煙道付炉穴の平面形状は、楕円形が最も多いが、煙道部が長い長楕円形、焚き口に比べて煙出しの穴が小さい
2辺の長い2等辺三角形に近い形など様々。長さは、60cmから2mのものまであるが、60cmから1mの
小ぶりな煙道付炉穴が多いのが特徴。深さは20〜60cm。天井(トンネルの上部)の残るものが2基あった。
しかし、1基は発掘直後の雨で崩れた、という。強い火が焚かれたため、穴の床や壁面が赤く変色しており、
炉穴であることが分かった。
焼けた石が敷き詰められた集石炉(6)は、5基ほど見つかった。いずれも直径が1m程度と小さく、
径5cm程度の小ぶりの石が敷かれていた。長さ20〜30cmの台石が置かれたものもあった。発掘担当者の
岩瀬彰利・豊橋市美術博物館学芸員は、煙道付炉が壊れた跡に、石を敷き詰めて集石炉を造っている、との
見方を示した。
確認された縄文住居跡は、1個所で、径が約2〜2.5mの小さな楕円形。住居壁沿いに
環状に、30センチほどの間隔で、径10cm程度の柱穴が巡る。炉穴を壊して造られたため、床面から焼土が
出土した。
ほかに、住居跡の可能性が高い大型の円形土壙が数個発見された。発掘に伴って、住居跡や炉穴から出土した
縄文時代の土器類は、大川((7))式新段階に比定される押型文土器の破片しか見当たらないことから、岩瀬
学芸員は「縄文時代は早期前葉、今から約8,000年前の限定された期間に人の営みがあった」と説明した。
縄文時代以外の遺構では、約1,900年前の弥生後期前半の竪穴住居跡が1つ見つかった。8m×6mの
隅丸長方形で、4個の主柱穴が出土した。周囲に壁溝が巡らされていた。内部から木炭や焼土が多く出土。
建物内部から寄道((8))式の甕や壷の破片が見つかったことから、時期が特定された。また、焼土の出土
状況から、岩瀬学芸員は「弥生時代の竪穴住居は、廃絶後に火災に遭った」と説明する。
台地の内部では、中世から近世にかけての溝、貯蔵穴などが出土、岩瀬学芸員は「台地の縁で縄文早期、弥生
後期の遺構、台地上で中世、近世の遺構が見つかった。縄文早期前葉の竪穴住居、炉穴、集石炉と、当時の生活
ぶりを示す3点セットは、東海地方では三重県の鴻ノ木遺跡などで見つかっているが、県内で初めて確認された
ことは意義深い。将来、愛知県の代表的な縄文早期の遺構となる可能性がある」と締めくくった。
眼鏡下池北遺跡から、東方に石巻山がきれいに見渡せる。そして、眼鏡下池北遺跡に縄文人が住んでいたころに
は、石巻山の中腹に旅館はなかった。人々は、その形のいい石巻山を、まさに神の山として崇め、守り神として、
集落の安全、平穏を祈っていたことであろう。そんな考えが頭をよぎった。
帰り際に、案内係の女性に旧人のものと見られていた牛川原人の上腕骨が見つかった場所を聞くと、「この遺跡
から車で10分ほど東に行った所で、公園になっていて碑が建っている」という。「石巻山の麓ではない」との答
えも返ってきたが、やはり石巻山が眼前に見える場所であろう、と思いながら帰途に着いた。
【写真は、眼鏡下池北遺跡で見つかった天井が残った煙道付炉穴(手前)と集石炉(後方)】
<つづく>