2世紀末から3世紀初頭にかけての日本でも最古級の前方後方墳で、初の木槨墓が
見つかった滋賀県能登川町大字長勝寺にある神郷亀塚(じんごうかめづか)古墳で、2003年2月15日に
3次調査の現地説明会が開かれました。遠くは関東からの来訪者もあり、年配者を中心に目算で400人は
集まった感じで、関心の高さを示していました。
この日は快晴、と天気に恵まれ、2月にしては暖かい一日となりました。古墳の上を縦断することが
できましたが、人数が多いため、1回目はただ通るだけで2回目に撮影が許されるといった状態でした。
私も2回並んで木槨墓跡を撮影してきましたが、よく見られませんでした。よく見ても分からなかったとは
思いますが…。
古墳は、式内社である乎加(おか)神社の北西にあり、周辺は田畑となっています。残っているのは
前方後方墳の上部、つまり“骨格”だけ。しかし、横からの概観は前方部に比べ、後方部が極端に高い
前方後方墳で、素人目にも古い形式を彷彿させます。平地に、ぽこんと居座っている感じで、
なんだか感動を覚えました。
町教委の発掘担当者は、現在の琵琶湖からは6キロほど内陸部にあるが、古墳の周りに自然の川があった
と説明します。戦前まで近くに能登川港があって江戸時代、湖東地方の米の集散地として栄えていたといい、
古墳の主は、古墳の北西部で見つかった総面積30ヘクタールを超える古代集落跡の斗西(とのにし)遺跡・
中沢遺跡、この二つ集落(実際には一つのまとまった集落)を治めた初代の王との見解を示しました。
斗西遺跡は弥生後期後半、いまから1800年ほど前に始まり、古墳の成立時期は出土土器からからみて
紀元190年から210年の間くらい、と説明しました。魏志倭人伝の中で、倭人が中国に貢物をするころ、
との補足がありました。
神郷亀塚古墳は前方部がバチ形に開いた全長36.5メートルの前方後方墳で、周濠がありました。
当時としては大きい部類で、濠の土を盛り上げて作っているのが第一のポイント。墳丘は土を3段階に
整地している。地面をならした(第1整地面)上に、1メートルの高さに整地(第2整地面)し、
その上にまた1メートル(第3整地面)土を載せる。その第3整地面、地上2メートルの所で墓を見つける
ことができた、といいます。
この古墳の特徴である木槨墓のルーツについて、発掘担当者は紀元前1000年以上前、日本では
縄文後期に中国北部にいた匈奴、契丹といった北方民族が独自の積石木槨墓を造った。その後、漢の時代に
なって大型化し、副葬品を入れる風習が出来上がる。紀元前108年、漢が楽浪郡を設置、ここで形を整えて
朝鮮半島を南下、今から約1900年前の弥生後期に日本に渡ったとされる、と話しました。
さらに、木槨墓は左側(東側)の第一が長さ4.6メートル、右側が3.5メートル。木槨墓は3回目の
整地をした後、木槨を作るところに粘土を敷き、側板を立てて作っている。土だけでできている古墳で
木カク墓を見つけるのは難しいと、発見までの苦労話がありました。
また、古墳完成後の遺構として、西側で竪穴住居が見つかりました。壷2点と祭祀道具の高坏ばかりが
出てきたことから墓戸(墓守の家)との判断を示しました。このほか、古墳の西側真横に柱穴ばかりのある
場所が出てきた。建物は建たないため、祭祀のための旗やのぼりを立てた、との見解を出しました。
神郷亀塚古墳の造営後の経過については、7世紀の中ごろまでには濠が埋まってしまう。
それまでは墓が管理されていたことが分かった、との説明がありました。
余談になりますが、現地説明の中で「ここ参っとかな罰が当たりまっせ」と言われたので、古墳を敷地内に
持つ乎加神社を拝んできました。神社の入り口にある石灯籠は、由緒があるのか、ないのか分かりませんが、
自然石を利用した大きく立派なものでした。【写真は木槨墓を持つことが分かった神郷亀塚古墳】
■木槨墓の復元図(2003年3月17日作成)