フランコの容姿に目に見えて変化があらわれたのは88年のことであった。一時は140キロあった巨体はすっかり痩せ細り、生気が衰えあきらかに病んでいる様子だった。かれの健康にかんするさまざまなうわさはまたたくまに国中をかけめぐった。なかでも、まことしやかにささやかれたのは、フランコがエイズに罹っているというものだった。しかし、フランコは持病の高血圧と糖尿病、それにストレスからくる心臓への負担を和らげるために故意に体重を落としているのだと弁明した。
それでもうわさはいっこうに治まる様子はなかった。そこでフランコは50歳をむかえた7月6日の誕生日に、老朽化した“アン・ドゥ・トロア”に代わってTPOKジャズがホーム・グラウンドにしていた“フォブール”のステージにあらわれファンに健在ぶりをアピールした。しかし、フランコがステージでギターをプレイしたのはほんのわずかな時間だったことに加え、かれの体調はだれの目にもけっしてよくは映らなかったことから、ファンの心配はいっそう募るばかりだった。
その後、フランコは、TPOKジャズを召集してブラザヴィルのIADスタジオで何曲かレコーディングをおこなうと、10月にはヨーロッパへ戻っていった。パリで数日間滞在ののち、ブリュッセルのスタジオにはいり、ブラザヴィルから持ち帰ったマスターテープへのオーヴァーダブ作業と新曲のレコーディングをおこなった。
ブリュッセルであらたにレコーディングした新曲の1つに、取り沙汰されている数々のうわさへのアンサー・ソングといえる'LES RUMEURS (BAISER YA JUDA)'「うわさ(ユダのキス)」があった。
いろんなうわさが国中をめぐっている。
おれのうわさをひとはいいふらす。
やつらは言う、
「アイツは入院している」
「ンガリエマで見た」
「ブリュッセルへ行った」
「アントワープで見た」
「パリへ行った」
「ジュネーブで見た」
「アメリカへ行った」
「党があいつのチケットを買った」
こんなパラグラフがコーラスでくり返し歌われたあと、フランコ本人のヴォーカルによる主題部にはいる。
まず、リンガラ語で「おれはいろんな病気に罹っているらしい」、「キンシャサで3度、ヨーロッパで3度死んだことになっている」、「おれが病気で苦しんでいるのをみてやつらはしあわせいっぱいだ」などと、目一杯毒づいてみせる。
そのあと、フランス語に切り替えて、旧約聖書の一節(詩篇第41篇)を引用する。
すべてわたしを憎む者は
わたしについて共にささやき、
わたしのために災いを思いめぐらす。
彼らは言う、
「彼に一つのたたりがつきまとったから、倒れ伏して再び起きあがらないであろう」と。
わたしの信頼した親しい友、
わたしのパンを食べた親しい友さえも
わたしに背いてくびすをあげた。
ここでふたたびリンガラ語に戻って、ひとの不幸をダシにしている世間への猛烈な不信感を吐露する。
ひとは言う、「かれはすでに望みを成し遂げた、子どもたちへの財産分与を済ませた」と。
そんなことをだれが言った?それは妄想だ。
ひとが死にゆくとき、
ひとが病んでいるとき、
ひとが苦しんでいるとき、なぜにやつらは笑うのか?
キンシャサでもどこでも、こんな思いをかつてしたことはない。
キンシャサには情けある人間などひとりもいない。
おれになにが言えるというのか?
この'LES RUMEURS (BISER YA JUDA)' は、88年にリリースされた2枚のLP"LA RESPONSE DE MARIO" と"CHERCHE UNE MAISON A LOUER POUR MOI,CHERIE" 収録曲と同時期にレコーディングされたが、発売は見送られた。この曲がはじめて日の目を見たのは、フランコの死から5年が経過した1994年にリリースされた本盤においてであった。
当時は気づかなかったが、いま、あらためて聴き返してみると「これが本当にフランコの声なのか?」と疑いたくなるぐらい、声が弱々しい。なんでもレコーディング中、フランコは信じられないぐらいの高熱を発したらしい。それでもかれは夜を徹してレコーディングをつづけた。そのとき、フランコはメンバーにこう言ったという。「病を得てからというもの、こんなに長い時間、立ったままでいたのははじめてだ」。
そんな事情を知ってしまったいまでは、シンセドラムやキーボードなど、余計なおかずが盛られているのにもかかわらず、悲痛さばかりが胸に突き刺さってやりきれない感情に見舞われてしまう。「フランコさまよ、あなたはそれでもなお、そう言わずにはいられなかったのか」。
フランコの体調に考えれば、これがラスト・レコーディングになってもおかしくないところ、年が変わった翌89年2月(88年12月説もあり)にブリュッセルで、サム・マングワナと約6年ぶりのレコーディングをおこなった。マングワナの申し出により、それぞれのイニシアチブでアルバム2枚を発売し、歌う場合を除けば互いにノーギャラで協力することで了承された。
長いこと、わたしがフランコの遺作と信じていたCD"FOR EVER"(SYLLART/MELODIE 38775-2)は、マングワナがフランコの協力を仰いだ同タイトルのLP4曲に3曲を追加したものだった。30数年間、駄作のなかったフランコが最後の最後になって放った失敗作だと思っていたが、マングワナのアルバムへの客演参加だったというのなら、さもありなんという気がする。
そういえば、タブ・レイのイニシアチブで83年に制作されたコラボレーション・アルバム"L'EVENEMENT!"(GENIDIA/SONODISC GENCD 1003)もほめられた出来とはいえなかった。
セッション・ミュージシャンに少数のTPOKジャズのメンバーが参加したこのアルバムで、フランコが歌っているのは冒頭の'TOUJOURS OK'「いつでもOK」1曲のみ。ギターでの参加はこの曲と続く'CHERIE B.B.' の2曲のみのように聞こえる。
サウンド・カラーは、シンセを駆使した、いかにもパリ発信らしい「ワールド・ミュージック」という感じの軽いノリ。だから、このアルバムの意義は、中味よりむしろ、見る影もなく痩せさらばえたフランコを写したジャケットのほうにある。
"FOR EVER"の数ヶ月後に、今度はフランコの主導で4曲入りLP"FRANCO JOUE AVEC SAM MANGWANA" が発売された。全4曲約30分のうち、フランコのヴォーカルが確認できるのは冒頭の'LUKOLI' のみ。他の3曲でもフランコ風のギターは聞けるが本人の参加は怪しい。TPOKジャズならではの重厚さはないが、"FOR EVER" とくらべればまだO.K.ジャズらしい。'LUKOLI' はフランコ作のハチロク調フォルクロール。音がライトなせいか、ジンバブウェのチムレンガを思わせる。(音源を提供いただいたF-BEATの土井さんに感謝)
ここにとりあげたアルバム"LES RUMEURS" には、このときの未発表テイク'LAISSEZ-NOUS TRANQUILLES' が収録されている。'LES RUMEURS (BAISER YA JUDA)' と同じく12分以上におよぶこの曲は、スパニッシュ風ギターがはいるイントロこそ風変わりだが、あとはいかにもフランコらしいミディアム・テンポの男っぽく乾いた演奏。リード・ヴォーカルはマングワナがとっている。
歌詞の内容からいって'LES RUMEURS (BAISER YA JUDA)' がLPに収録されなかったのは理解できても、なんでこの曲が未発表だったのか不思議でならないぐらいにクオリティは高い。
本盤には、ほかに'LES RUMEURS (BAISER YA JUDA)' とおなじ88年11月にブリュッセルでレコーディングされた3曲を収録。このうち'BATELA MAKILA NA NGAI' は、'SADOU' のタイトルで"FRANCO ET LE TOUT PUISSANT O.K.JAZZ"(ESPERANCE/SONODISC CD 8462)に収録済み。ということは、本盤はいわれているように未発表曲集じゃなくて、正確には全5曲中4曲が未発表テイクということになる。
マディルとフランコがヴォーカルをとる'BATELA MAKILA NA NGAI' ('SADOU') は、孤独感がきわだっていた前2曲とはうらはらに平和的で愛らしいメロディラインが特徴的。本盤収録曲にはすべてキーボードが使用されているけれども、音楽にもっとも違和感なく溶けこんでいるのはこのナンバーだと思う。
いっぽう、元気のよさの点で本盤随一なのが'FABRICE AKENDE SANGO'。シンセ・ドラムを多用した軽快なリズムにのせて、フランコとコーラスとがシンプルなメロディを交互にやりとりする。 9分過ぎからの約3分間がセベン・パート。晩年のフランコのレコーディングとしては長い部類に属するだろう。これまで以上に軽くドライなタッチのギターがくり出す反復的なアンサンブルは、チムレンガのような陶酔的なグルーヴ感をさそい、ひたすら気持ちいい。
フランコが書く曲は後年になればなるほど構造がシンプルになっていった。こうして極限までぜい肉をそぎ落としていった果てに生まれたのが'MBANDA AKANA NGAI' だと思う。わたしは、このわずか7分あまりの、シンプルでゆったりしたナンバーをこよなく愛する。とりわけ、曲の後半に差し挟まれるギター・ソロの、祈りにも似た悲しい響きにはつよく心を揺さぶられる。まるでみずからにむけた鎮魂曲のようだ。
最後に、"FOR EVER"セッションからフランコが死を迎えるまでの経過を簡単に記しておきたい。
"FOR EVER"セッションを終えた翌3月、フランコはTPOKジャズを連れて、マングワナとともにロンドンでコンサートを開くことになっていた。だが、ロンドンでのコンサートはまたも中止になった。これはフランコの体調のせいではなく、フランコにビザが下りなかったためであった。
やむなくキンシャサへ一時帰国すると、約6週間滞在ののち、4月の終わりにはふたたびヨーロッパへ戻っていった。
そして5月、療養中のフランコを残して、TPOKジャズのメンバー17名は2度目のアメリカ・ツアーへ旅立っていった。アメリカ・ツアーは約3ヶ月間の長いロードで、途中フランコが合流するとのうわさがあったが、結局フランコはあらわれなかった。
フランコの病状は、かれが51回目の誕生日をむかえた7月にはすこしよくなっていたが、バンドがブリュッセルへ戻ってきた8月になるとふたたび悪化していた。このころ、ヨーロッパでおこなわれたテレビ・インタビューで、フランコは自分がエイズに罹っているといううわさをかたくなに否定している。
9月、フランコは前回キャンセルになったロンドンでのコンサートをあらためて開くべく、契約のため病をおしてロンドンへ渡る。しかし、かれの様子を見て、ひとびとはこの約束は2度と果たされまいと予感した。ブリュッセルへ戻ると、著名なエイズ専門医がいるサン・ピエール病院へ入院する。
TPOKジャズのサックス・プレイヤーで、フランコの秘書のような役割をしていたロンドは語る。9月22日、TPOKジャズがアムステルダムのMELKWEGというクラブでコンサートを開くことを話すと、フランコは突然、病室のベッドから起きあがり、こう言いはなった。「おれのTPOKジャズがプレイしている。おれはそこにいなければならない。急げ。車でおれをそこへ連れて行ってくれ」。
このとき、フランコはすでに死を覚悟して、ステージの上で死にたいと思っていたにちがいない。メンバーに手を引かれてよろよろとステージにあらわれたフランコは、イスに座っておぼつかない様子で歌とギターを披露したが、その姿はあまりに痛々しく正視に耐えないものだったという。これがフランコ最後のステージとなった。
その後、サン・ピエール病院からナムール大学病院へ転院。 10月11日夜、危篤状態に陥る。そして、翌朝、フランコはついに還らぬ人となった。1989年10月12日、木曜。享年51歳。
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