World > Africa > Democratic Republic of the Congo

Artist

FRANCO, VICKY ET L'OK JAZZ

Title

1966/1967


1966/1967
Japanese Title 国内未発売
Date 1966 /1967
Label AFRICAN/SONODISC CD 36554(FR)
CD Release 1996
Rating ★★★★
Availability


Review

 O.K.ジャズのレーベル、EPANZA MAKITAとBOMA BANGOからリリースされたシングル15曲をコンパイル。このアルバムの性格をひとことであらわすと「センティメンタル&エレガント」。文字にするとクサイが、ホントにそうなんだから。

 冒頭の'G.G. YOKA' は、シマロが書いたセンティメンタルなバラード。サックスが主体のO.K.ジャズにはめずらしく、ここではトランペットがフィーチャーされる。メタリックな輝きを持つフランコのギター、ジャジーなトランペット、ジャッキー・マクリーン風のアルト・サックスも悪くないが、ここでの最大の聴きどころは、なんといっても天使のようにやさしく繊細なヴォーカル・ハーモニー。この陶酔するような美しさのためにアルバムを買っても惜しくはない。
 おなじくシマロが書いた'DIS LAURENCE' は、うって代わって軽快なナンバー。しなやかで美しいメロディ・ラインはいかにもシマロ好み。サビの部分でリード・ボーカルとコーラスとが間髪入れずに畳みかけるスタイルは、のちにO.K.ジャズの定番となった。フランコのギターと、キレのよいコンガほかパーカッションが、さわやかな風のように心地よい。

 つづく'TOZONGA NA NGANGA WANA' は、フランコが書いた数あるボレーロのなかでも屈指の美しさ。透明なヴォーカル・ハーモニーといい、ギターといい、リリカルなソプラノ・サックスといい、とろけてしまうぐらいにスウィート&マイルド。まさに桃源郷に入った心地。O.K.ジャズでもっとも好きな曲のひとつだ。
 ヴィッキーが書いたボレーロ'NAZALI KOLUKA YE LIKAMBA' も負けていない。ここではヴィッキーがめずらしく終始ソロをとる。これにフランコのムーディなギターがぴったりと寄り添う。そこには義兄弟の契りを交わしたふたりの甘く危険な香りさえ漂う(冗談)。シマロの曲のような目新しさはないが、じわじわと胸に沁みいる名唱といえよう。
 
 典型的なルンバ・コンゴレーズがつづくなかにあって、唯一異色なのが'QUE NE NUMERA EL SON' 。スペイン語のタイトルからして、既存のキューバ音楽のリメイクだろう。ソンかグァラーチャっぽく聞こえるが、ラテン特有のタメを効かせた歌と演奏はなかなか堂に入っている。しかし、いまになってかれらがこういう曲をとりあげる必然性はどこにあるのだろう。

 ところで、アフリカには、グリオが典型的なように、謝礼をあてにして特定の人物をたたえる“誉め歌”の伝統がある。フランコもパトロンや政治家の誉め歌をいくつも作っていて、本盤収録の'LUMUMBA, HEROS NATIONAL' もそのひとつ。

 コンゴ独立運動の指導者のひとりであったルムンバは、独立後、首相に就任したものの、まもなくカサブブ大統領と対立して逮捕・殺害されてしまった。かれの死後もその遺志を受け継いだルムンバ派が政府とのあいだに激しい武力闘争を繰り広げた。これが第2次コンゴ動乱。
 ルムンバが殺されたのは61年2月、政府側の勝利により動乱が終結したのは65年3月であることを考えると、どうしてこの時期にフランコがこんな曲を演奏したのか疑問が残る。思うに、これはルムンバの名を借りたモブツ大統領への誉め歌だったのではないか。モブツは内戦が終結した年の11月にクーデタを起こして政権を掌握した。つまり、前政権をくつがえしたモブツの行動を正当化する口実として、ルムンバの復権があったといえないだろうか。

 当初こそ、モブツの強権的なやり方にたいし、'LUVUMBA NDOKI'"CESAR ABOYA YO/TONTON 1964/65"(AFRICAN/SONODISC CD 36588)収録)で抗議の意を表明したフランコであったが、ダカールでおこなわれたワールド・フェスティバル・オブ・ブラック・アーツの代表に決まったのは、大統領の鶴の一声があったからとの話を耳にして以来、すっかりモブツの太鼓持ちになりはててしまったようだ。'AU COMMANDEMENT' をはじめ、モブツとかれの政党MPR(革命人民運動)をたたえた曲は数知れず、75年に発表されたアルバム"10eme ANNIVERSAIRE 1965-1975" にいたっては、LPをまるごとモブツに捧げるという体たらくぶり。

 そうはいっても、フランコが心からモブツに心酔していたと結論するのは早計な気がする。じつは、中央集権派ルムンバの政敵であったカサブブ大統領をたたえた'KODI YAYA, OYA' 、分権派のチョンベをたたえた'DR MOISE TSHOMBE' というようにポリシーなき全方位外交をちゃっかりおこなっているのだ。モブツの腰巾着ぶりを批判するのはたやすいが、そこには「長いものには巻かれろ」式の芸能民らしいしたたかな処世術があったとみてやるべきだろう。フェラ・クティは例外として、民主主義が未成熟なアフリカの社会にあって、ポピュラー音楽に体制批判精神を期待するのは酷な気がする。日本にだって、モブツのような専制政治家こそいないが、タイアップと称して、企業などのスポンサーに尾を振りまくっているミュージシャンが五万といるではないか。

 ところで、肝心の音楽のほうはというと、陽気でシンプルなルンバ・コンゴレーズ。本盤最長の6分におよぶこの曲で、フランコのギターはやたら元気な気がするが、サックス・ソロにはいつもの覇気が感じられない。お世辞にも名演とはいえないが、上にあげた“誉め歌”がほとんど復刻されていない現状ではそれなりの資料価値はあると思う。

 みてきたように、本盤のピークはほとんどアルバム前半に集中している。後半も悪くはないがO.K.ジャズとしては標準的な出来といったところか。
 'YAYI C''NATALI YONSO PAMBA''NANDI MI KOSASA''NABOYI LIBALA NA NOKO''NALINGALA BALOBELA NGAI TE' の5曲は、ソングライターとして、またソロイストとして円熟の域に達したフランコの安定した実力をしめす好例といえよう。いずれの曲も美しいコーラスとフランコの華麗なギターワークに焦点を当てたつくりになっていて、それなりに聴かせるものがある。

 ところが、O.K.ジャズのセベン・パートは、フランコのギターと、ときにフランコをも凌駕するヴェルキスの自由奔放なサックスとのスリリングなインタープレイにこそ最大の聴きどころであったはずが、ここでは全体にサックスの登場場面が以前より制限されているようにも聞こえてしまうのだ。しかも、ヴェルキス以外のサックス・プレイヤーにソロを任せるケースもいくつかみられ、ヴェルキス・ファンとしては少々不満。ここに来て、フランコのワンマン体制にますます拍車がかかってきたことのあらわれなのかもしれない。


(9.1.03)



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by Tatsushi Tsukahara