World > Africa > Democratic Republic of the Congo

Artist

FRANCO, VICKY ET L'OK JAZZ

Title

1963/1965/1966


63/65/66
Japanese Title 国内未発売
Date 1963 /1965 /1966
Label AFRICAN/SONODISC CD 36521(FR)
CD Release 1992
Rating ★★★★★
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 1960年6月30日、コンゴ共和国として念願の独立をはたしたのもつかの間、1週間後には軍隊の叛乱を契機に全面的な内乱に突入した。コンゴ動乱である。ベルギー国王の私的植民地からはじまったベルギー領コンゴは、他のアフリカ諸国にくらべると、ナショナリズムの発展が著しく立ち遅れていた。そのため、中央集権派のルムンバが首相、分権派のカサブブが大統領という矛盾をはらんだままのでの独立であったことが、両者の激しい対立を生んだ。内乱はまたたくまに地方にも飛び火して、分権派のチョンベはカタンガ州の独立を宣言するにいたる。

 旧宗主国ベルギーは同胞の保護を理由にカタンガ州へ軍隊を派遣、国連はその撤退を要求して、国際紛争の様相を呈しはじめた。その年の8月には、ルムンバ派のギゼンガ副首相がスタンリーヴィルで中央政府の樹立を宣言。61年2月、ルムンバ首相が逮捕・虐殺されると、カサブブを盟主とするレオポルドヴィル政権との対立はますます激化の一途をたどった。
 しかし、その年の8月、中道派のアドゥラを首班とする挙国一致内閣が成立して、スタンリーヴィル政権は自主的に解消、62年12月以降の国連軍の武力攻撃によって、63年1月、ついにチョンベはカタンガの分離を撤回し、ここに第1次コンゴ動乱は終結した。

 動乱の終結後も依然としてコンゴ情勢は安定せず、64年6月に国連軍が撤退しはじめると、ルムンバ派の流れを汲む反政府ゲリラの武力闘争は活発化し、第2次動乱に突入する。
 この間、アドゥラ政権は崩壊し、同年7月にはスペインへ亡命していたチョンベが首相に任命される。当初は反政府ゲリラ側に有利に展開し、首都レオポルドヴィルにもゲリラは攻撃をくり返した。O.K.ジャズもミュージック・クラブで演奏している最中に、ゲリラが放った銃弾の洗礼を受けている。
 秋口ごろから、中央政府軍が徐々に勢力を盛り返し、11月末のスタンリーヴィル攻防戦をはさんで、65年3月、政府軍の勝利のうちに動乱は終結した。

 しかし、カサブブ大統領とチョンベ首相との対立は激化の一途をたどり、ついに65年11月、軍最高司令官モブツが無血クーデタを起こして、政権を掌握するにいたった。モブツは大統領に就任すると、5年間の非常事態宣言をおこなった。ここからモブツがモロッコへ亡命する97年5月まで、33年間の長きにわたって、モブツ大統領による権威主義的な支配体制がつづくことになる。

 以上述べてきたような激動の政治情勢とはうらはらに、この時期、コンゴのポピュラー・ミュージックはアフリカで例を見ない成熟をとげていった。その頂点に立ったのが、いうまでもない、われらがO.K.ジャズである。

 62年にはヴィッキーとドゥ・ラ・リュヌが、翌年にはエドとシマロが復帰。フランコ晩年までのメンバーとなるヴォーカルの“シェケン”Lola Djangi 'Checain' 、トランペットのジャリ Christophe Djali、ナイジェリア人のサックス・プレイヤー、デル・ペドロ Dele Pedro もこのころ加入している。そして、O.K.ジャズに革新をもたらしたカリスマ的なサックス・プレイヤー、ヴェルキス Georges 'Verckys' Kiamuangana が参加したのも63年のことであった。

 ほかにも、ベースのピッコロ Piccolo Tshiamala とか、パーカッションのシモン Simon Moke とかもいたはずだから、63年の時点でO.K.ジャズは少なくとも15人前後のメンバーを抱え、もはやバンドというより、文字どおり、オーケストラといったほうがふさわしい大所帯になっていたわけだ。そのわりには、ヴォーカルも含めて、せいぜい10人前後の演奏にしか聞こえないのがO.K.ジャズの不思議なところ。なんにせよ、これだけ多くのメンバーにメシを喰わせていくのは至難のワザで、じっさい、借金のため、取り立て人から生活の糧ともいえる楽器を差し押さえられそうになったこともあったという。

 このように、財政面ではアントニオ猪木に勝るとも劣らない放漫経営のフランコであったが、さすがに第一級のミュージシャンを多数集めただけあって、音楽の密度はおそろしく濃いものになった。フランコは当時25歳前後。泉が湧き出すように、つぎからつぎへと新しいアイディアがほとばしっていたに相違ない。

 本盤は、O.K.ジャズがまさに絶頂期を迎えようとしていた63、65、66年の代表的な演奏を収めたファン必携のアルバムである。
 なかでも、フランコが書いた'NGAI MARIE NZOTO EBEBA' は、ラテン音楽のつよい影響から脱して、アフリカの伝統音楽の要素をとりこみコンガ独自のポピュラー・ミュージックとして完成させた最初の傑作として知られる。
「わたしはマリー、体はもうボロボロよ」とでも訳せばよいのか。マリーのボディを目当てにせっせとみつぐ既婚の男たち。妻たちは彼女を責め立てるが、彼女には彼女の言い分がある、というもの。マリーは売春婦なのかもしれない。マリーの口を借りて現代都市のモラルと風俗をするどく諷刺するという内容だ。

 ここでは“セベン”SEBENE と呼ばれる、コンゴ・ポピュラー・ミュージックの人気を決定づけた演奏スタイルがとりいれられている。セベンとは、わかりやすくいうと、単純なハーモニーの反復パターンをバックにしたヴォーカル・パートのあとに、ブレイクをはさんではじまるインストゥルメンタル中心のダンス・パート。連綿と一定のパターンをくり返すリズム・ギター、これにのせてソロを奏でるリード・ギターに加えて、これらのあいだを行き来する“ミ・ソロ”MI-SOLO とよばれるミディアム・ギターがセベンのキーを握っている。ここではまだ録音技術の制約から、ごく短いパッセージとはいえ、まさしくセベンのそれとわかる。

 フランコらのめくるめくギター・アンサンブルとならんで、光彩を放っているのが新加入のヴェルキス。かれのアルト・サックスは、ツヤやかでふくらみがあってひときわエモーショナル。ラテンとも、ジャズともちがう、リリカルなメロディとラディカルなビートを共存させたかれのブロウ・スタイルは、O.K.ジャズばかりでなくコンゴのポピュラー・ミュージックに革命をもたらしたといっていい。わたしが60年代のO.K.ジャズのサウンドがいちばん好きなのは、ヴェルキスのサックスがはいっているせいだと思う。

 この時期のO.K.ジャズの音楽について、もうひとつ特徴をあげるとすれば、スローなボレーロ・スタイルがある。フランコ作の'MBANDA OZWI KIZUNGU ZUNGU' のように、フランコ自身がリード・ヴォーカルをとることが多く、たしかに、ことボレーロにかんしては、ヴィッキーやエドよりも、ちょっと鼻にかかったようなフランコの声のほうが合っていると思う。メランコリックなギター、むせび泣くサックス、夜のコンガとあいまって、昭和30年代風ラテン歌謡のムードをかもしだす。雨のそぼ降る夜の新宿に独りたたずむトレンチ・コートの天知茂が目に浮かぶ。「昭和ブルース」が聴きたくなった。
 チャチャチャのようなキューバ音楽スタイルはめっきりなくなったが、この手のボレーロが、ほかにもエドの 'OYO NDE ZOBA' 、ドゥ・ラ・リュヌの 'KOSOKA BAZOBA NGAI TE' 、ヴィッキーの 'YEBA NAMEKI KOMEKA' 、クァミーの 'NAKOPESA YO ETUMBU' 、そして、なかでもすばらしいフランコの'BONDOKI NA BONIAMA' と計6曲も収められているのはうれしいかぎり。
 
 ギター、サックス、リズム・セクション、どれをとっても文句のつけどころがないが、ヴィッキー、エド、クァミー、ユールーら、最強のヴォーカル・ラインもエレガントさにますます磨きがかかって、これ以上は望みえないほどのすばらしさ。
 なかでも、ヴィッキーが書いた'MAKOSALA NAKOLOTA' は、ヴォーカルと楽器演奏、それぞれのよさが究極まで引き出された傑作だと思う。絶妙なハーモニーを聴かせる前半のヴォーカル・パートにつづいて、後半のセベンでは、反復されるギターとサックスのリフがからみ合いながら陶酔するようなグルーヴをつくり出す。セベンの部分で、欧米でルンバ・コンゴレーズをさすのに使われる「スークース」SOUKOUS のかけ声が聞かれることから、これは66年の録音とみていいだろう。

 全17曲、63、65、66年と録音年はまちまちで、この間、メンバーにも変動があるはずだが、サウンドの特徴に大きな変化は認められず、それぞれの録音年を特定することはむずかしい。ただ、いえるのは、どの曲にもまったくスキがなく、いまやO.K.ジャズは、コンゴのみならず、アフリカ・ポピュラー音楽の頂点を立ったということだ。


(8.3.03)



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by Tatsushi Tsukahara