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Artist

ROCHEREAU & L'AFRISA INTERNATIONAL

Title

1973-1974-1975-1976


73-76
Japanese Title

国内未発売

Date 1973 - 1976
Label SONODISC CD 36544(FR)
CD Release 1995
Rating ★★★★☆
Availability


Review

 フランコと並び称せられるコンゴ・ミュージック界の巨人であるのに、なぜか日本での評価はあまり高くない。ルンバ・コンゴレーズの持ち味である優雅さにシャープでワイルドな感覚が加味されたフランコの音楽とくらべると、全体にまったり感がつよく、かくいうわたしもあまり得意なほうではなかった。
 CDは、フランコほどではないにせよ、星の数ほどリリースされていて、どれも似たり寄ったりというイメージがあった。しかし、今回このために、けっして多いとはいえない(といっても20枚近くはある)手持ちのアルバムをひととおり聴き返してみて感じたのは、みなそれぞれに特徴があり思いのほか楽しめたということだ。それらのなかから1枚だけ選ぶのには苦労したが、聴いていちばん素直に楽しめたということで最終的に本盤を採ることにした。
 
 ロシュロー Pascal Rochereau のミュージシャンとしてのスタートは、コンゴ・ポピュラー音楽の父といわれるグラン・カレ Le Grand Kalleことジョゼフ・カバセル Joseph Kabaselle 率いるアフリカン・ジャズ African Jazz だったことはよく知られている。ところが、アフリカン・ジャズの代表曲'INDEPENDANCE CHA-CHA'「独立チャチャ」のセッションにかれは参加していない。
 「独立チャチャ」は、60年1月、ブリュッセルで開かれた独立円卓会議にアフリカン・ジャズが同行した際に現地でレコーディングされた。このころ、すでにロシュローはアフリカン・ジャズをバックに歌っていたが、O.K.ジャズからヴィッキー・ロンゴンバ Vicky Longomba が急きょメンバー入りしたためにヨーロッパへは連れて行ってもらえなかった。しかも驚くべきことに、グラン・カレより、ヴィッキーの代わりにO.K.ジャズのシンガーをつとめるよう要請されたらしい(残念ながら、ロシュローがじっさいにO.K.ジャズに参加したという記録は残されていない)。
 
 ロシュローがアフリカン・ジャズの正式なメンバーとして迎え入れられたのは、円卓会議から帰国した直後にヴィッキーがグループを脱退してしまったことから。ときにロシュロー20歳。
 翌61年にリリースされた'AFRICA MOKILI MOBIMBA'「アフリカから世界へ」は全アフリカ諸国で大ヒット。まさに飛ぶ鳥を落とす勢いのアフリカン・ジャズにあって、ロシュローはメキメキと頭角をあらわしていく。
 
 そんななか、ギャラの支払いが滞っていることにかねてから不満をいだいていたドクトゥール・ニコ Nicolas Kasanda wa Mikalayi 'Docteur Nico'、ロジェ Roger Dominique Izeidi Mokoy、ロシュローら主要メンバーは、グラン・カレを見限って、64年、アフリカン・フィエスタ African Fiesta を旗揚げする。65年にはO.K.ジャズから人気シンガーのクァミー Jean 'Kwamy' Munsi Diki を引き抜いて、人気を盤石のものにしたかにみえたのもつかの間、ロジェが単身渡米中に起こした身勝手な行動がもとで、ニコとロジェの対立が表面化。そして66年はじめ、ついにグループは分裂する。
 
 いっぽうは、ニコをリーダーに、兄のドゥショー Charles 'Dechaud' Mwamba Mongala、クァミーらで結成されたアフリカン・フィエスタ・スキサ African Fiesta Sukisa。他方が、ロシュローとロジェを双頭リーダーとして結成されたアフリカン・フィエスタ66 African Fiesta 66(翌年アフリカン・フィエスタ・ナショナル African Fiesta National と改名)であった。若き日のサム・マングワナ Sam Mangwana もこのとき、シンガーとしてグループに加入している。
 
 “ギターの神様”ニコとドゥショーが、コンゴ音楽の定番となっていくつづれ織りのようなギター・アンサンブルのスタイルを完成させれば、ロシュローは、人生を省察した'MOKOLO NAKOKUFA' 、人種問題にふれた'MARTIN LUTHER KING'(ともにROCHEREAU & L'AFRICAN FIESTA NATIONAL "1966/1969"(SONODISC CD 36525)に収録)など、歌詞を重視した楽曲で対抗した。
 また、ニコとドゥショーのコンビと張り合うためにジャン・パウル“ガヴァノ”ヴァング Jean Paul 'Guvano' Vangu とジョン・ボカサ John 'Johnny' Bokasa の2人のギタリストを登用、当時はめずらしかったドラム・キットを使ってみたり、'MARTIN LUTHER KING' のように8分をこえる長尺曲をレコーディングしてみたりと、音楽的にも新しい試みを積極的におこなっている。
 
 そしてついに67年末、モブツ大統領夫妻の主催による一大ページェントのメインに抜擢される。しかし、かれらがステージにあらわれたときは午後11時をとうに回っていて、会場に大統領夫妻の姿はすでになかった。このことがもとで、かれらは年が改まった68年1月からむこう3ヶ月間、国内での活動を禁止されてしまった。バンドが機能不全に陥ったことで、サム・マングワナやガヴァノら主要メンバーが相次いでグループを離脱。ロシュローとロジェは、一からの出直しを強いられるハメになってしまった。
 この事件を機にロシュローは“マレシャル”(元帥)の称号を捨て、“セニョール”(閣下)と名のるようになった。そして69年にはパートナーのロジェをバンドから追放。独裁体制を強化していく。
 
 70年12月にパリのオリンピア劇場でおこなわれたロシュローとアフリカン・フィエスタ・ナショナルのコンサートは、コンゴのポピュラー音楽がヨーロッパで知られるきっかけをつくった歴史的出来事だった。ロシュローはダンサーを含む総勢20名におよぶメンバーを引き連れて出演。コンサートは大絶賛のうちに終わった。そのときの熱気をドキュメントしたのが、LE SEIGNEUR ROCHEREAU & L'AFRISA INTERNATIONAL "A L'OLYMPIA (PARIS) - 1970"(SONODISC CD36568)として復刻されている。
 この成功に気をよくしたロシュローは、世界市場を視野におさめてグループ名をアフリザ・アンテルナショナルAfrisa International と改名した。
 


 人生は浮き沈みというが、ロシュローの場合、それがあまりに短期間のうちにくり返される。
 71年、モブツ大統領がうちだしたオタンティシテ政策にのっとって、ザイール的呼び名“タブ・レイ”Tabu Ley と改めると、レイとアフリザは政府が主催するコンサートにも積極的に出演するようになっていた。
 しかし、その年のなかばごろ、ギャラの長期未払いにより主要メンバーがいっせいにグループを離脱する事態に見舞われる。このことがもとでレイは勾留されるハメに。すっかり自信を失ったレイは釈放後もしばらくのあいだ、いっさいの音楽活動から身を退くことになった。さらに、アフリザのキイ・マンであったトランペット奏者のウィリー・クンティマ Dominique 'Willy' Kuntima が交通事故死したことも、傷心のレイに追い討ちをかけた。オリンピア劇場の絶頂から奈落へ、わずか1年足らずのあいだの急転直下の出来事だった。
 
 しかし、レイは不屈の闘志でよみがえる。
 72年には、サム・マングワナのフェスティヴァル・デ・マキザール Festival des Maquisards に一時身を寄せていたギタリストの“ミシェリーノ”Michelino ことマヴァティク・ヴィシ Mavatiku Visi がグループに復帰。名サックス奏者エンポンポ 'Deyesse' Empompo Loway も戻ってきた。オタンティシテにインスパイアされてレイが書いたアコースティックの名曲'MONGALI'TABU LEY ROCHEREAU "1971-1972-1973"(SONODISC CD 36552)に収録)をはじめ、出す曲すべてがザイール・トップ10の上位を独占するという快進撃であった。こうしてタブ・レイとアフリザ・アンテルナショナルは第二の黄金期をむかえた。
 
 わたしは、タブ・レイ・ロシュローの音楽がもっともエネルギッシュで創造的だったのは、70年代はじめから後半にかけてだと思っている。ペペ・ンドンベ 'Pepe' Ndombe Opetum、ミシェリーノ、エンポンポ、ディジー・マンジェク 'Dizzy' Mandjeku Lengo といった後年、フランコのTPOKジャズを支えることになる名だたるミュージシャンたちが、この時期にレイのもとでプレイしていた。レイとフランコはけっして交わらない2つの大河といわれるけれども、かれらの存在がアフリザとTPOKジャズのあいだに橋を架け、それぞれのサウンドに少なからず変化をもたらしたことを見落としてはならないと思う。
 


 この編集盤は、まさにその時期、1973年から76年までに発表された音源全8曲からなっている。
 冒頭の'KAFUL MAYAY' は、レイの出自であるヤンシ族の伝承歌をベースに、これに新たな歌詞とモダンなアレンジを施した意欲作。74年末にシングル・リリースされるや、シマロが書いたTPOKジャズのロングラン・ヒット'MABELE' をトップの座から追い落とした。
 
 パームワイン・ミュージックを思わせるつっこみ気味のギターリフと、つっかえるような民俗っぽいスネアのリズムに、嘆きとも心の叫びともとれるレイのヴォーカルがおおいかぶさる。
 曲の後半から民俗的な男性コーラスで「カフル・マヤイ、カフル・マヤイ」が反復されはじめると、その合間を縫うように、レイのしぼり出すようなヴォーカルとこれに呼応した泣きのサックス・ソロがさしはさまれる。この情緒に直接訴えかけてくるようなベタで繊細なヴォーカルこそ、アフリザ最大の魅力であり、ひとによっては敬遠の理由になっているのだと思う。
 
 この歌は、親の決めた結婚相手から日々暴力をふるわれる女性マヤイが結婚生活の悲惨を実母に切々と訴えかけるという内容。それは近代化の流れのなかで生じた旧い共同体意識のひずみが映し出されているだけではなく、暴力的な夫に仮託してモブツの強権的な支配への民衆の不満を代弁したととることもでき、そんなところが国民的な大ヒットを呼んだ理由といえるかもしれない。
 
 リンガラ音楽の魅力のひとつである後半のダンス・パート“セベン”でキイを握るのが、ソロ・ギターとリズム・ギターの中間に位置する“ミ・ソロ”とよばれるギターの役割。その“ミ・ソロ”の名手といわれたのがミシェリーノことマヴァティク・ヴィシである。この時代のアフリザでサウンド・クリエーターのような役目を担っていたのはミシェリーノ(ロシュローをタブ・レイというのなら、むしろマヴァティク・ヴィシというべきだろう)だったとわたしはみている。マヴァティクは、一時サム・マングワナらとフェスティヴァル・デ・マキザールに流れたあと、70年ごろにアフリザに復帰した。アフリザにソウルフルでファンキーな感覚をもたらした最大の功労者はおそらくかれだろう。
 たとえば、マヴァティクが書いた'MAYEYA'でのギター・カッティングやストップ・タイムの手法、レイによる'AON AON' でのワウ・ペダルを駆使したギター・プレイなどはソウル・ミュージックからの影響がモロにあらわれている。
 
 当時、アフリザは、ほかにロカッサ・ヤ・ムボンゴ Lokassa ya Mbongo とオルケストル・コンティネンタルから来たボポール・マンシャミナ Bopol Mansiamina のギター、“フィロ”コラ・ンタルル 'Philo' Kola Ntalulu のベース、モデロ・メカニシ Modero Mekanisi のサックスというように最強の布陣を誇っていた。
 マヴァティクは75年にフランコのTPOKジャズに引き抜かれてしまうが、その後任にはいったディジー・マンジェク Dizzy Mandjeku も、76年末に加入したディノ・ヴァング Dino Vangu も有能なギタリストだった。
 しかし、西アフリカ・ツアー中の78年3月に立ち寄ったコート・ジヴォアールのアビジャンでマンジェク、ロカッサ、ボポール、フィロらはグループをごっそり脱退。ひとあし前に現地に来ていたサム・マングワナと合流してアフリカン・オール・スターズ African All Stars を結成する(フィロのみ不参加)。結成まもないころのかれらの音源は、現在 SAM MANGWANA "GEORGETTE ECKINS"(SONODISC CDS 7002)のタイトルでCD復刻されている。
 
 さらにもうひとり、この時代のアフリザに欠かせないキイ・マンがいる。サックス・プレイヤー、エンポンポ・ロワイだ。女性歌手ムポンゴ・ロヴを見出したことでも知られるかれは、当時、準メンバー扱いだったようだが、そのファンキーなブロウはアフリザ・サウンドにダイナミックな広がりを与えた。
 エンポンポが書いた本盤収録の'LISALA NGOMBA' での分厚いホーン・セクションには、ヴェルキスのオルケストル・ヴェヴェをも凌駕するファンキーさが備わっていて、どちらかというと繊細な印象があるアフリザ・サウンドのイメージを完全にくつがえしている。
 
 アフリカン・フィエスタ・ナショナルから事実上、音楽キャリアをスタートさせたサム・マングワナも、マキザール、TPOKジャズを経て、この時期、アフリザに復帰している。しかし、ギャラの折り合いがつかなかったことから、かれが在籍したのはほんのわずかな期間だった。うれしいことに、本盤にはマングワナの参加が確認できる貴重な録音が収録されている。マングワナが書いた'MOSE KONZO' がそれだ。録音は、たぶん75年後半から76年前半のあいだだと思う。
 
 なによりも驚いたのは、ゆったりしたヴォーカル・ハーモニーではじまり、後半から一気に加速してしてリード・ヴォーカルとコーラスとが交互にやりとりして最後はギター中心のセベンで閉めるというTPOKジャズそっくりの構成になっていることだ。最初にリード・ヴォーカルをとるのがマングワナで、つづいてレイの順になっているものの、ここでの主役はどちらかといえばコーラス・ラインのほうでレイの存在感は薄い。前に述べたエンポンポの'LISALA NGOMBA' もそんな感じだ。
 個人的に大好きなナンバーではあるが、TPOKジャズの演奏といわれてもわからないぐらいだから、アフリザがこれを演奏する必然性はどこにあったのか疑問だ。でも、くり返すが内容はすばらしい。
 
 60年代終わりごろからザイコ・ランガ・ランガに代表されるいわゆる第3世代が台頭してきて、1曲の演奏時間がぐーんと長くなってきた。TPOKジャズのような第2世代もかれらに負けじと、70年代なかばごろには演奏時間が10分近くにまで及ぶようになる。
 レイの場合、歌に重きを置いていたこともあってか、本盤でも5分前後の演奏時間が中心だが、例外は'MELA 1&2''LONGWA NA NZELA 1&2' の2曲。レイ作による10分近いこれらの曲は、おそらくディジー・マンジェクとディノ・ヴァングのコンビによるシャープでスピーディなギター・ワークがスリリングで、TPOKジャズ以上に第3世代への対抗意識が感じられるギター・バンド的な演奏内容といえそう。


 
 今回、タブ・レイ・ロシュローの音楽をひととおり聴いてみて感じたのは、かれの歌い手としての個性は十分すぎるほどに強烈であった反面、サウンド・クリエイトの面ではフランコほどの主体性が備わっていなかったということだ。思えば、グラン・カレの模倣にはじまり、ニコが流行ればそれにならい、R&Bスタイルをとりいれてみたり、O.K.ジャズやザイコをまねてみたりと無節操なことこのうえない。しかし、この機を見るに敏な柔軟性があったればこそ、今日にいたるまで第一線で活躍してこられたのだと思う。
 
 さらにつけ加えると、かれには若い才能を発掘し活用する能力が人並みすぐれていたということである。しかし、みてきたように、せっかく発掘した才能もいったん花開くや、まもなくかれを見限ってしまうというのもレイの吝嗇のなせるワザか。
 この稿ではふれなかったが、レイが80年代なかばに発掘した最高傑作が女性歌手ムビリア・ベル Mbilia Mboy 'Mbilia Bel' であろう。彼女とのあいでには子どもまでもうけたが、結局、数年で逃げられてしまった。
 なんかかわいそうな気さえしてしまうが、考えてみれば、このことによってアフリザは新陳代謝がよくなり長生きできたといえなくもない。つまるところ、タブ・レイという個性さえあれば、どんな音楽スタイルをとろうともタブ・レイの音楽なのだ。


(4.18.04)



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by Tatsushi Tsukahara