滋賀県守山市教委は2003年2月19日、伊勢遺跡で国内に例のない屋内棟持ち柱を
持った竪穴建物が見つかった、と発表。22日、現地説明会を開きました。この日は、朝から曇り空、
午後から本格的な雨となる最悪のコンディションでしたが、大勢の愛好家が詰めかけ、この遺跡に対する
関心の高さを示しました。
この日、小雨ぱらつく中、12時20分ごろ現地に到着。すでに30人ほどが集まっていました。説明会は
13時30分開始の予定でしたが、第1回の説明は繰り上げて12時30分ごろから始まりました。雨は、
徐々にきつくなり、みぞれ交じりに。終わるころは、遺跡内もかなりぬかるんできました。13時から2回目の
説明が始まりましたが、寒い上に雨もひどくなってきたので現地を後にしました。
1週間前の15日には、30キロほど離れた能登川町で前方後方墳の現地説明会が開かれました。この日は
快晴で暖かく、私にとっては、1週間の違いで天国と地獄を味わった気分。遺跡としての価値の差は、
ほとんどないと思いますし、両遺跡とも朝鮮半島との関連が強いのも共通しています。、
天候が動員力の明暗を分けたという思いがしてなりませんでした。
この遺跡は、周辺の宅地化が進んでいますが、田畑の中にあり、広がる田畑の先には野洲町にそびえる
近江富士と呼ばれる三上山の端正な姿が望まれます。三上山のふもとには御神神社があります。三上山は大和の
三輪山と同じように山自体が御神体であったであろうことは想像に難くありません。現場から三上山を眺めて、
そう思いました。
守山市教委の説明資料によると、伊勢遺跡は昭和50年代半ばに、個人住宅建築に先立つ試掘によって
発見された弥生後期の集落跡。守山市伊勢町、阿村町、栗東市野尻にまたがり、東西約700メートル、
南北約450メートル、面積は30ヘクタールを超えます。そして、大型建物が遺跡東半分に集中しているのが
伊勢遺跡の特徴としています。
遺跡の中心部には、大型建物群が整然と並ぶ二重の柵で囲われた方形の区画があり、東側の隣接地で楼観と
見られる大型建物跡が見つかっています。楼観を中心として半径約110メートルの円周上に独立棟持ち柱付き
大型建物や、屋内棟持ち柱付き大型建物跡が7棟分発掘されました。ほかに、方形の竪穴住居、
五角形住居跡などが多数出土しています。
今回の説明会の対象となった大型竪穴建物は、2001年12月に見つかり、その後の調査で、
一辺が13.6メートルの方形で、床面積が約185平方メートルに及ぶ国内最大級の建物跡と分かりました。
建物跡内部から3ヵ所で主柱穴、1ヵ所で屋内棟持ち柱穴が見つかりました。
主柱穴の一つは長径1.6メートル、短径1.3メートル、深さ90センチ。屋内棟持ち柱穴は
長径80センチ、短径60センチ。主柱穴間の距離は東西7.5メートル、南北7.2メートル。
床面から在地の壷や甕、河内地域の広口壷、日常生活で使われた鉢、器台などの弥生土器が出土。
これらの土器から大型建物跡は、弥生後期(1世紀末から2世紀初頭)の建物跡であることが分かりました。
床の下は厚さ30センチの粘土で入れ替えられ、床は6〜8センチの精良な粘土を貼り、高温で焼いて仕上げてありました。この焼いた床は壁沿いや
建物中央には見られず、守山市教委は、ドーナツ状に広がっていると推定しています。このほか、
壁際で幅約30センチほどの炭化した板材、倒壊した状態のレンガ状焼き物が出土しています。
守山市教委は「規模が大きく、上部構造が変わっていて、床が丁寧に作られて焼かれている。
同様な工法が2世紀ごろの韓国遺跡で報告例がある。土器を片付け、少量を壁際に飾り、柱や主要部材を抜き
取った後、燃やしたという廃絶の様子が分かる。107(永初元)年、倭国王帥升が後漢に使いを送っているが、
倭人が東アジアの歴史の舞台に出てくる、そういう時代に機能していたと考えられる」と説明しました。
そして「外からも棟持ち柱が見える堂々とした建物。煮炊き、貯蔵用など出てくる土器から日常生活に
使われていた性格の家で、成立時に力を持ち、大陸と何らかの交渉を持っていた人が住んでいた、
と想定される」と話していました。【写真は屋内棟持ち柱穴の説明をする守山市職員】(2003年2月27日作成)
■屋内棟持ち竪穴住居想像図