見てきました                   猷々自的

隠れた名刹

 2004年12月5日、滋賀県湖南市甲西町岩根にある善水寺を訪れた。甲西図書館に 今城塚古墳の埴輪についての講演を聞きに行くが、開催時間までに余裕があったため訪れた。あいにくの 雨模様だったが、雨に濡れる紅葉がきれいだった。

 天台宗のお寺で、本堂が国宝に指定されている。南北時代の貞治5(1366)年の再建。木造平屋建て、 入母屋造り桧皮葺。住職は比叡山の根本中堂を模した堂という。本尊の薬師如来坐像など30余りの仏像を 安置している。薬師如来は、いつの時代からか秘仏とされ、公開は不定期で、現在公開の予定はない。

 本堂には、現存しない仁王門に飾られていたという仁王像が飾られている。住職の話では、平安中期の作で、 一木造。高さは2メートルを超える巨大なもの。これだけの大木は現在では得られそうにない。ただし、腕などは 接いであるという。鎌倉期の仁王に比べると、荒削りな感じで、精緻さはないが、それだけに迫力がある。

 同寺は、奈良時代の和銅年間(708−715年)に、元明天皇の勅命により、鎮護国家の道場として創建され、 初めは和銅寺と号した。延暦年間、最澄が比叡山をを開創、堂舎建立の用材を甲賀の地に求め、用材を切り 出し筏に組んだが、横田川(野洲川)の水が日照り続きで少なく、材を流すことができなかった。

 このため、最澄は降雨祈願のため浄地を探し、岩根山中腹から射した一筋の光に誘われ、堂の東の百伝 (ももつての)池から薬師仏を勧請。この薬師物を本尊として雨乞いをすること7日間、満願の日に大雨が 一昼夜降り続き、材は野洲川を下って琵琶湖の対岸にある比叡の麓に着岸したという。

 後に桓武天皇が病に倒れられた際、最澄が百伝池の水をもって、薬師仏の前で病気平癒の祈願をすること7日、 満行なって、この霊水を天皇に献上したところ、たちまち病気が平癒した。この縁で、桓武天皇に「善水寺」の 寺号を賜ったという。以上が同寺のいわれである。

 本堂のほか、元三(がんざん)大師堂、観音堂、行者堂がある。立冬後の晩秋の紅葉もみどころの一つである。それほどたくさんあるわけではないが、見栄えがする。  【写真は国宝に指定されている本堂=滋賀県湖南市甲西町で】


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