愛知県豊田市元城町で2006年3月21日、挙母城(桜城)の発掘調査現地説明会が
開かれた。この日は曇り空だったが、暖かい一日となった。説明会は、午前と午後の2回あり、午前の部に
訪れたが、市の中心地域だけに100人を超える人たちが参加した。
現場は、市指定文化財となっている挙母城隅櫓跡の西側地域。豊田信用金庫本店の所在地で、同金庫建て替えに
伴い2005年8月に試掘が行われ、石垣の一部が発見され、その位置から桜城設計図にある二の丸の石垣である
ことが分かった、という。
配布資料などによると、挙母城は慶長9(1604)年、三宅氏が挙母藩1万石の陣屋を構えたのが始まり。
陣屋は、建物の周囲に堀、土塁をめぐらせた程度の小規模なものという。1664−1681年は幕府領となる。
この時期に堀がいったん埋められ、その後に入った本多氏が、堀を掘り直して、再度、陣屋程度の建物を構えた
といわれている。
寛延2(1749)年、本多氏に代わって、上野国から内藤氏が挙母藩入りし、築城を計画、1756年から
城の普請が始まるが、隅櫓など一部の建物が完成したが、度重なる水害などによって、城郭は未完のまま放棄
された。内藤氏は1779年、幕府に城の移転を願い出て、1781年、七州城の建築に着手する。
今回の調査区域は1450平方メートル。これまでの調査で、二の丸の石垣、堀、堀の護岸、倒壊した土塀
などの遺構が見つかった。これらは、内藤氏の桜城に伴う遺構で、それ以前のものは確認できない、という。
石垣は、4段目は崩れていたが、2〜3段分の高さ1.1メートルが、2個所で検出できた。延長は、それぞれ
30メートルと、10メートル。石垣の石は、矢作川沿いの産出で、硬い花崗岩。加工のための鑿の跡がいくつも
残るものがある。地盤が弱いため、最下段の石の下には胴木が敷かれている。
石垣の周りには、石が水で洗われないよう、杭を打ち込み板で囲った護岸が施されている。石垣から離れた
ところにも同じような護岸があって、その間が、深く掘られており、豊田市教委は、内藤氏時代に新たに
掘られた、と見ている。
また、堀から出土した塀の部材や土壁の堆積物から、幕府に提出した築造計画図の控え「三河国挙母城築造絵図」
にある築地塀が築かれていたことが分かった、としている。郭内部は、近現代の建物の造成によって、ほぼ壊滅
状態となっていて、内容は解明できない、という。
出土品の多くは、堀の中層から下層にかけて出土し、瓦や陶磁器が中心。子供の下駄も出土した。「詳細は整理
作業後となる」と豊田市教委発掘担当者は話している。
【写真は、出土した石垣と石が水で洗われないように杭を打ち込み板で囲った護岸=挙母城跡発掘現場で】