ駆け込んできた体勢のまま、その広い肩で息をしている。屈強で精悍な姿の彼がそうしていると、どこか滑稽だったが、真剣な彼の表情が、カガリに笑いを止めさせた。何やら本当に、文字通りの一大事らしい。

「そんな冷静にしている場合か! キラが、お、恐れ多くも、お、お、お上に!」

父の常にない行動にも慣れてきたカガリだったが、弟と上司の名前が出てきたことには、流石に驚いた。

「キラとアスランが、どうかしたのか」

「どうかしたのか、じゃない! 求婚! きゅ、きゅ、求婚されているという噂が流れているんだ!」

「なんだって!」

寝耳に水、とは、まさにこのことだ。

「どういうことなんだ、それは! お父さま、まさか、アスランから」

最悪の事態を予想して、カガリの顔から血の気が引く。しかし、幸いにもそれは杞憂に終わった。

「い、いや、まだお上からのお話はない」

掴み掛からんばかりのカガリを押しとどめるように、フラガは大仰に両手を挙げた。節くれだった指を広げ、自分自身をも落ち着かせるように、二、三度押さえるような動作をする。

気を取り直したようにひとつ大きな溜息を吐いて、彼は、自分が耳にしたすべてを我が子に明かした。確かに、アスラン自身の口から、キラを好いていると――引いては、嫁にしたいと聞かされた訳ではない。

「だが、お上がキラの部屋に通っていると」

心の臓を押し潰されるような重い気持ちで告げた言葉だったが、フラガの予想とは違い、カガリは返って安心したかのように肩を下ろした。どうしたことかと怪訝な顔で見つめれば、心得た風でひとつ頷き、苦笑交じりの答えを返してくる。

「それは、私やラクスが一緒のときのことだろう」

「お前や、東宮が?」

思いつきもしなかった、と顔に書いて、フラガは目をしばたかせた。余程間抜けな表情をしていたのだろう、カガリは父を見て、はは、と短く笑った。

「お父さまが気にしなくても大丈夫だ…そうだな、今日にでもキラの様子を見てこよう」

任せておけ、と胸を張ると、父は、ようやく落ち着いたのか、ゆるゆると息を吐き出した。

「そうか、そうだな、うん…ああ、そうだいい忘れるところだった」

興奮していてつい、と頭を掻きながら、フラガは苦笑した。本当に今思い出したのだろう、晴れ晴れとした顔には、自分の失態を誤魔化すように苦笑が浮かんでいる。

大した話ではないのだろう、とカガリは思った。だから、姿勢を改めることなく膝を崩したまま、何の気もなしに次の言葉を聴いた。

「これも一大事ではあるんだが…右大臣が、お前を四の君の婿にと考えているらしい」

大した話だった。カガリは脇息から身を起こし、しばし呆然としたまま固まった。今、父は何といったのか、理解するまでに数刻を要した。

そして、理解した途端、音を立てて血の気が引いていった。

「なっ、婿にって、そんな、無茶苦茶な!」

急に声を荒げたカガリに驚いてか、下がったはずの女房が心配げに室内を伺ってきた。だが、父はいたって呑気に笑っている。

「兄上は、お前のことを男だと思っているからなあ」

女房に、大したことではない、と告げながら、フラガは鷹揚に頷いた。

しかし、大したことだ。少なくとも、当のカガリにとっては大した話だった。いかに、伯父である右大臣が自分を男だと思っていても、実際のところ、カガリは女なのだ、婿になることはできない。

「俺に打診があったんだが、まあ、何とか断っておくよ」

流石にフラガもそこのところは分かっているらしく、表情を改め、生真面目に請け合った。だが、嫌な予感が胸に広がっていくのを、カガリは止めることができなかった。

春の盛りの庭は、光を受けて、柔らかく輝いていた。草花の美しさに目を奪われていたミリアリアを振り返らせたのは、背後からかけられた呼び声だった。

「ミリィ!」

「あら、トール、どうしたの」

聞き知った声に振り返れば、そこには宮中に雑色として仕える恋人の姿。彼の頬は高潮しており、その息は、よほど急いで来たのだろう、音が聞こえてくるほどに上がっていた。

「いや、カガリがさ、キラに会いたがっているんだけど、部屋にいないもんだから」

「さあ…私も今朝は忙しかったから」

「忙しいって、何かあったのか」

分からない、と首をひねるミリアリアの様子に、トールは目をしばたかせた。ミリアリアは、東宮付ということになってはいるものの、実質、キラ付のようなものだ。その彼女がキラの居場所を知らないということは、通常考えられない。

「左大臣様にね、文を届けていたの」

疑問符が並んだトールの顔を見て、悩んだ末に、ミリアリアはこそりと事情を説明した。本来ならば、ミリアリアは宮中に仕えるものであり、臣下たる左大臣フラガと文を交わすことは許されない。

「宮中の噂とかね、気になることがあったら、教えてほしいっていわれていたのよ」

キラとカガリの事情を知る数少ない人間の一人であるミリアリアは、その機転と度胸を見込まれて、キラのお目付け役を任された。宮中に上がるには身分の足りぬ彼女が今ここにいられるのは、フラガの権力と根回しの賜物だ。それもすべては、秘密を守り抜くためのことである。

文を届けた、その事実だけでも、誰かに悟られる契機になりかねない。しかし、彼女の内心の葛藤に気づきもせず、トールはただ唇を尖らせた。

「文を届けるだけなら、俺にいってくれればよかったのに」

拗ねるようなその声は、ただただ、自身の知らぬところで、事務的なものとはいえ文を書いていた恋人への妬心が伺えるばかりで。

ミリアリアは、思わず口元をほころばせた。

「キラなんだけど、部屋にいないってことは、ラクスさんのところじゃないかしら。私が先触れとして様子を見てくるから、トールはカガリさんを呼んできてちょうだい」

笑うミリアリアを怪訝そうに見ながらも、トールは、結局その言葉に従い踵を返した。だが、思い出したように振り返り、今度文を届けるときは自分にいえと念を押す。真剣な表情をつくってみたが、ミリアリアの笑い声が大きくなるだけだった。

宮中は、女の足にはあまりに広い。トールと別れたミリアリアが東宮の居所へ辿り着く頃には、すでに四半時が過ぎていた。縁から室内へと声を掛けながらも、ミリアリアは、トールがカガリを伴って今にも現れるのではないかと、落ち着きなく渡りを気にしていた。

「どうかなさいましたか」

室内からミリアリアの声に答えたのは、キラだった。しかし、その声ににじむ微かな変調に、ミリアリアは眉を顰めた。すっかり女房らしい受け答えが板についているミリアリアに比して、キラは、未だにフラガの屋敷にいた頃のいたいけな様子が抜けない。ラクスがそれを許していることもあり、少なくともこの部屋においては、キラが女房らしくあることなどない、そのはずだった。

しかし、キラのこの態度はどうだ、まるで女房ではないか。これは、室内にラクス以外の人物がいる、つまりは来客中なのではないか。

即座にそう判断したミリアリアは、表情を改め、ゆっくりとした所作で室内へと歩を進めた。下座にいるであろう客に頭を垂れ、礼式に則った挨拶をす る。ことさら間を溜めてから顔を上げると、思いもよらぬ人物に迎えられた。だが、驚きは微笑みの下に隠し、何食わぬ顔で上座へと目を向ける。上座と下座を 分ける御簾の傍、そこには、やはりキラがいた。

「ああ、ミリィ」

安堵したように肩を下ろす彼の側まで行き、ミリアリアは安心させるように頷いた。やはり、女房らしく振舞うだけでも精一杯だったのだろう、キラの額には薄っすらと汗が滲んでいる。

御簾へと視線を向けると、その奥のラクスと目が合った。来客には聞こえぬよう声を潜め、ミリアリアは、二人に用件を告げた。

「ごめんなさい、カガリさんが、キラに会いたいそうなの」

「カガリが?」

「そう、トールが呼びにいったはずだから、そろそろ…あら」

ミリアリアの説明に、どたどたという騒々しい足音が重なった。首をかしげていたキラも、すぐにその足音の持ち主に気づき、腰を浮かせる。

「キラ!」

駆け込むようにして室内に入ってきたのは、件のカガリだった。一人御簾の中にあるラクスが、息を切らしたその様子を見て、鈴の音のような笑い声を上げ、扇で口元を覆った。

「あらあら」

「ああ…ラクス、すまない、邪魔をする」

ラクスの微笑を探して笑い声を辿ったカガリは、御簾の内にその姿を認め、ようやく来客中なのだと気がついた。自分の行動を思い返し、その顔から血の気が引く。

血の気が引く、それどころではない。来客の正体を知ったとき、カガリは血色など通り越して、卒倒しそうになった。

「伯父様!」

ラクスに向かい下座に控えている人物、泰然とそこに座すのは、フラガの異母兄である右大臣その人だった。

失態に次ぐ失言に、カガリは口元を押さえ、畏まった。

「いえ、右大臣様…失礼いたしました」

ここは宮中、フラガの邸ではない。自分はカガリである前に権中納言であり、すなわち目の前の人物も伯父ではなく右大臣であるのだ。

しかし、右大臣は、平伏するカガリに鷹揚な笑みを向け、その頭を上げさせた。

「私は君の元服の介添えをしたのだから、いうなれば義父子のようなもの、そうかしこまる必要もあるまい」

それに、と言葉を切り、彼は、その笑みを不似合いなほど柔和なものに変えた。

「近々本当の意味で父子になるのだからね」

「それは」

ゆったりと構えた右大臣とは対照的に、カガリは、落ち着きなく瞳を揺らし、息を詰めた。すると、動かなくなった彼女の代わりとでもいうように、キラが、女房らしさをかなぐり捨てて身を乗り出す。彼の力を受け止め切れなかった円座と、身に纏った豪奢な十二単が、乾いた音を立てて床の上を滑った。

「伯父さん、どういう意味なの、それは」

「そのままの意味だよ、カガリが我が家の婿になるということだ」

決定的な言葉に、キラの表情から一切の感情が削ぎ落とされる。呆然と床に手を突いて、彼は、ゆるゆるとカガリの顔を覗き込んだ。自分は聞いていない、兄弟だというのに、そんな話は聞いていない。声を上げて詰りたかったが、右大臣の手前、そればかりは憚られた。

そのキラの様子を見て取ったのか、それとも、単に用事が済んだからなのか、右大臣は、ラクスに挨拶と礼を尽くして席を立った。衣擦れも鮮やかに裾を捌き、室内を後にする。

右大臣の足音が遠ざかるほどに、キラの頬に赤みが戻ってきた。それだけではない、彼はその薄い肩を怒らせ、その場に立ち上がると、傍らに座すカガリを睨みつけた。

「カガリ、どういうことなの!」

「いや、私も、今朝お父さまから聞いたばかりなんだ」

返すカガリの声にも、彼女らしい張りがない。それを見てキラは、言葉に詰まり、仕方なしに険を引いた。遅ればせながら、この事態に驚いているものは自分だけではないと気がついたのだ。見れば、カガリの横に座るミリアリアも、その可愛らしい顔に困惑を滲ませている。

キラが黙り込んだことで、場に静寂が落ちる。しかし、そこに、ころころとした笑いが割り込んだ。

「あらあら、おめでたい話ではありませんか」

何をそんなに揉めることがあるのか、と笑うのは、未だ御簾の内にあるラクスだ。変わらず扇で口元を覆い、脇息に凭れながら、美しい微笑みを湛えている。

彼女の存在の持つ意味を思い出し、三人は凍りついた。言葉を挟むことこそなかったが、東宮たるラクスに知られたとなれば、この婚約は本決まりに近い。知らず、後戻りできないところまで来ていたのだ。

もしかしたら、これこそが右大臣の狙いだったのではないか。キラは目を眇め、カガリの肩に手を置いた。

「ラクス、ごめん、ちょっと出てくるね」

退室を詫びながら、怪訝そうに眉を上げるカガリを引き立たせた。自分も付いて行こうと腰を浮かせるミリアリアを押し止め、キラは、彼女に後のことを頼む。仮にも東宮であるラクスを、一人居室に残していくわけにはいかない。

キラの局に向かう道中、カガリはただ黙って彼の背についてきた。円座を差し出し、そこにカガリが腰を下ろすのを待って、キラは、殊更神妙な声音で切り出した。

「ねえ、本当にいいの」

「いいわけがあるか! 私は…」

本当は女なのだから、と続く言葉をカガリは飲み込んだ。打てば響くような返答でありながら、最後まで続けることはできない。それはそのまま、彼女の心情がいかに切羽詰ったところに追い込まれているかを表していた。今にも泣き出しそうなその顔を見て、キラは、きっと自分の顔も同じであるのだろうと心の中で苦笑した。

「ねえ、カガリ、僕にできることはない? 何かやり残したことは」

キラの言葉が、耳の中に木霊する。カガリは、膝の上で固く握った己の拳を見下ろした。剣や弓で豆だらけになった、無骨な手だ。キラのように、白くしなやかな指もない。この自分が、やり残したことは。

脳裏に、アスランの顔が浮かんだ。そして、せめてこの手が、白魚のようであったなら、と。

右大臣の名前を出すべきか出さぬべきか、ずいぶん迷いました。結局出さなかったのですが、もしかしたら、すごく分かりやすいかも知れません。(2006-05-18)

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