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Artist

NICO ET L'AFRICAN FIESTA SUKISA

Title

MERVEILLES DU PASSE : ETERNEL DOCTEUR NICO


eternel dr nico
Japanese Title

国内未発売

Date 1966-1968
Label AFRICAN/SONODISC CD 36516(FR)
CD Release 1992
Rating ★★★★☆
Availability


Review

 1949年、レオポルドヴィルに新設されたオピカ・スタジオが生んだ最初のスターはジミー Jhimmy と名のるブラザヴィル出身の20歳そこそこの青年だった。かれは、自然なヴィブラートがつくれる“ハワイアン”と名づけた独特のギター奏法を編み出した。やがて、アコースティック・ギターと簡単なパーカッションから編成されたジミーのバンドに、透明なきれいなソプラノで歌う10代なかばの少年が加入する。かれの名はシャルル・ムワンバ (Charles) Mwamba Mongala といった。
 シャルル少年はジミーからギターを教わって、メキメキと腕を上げていく。いつしかひとはかれのことを「熱いヤツ」、“ドゥショー”'Dechaud' と呼ぶようになった。

 ところで、シャルルには39年生まれの4歳下の弟がいて名をニコラス・カサンダ (Nicolas) Kasanda wa Mikalayi といった。弟は兄からギターの手ほどきを受けると、兄が努力してジミーから手に入れたテクニックを苦もなくものにしてしまった。まもなく、両親の反対にもかかわらず、弟も兄とおなじプロのミュージシャンになる道を選んだ。のちのドクトゥール・ニコ Docteur Nico、このとき、まだローティーンの少年だった。

 おなじころ、オピカと契約した若きシンガーにジョゼフ・カバセル (Joseph) Kabasele Tshamala がいた。やがて、カバセル、ドゥショー、ニコ、兄弟のいとこといわれるティノ・バローザ Tino Baroza らはともに活動するようになり、53年はじめ、カバセルのアイデアでバンドとしてスタートを切った。グループ名はアフリカン・ジャズ African Jazz といった。
 50年代なかばから60年代はじめにかけて、コンゴのみならず、独立気運で盛り上がるアフリカ諸国で、かれらが熱狂的な人気を博したことはいうまでもない。カバセルは、敬意を込めて“グラン・カレ”'Le Grand Kalle'、“カレ・ジーフ”'Kalle Jeef'、“カレ・デュ・ランスピラション”'Kalle de l'Inspiration' などと呼ばれた。



 しかし、63年、ニコ、ドゥショー、ロシュロー、ロジェら主要メンバーは、金銭問題からリーダーのカバセルに三くだり半を突きつけるとかれらで新グループ、アフリカン・フィエスタ African Fiesta を結成した。"L'AFRICAN FIESTA: NICO, ROCHEREAU, ROGER VOL.1 (1962-1963)"と、ROCHEREAU, NICO, MUJOS & L'AFRICAN FIESTA "NDAYA PARADIS (1962/1963/1964)" の2枚にはサブタイトルに「1962年」とある。ふつうならこんなことはありえないのだが、前者のアルバム冒頭にはニコが書いた'BILOMBE YA AFRICA' という曲が収録されていて、その歌のなかで「アフリカン・ジャズ」のことばが聞こえてくることからして、アフリカン・フィエスタ結成前のレコーディングが含まれていてそれが62年だったのではないか。
 
 どうやらニコたちは当初、カバセルを追い出して、自分たちがアフリカン・ジャズを名のってレコードを出す気でいたようだ。ところが、アフリカン・ジャズの名称(および楽曲)の権利はカバセルが所有するとの司法の判断でアフリカン・フィエスタを名のることになったというのが真相らしい。

 ロシュローのとろけるようなヴォイスと、ニコのハワイアン・スティール・ギターを中心に、途中、クァミーやムジョスなどの実力派をメンバーに加えながらアフリカン・フィエスタは高い人気を誇った。

 アフリカン・フィエスタは、ニコ、ロシュロー、ロジェをリーダーとするトロイカ体制を採っていた。ロジェ・イゼイディ (Roger Dominique) Izeidi Mokoy はミュージシャンとしてよりも、レコード会社との契約をまとめるなどビジネス・マンとしての才能に秀でた男だった。しかし、65年末、ロジェのアメリカ旅行を機に、かれの勝手なやり口にたいするニコの怒りがついに爆発。ロシュローがあいだにはいってとりなすも効なく、翌年1月グループは分裂した。

 兄のドゥショーのほか、クァミー (Jean) 'Kwamy' Munsi Diki、パウル・ミゼレ Paul 'Paulins' Mizele 、ランベール Lambert 'Vigny' Kolamoy の3歌手、トランペッターのジーフ・ミンギーディ 'Jeef' Mingiedi がニコと行動を共にした。かれらに、ギタリストのドゥ・ラ・フランス Pierre 'De La France' Bazettaらが新メンバー加わりアフリカン・フィエスタ・スキサ African FiestA Sukisa(以下「スキサ」)が誕生した。
 スキサとは、「やめる」とか「止まる」の意味で、「オレたちはいかなる挑戦にも動じることはない」ということらしい。ちなみにアフリカン・フィエスタ時代にニコが書いた曲に'SUKISA'"L'AFRICAN FIESTA: NICO, ROCHEREAU, ROGER VOL.1 (1962-1963)" 収録) というのがある。
 もう一方は、ロシュローとロジェをリーダーとするアフリカン・フィエスタ66(翌年アフリカン・フィエスタ・ナショナルと改名)だった。



 60年代後半、ナショナル、O.K.ジャズバントゥら並みいるライヴァルたちを押さえて、ニコのスキサは絶頂期を迎えた。
 スキサの売りは、なんといっても史上最強のギター・トリオ。リード・ギターは「ギターの神様」'dieu de la guitare' ドクトゥール・ニコ。リズム・ギターは「ルシフェルと50万匹の悪魔たちをダンスさせる」といわれたドゥショー。そして、機に応じてリード・ギターとリズム・ギターの役割をはたす“ミ・ソロ”担当がドゥ・ラ・フランス。
 “ミ・ソロ”mi-solo とは、想像するに、ドゥショーがジミーから伝授された、通常D(レ)とすべきところをE(ミ)で調弦するチューニング法“ミ・コンポゼ”mi-compose をソロに応用したところから来ているのだろう。
 この3人でおこなうギター・スタイルがコンゴのポピュラー音楽に革命をもたらした。ロシュローのナショナルも、バントゥも、ドゥワヨンのコバントゥもこれにならった。

 ニコは160センチにも満たない痩せた小男だった。ステージでは立ったままほとんど動くことなく黙々とプレイしていたというから、「音はすれども姿は見えず」の状態だった。プレイにはまっているときはバンドといても心はステージ上になく、故郷のミカライ村にあるとインタビューで答えたことがある。まさにギターの神様にふさわしいエピソードといえるが、裏を返せば、バンドに細かく目配りするリーダーの役割は果たしていたのか疑いたくなる。

 事実、68年までに、クァミー、パウル・ミゼレ、ランベールら生え抜きも、ニコが発掘したサンガナ Valentin Sangana とシャンタル Etienne 'Chantal' Kazadi のふたりのティーンエイジャー歌手も、“ミ・ソロ”のドゥ・ラ・フランスも、兄ドゥショーを除けば、ほとんどのメンバーが抜けてしまった。脱退したミゼレが告発するには、ニコは、音楽づくりから財務管理にいたるまで、他のメンバーにいっさい相談することなくすべて独断で決定していた。おのれを過信するあまり、われわれを自分の手足ぐらいにしか考えていなかったのだと。

 それでも、69年には、“レッサ・ラッサン”'Lessa Lassan' こと、レッサ・ランドゥ Lessa Landu と、のちにO.K.ジャズに参加するジョスキー・キャンブクタ Josky Kiambukuta のふたりの歌手を雇い、依然として高い人気とクオリティを保っていた。
 しかし、ニコの独善はいっこうに改まらず、71年、西アフリカへツアー中、ついにジョスキーらが脱退を表明。事ここに至って、ニコもすっかり自暴自棄になってしまった。
 
 そんなとき、カバセルのアフリカン・チームへ参加のためにパリに行っていた“さすらいの歌手”ムジョスが帰国。アフリカン・フィエスタ以来、何年かぶりにふたりは組むことになった。ムジョスとラッサン、これに復帰したサンガナを加えたヴォーカル・トリオで出したレコードは相次いでザイール・トップテン入り。しかし、息を吹き返したかにみえたのもつかの間、72年にラッサンとサンガナが、翌年はじめにはムジョスもグループを去っていった。

 71年、文化大革命に触発されたモブツ大統領は「真にザイール的なものの回復をめざす」文化政策“オタンティシテ”を強力に推進した。ニコはこれに忠実であろうとドクタ・カサンダ Dokta Kasanda と改名し、あろうことか伝統音楽そのもののような音楽を作った。これによってファン離れが一気に進んで、スキサはついに機能不全に陥ってしまった。

 73年にスキサが活動を停止して以降、ニコは家にひきこもり酒浸りの生活を送っていた。77年、サンガナとともにスキサを4年ぶりに再開。翌年にはレコードも発売され、いよいよというときに病気になって、またも活動停止に追い込まれてしまう。

 つぎにニコが公衆の面前にあらわれたのは、かつての同僚タブ・レイのアフリザのメンバーとしてであった。1980年5月も終わりのことである。かれとともに、クァミー、元ヴォックス・アフリカのボンベンガ Bombenga Wewando、元グラン・マキザールのキース・ジャンブ Kiesse Diambu といった往年のスターたちが揃ってアフリザに参加した。それはレイの友情の証でもあったろうが、自分の軍門に下ったかつてのライヴァルたちをさらしものにしているみたいで個人的にはあまり気持ちよくない(サウンドは気持ちいいが)。
 アフリザのメンバーとしてのレコーディングは不確かだが、キースやクァミーのクレジットがあることから77〜80年の音源からなる"EKESENI"(NGOYARTO NGO 82)と、80年と84年の音源からなる"PAPA DO!"(同 NGO 83)に含まれている可能性が高いと思う。
 1年後、ニコはアフリザを去った。



 ここに1枚のCDがある。タイトルは"DERNIERE MEMOIRE"(VOIX D'AFRIQUE CD VA 013)。コンゴ音楽としてはめずらしいドイツ・プレス盤。このCDのオリジナルは、ニコがまだアフリザに在籍していた81年はじめに、古巣のアフリザに一時復帰していたサックス奏者のエンポンポ・ロワイのさそいでベニンのスタジオでレコーディングされたもの。

 敏腕プロデューサーでもあったエンポンポにとって、ニコはさぞかし調理しがいのある素材と映っただろう。
 アフリカン・ジャズ時代にドゥショーが書いた大ヒット・ナンバー'AFRICA MOKILI MOBIMBA' で幕を開けるこのアルバムは、知るかぎり、CDでニコのプレイが確認できる最後のアルバム。全5曲中、'AFRICA MOKILI MOBIMBA' を含む3曲がニコゆかりのナンバー。

 ただし全体としては、ポップできらびやかなエンポンポの音世界に、ニコのギターが乗っかっているような印象を受ける。わたしにはエンポンポのアレンジがニコのギターに合っているとは思えない。しかし、かれのギターは想像以上に元気があって耳に心地よい。とくにスキサの代表曲'BOUGIE YA MOTEMA' をリメイクした'BOUJIE YA MOTEMA' では、全盛期を思わせる縦横無尽のプレイを満喫できる。欲をいえば、もっとシンプルな編成で聴きたかった。

 81年末、ニコとエンポンポは、レコーディングのためパリへ渡った。ニコはそこでザイール出身の大物女性歌手アベティとその夫でマネージャーのジェラール・アクェソンと再会。アクェソンからの申し出により、アベティのバンド、レ・ラドゥタブル Les Redoutables と提携することになった。84年にかれらといっしょにコンゴ〜ブラザヴィルとトーゴ〜ロメのスタジオでおこなったニコのソロ・アルバムを含む一連のセッションが、かれにとってのラスト・レコーディングになった。
 残念ながら、これらについてCD復刻されたという情報はいまのところ持ち合わせていない。

 ロメでは、コンサートも開かれ、久方ぶりのドゥショーとの共演に聴衆は熱狂した。バックのサウンドこそモダナイズされたが、まろやかでたゆたうようなギター・プレイはまったくブランクを感じさせなかったという。レコーディングを終えると、アベティとレ・ラドゥタブルと西アフリカ・ツアーに同行。行く先々で絶賛を浴び、マスコミはニコの完全復活をうたった。

 明けて85年3月、ニコは病気の治療も兼ねて単身渡米。血液疾患との診断を受けて、定期的な輸血が必要となった。そのおかげで体重は元に戻り、コンサートが開けるまでに快復した。46回目の誕生日を迎えてからひと月後の8月、アクェソンは東アフリカへ向かう途次、ブラザヴィルでニコと落ち合うことになった。アクェソンは戦慄した。ニコは渡米前よりもさらにげっそりと痩せさらばえていたのである。

 翌月、モブツ大統領の計らいで、ニコはベルギーの病院へ移送された。しかし、その甲斐もなく85年9月22日早朝、ブリュッセルの病院で息を引き取った。



 アフリカン・フィエスタ以降のニコの音源は、単独盤ではつぎのCDに復刻されている。

L'AFRICAN FIESTA
(1) L'AFRICAN FIESTA: NICO, ROCHEREAU, ROGER VOL.1 (1962-1963)(AFRICAN/SONODISC CD 36509)1992
(2) NICO, KWAMY, ROCHEREAU ET L'AFRICAN FIESTA(AFRICAN/SONODISC CD 36512)1992
(3) AFRICAN FIESTA: NICO, ROCHEREAU "MAKITA EYINA NZOTO"(AFRICAN/SONODISC CD 36574)1997
(4) NICO, ROCHEREAU, KWAMY & L'AFRICAN FIESTA "SANGANA"(AFRICAN/SONODISC CD 36578)1997
(5) ROCHEREAU, NICO, MUJOS & L'AFRICAN FIESTA "NDAYA PARADIS (1962/1963/1964)"(AFRICAN/SONODISC CD 36580)1997
(6) ROCHEREAU, MUJOS, NICO & L'AFRICAN FIESTA "MARIA CHANTAL (1963/66)"(AFRICAN/SONODISC CD 36593)1998

NICO & L'AFRICAN FIESTA SUKISA
(7) MERVEILLES DU PASSE: ETERNEL DOCTEUR NICO(AFRICAN/SONODISC CD 36516)1992 - 本盤
(8) 1967/1968/1969(AFRICAN/SONODISC CD 36524)1992
(9) 1968/1973(SONODISC CD 36548)1995
(10) TU M'AS DECU CHOUCHOU 67/68/69(AFRICAN/SONODISC CD 36558)1996
(11) ASALA MALEKOUM 1967/1968(AFRICAN/SONODISC CD 36589)1998
(12) ZADIO(SONODISC CD 36600)1998



 アフリカン・フィエスタ時代は、1曲の演奏時間が2、3分台を中心に長くてもせいぜい5分ぐらいまで。音はまろやかだがリズムは直線的なアフリカン・ジャズ直系のルンバ・コンゴレーズ。カバセルのエレガンスを引き継いだロシュローがデッサンをし、これにニコがギターでパステル調の彩りを添えているといった風情。

 曲によってホーン・セクションが使われることはあるが、基本はコーラス、ギター、マラカス、コンガのシンプルな編成。ニコのギターは、ほぼすべての曲で最初から最後まで、手を代え品を代え鳴りつづける。ロシュロー以外にもクァミー、ムジョス、パブリートといった逸材をズラリ揃えていたヴォーカル陣とは対照的に、唯一のメロディ楽器であったリード・ギターはニコひとりの肩にかかっていた。

 わずか4年の短命に終わったフィエスタは、じっくり聴き込まないかぎり、どれもサウンド・カラーに大きなちがいはない。収録曲の充実度では、(1)ついで(2)になろうか。

 (1)は全19曲。'Leopoldville c'est la captale' のリフレインが印象的な、われわれでいうとたぶん「東京ラプソディ」にあたるロシュローの名曲'PESA LE DAKA'ソノーラ・マタンセーラの陽気なグァラーチャ風'CUBANA NA VIS-A-VIS'、民俗音楽風のシンプルで陽気なコーラスが反復されるなかを、ニコのギターがさわやかに駆け抜けていく'BIANTONDI KASANDA'、メレンゲ特有の、ハギレのよいアクロバティックなアコーディオンの躍動感をギターで表現したニコのインスト・ナンバー'MERENGUE PRESIDENT' は、なかでもスイセン。

 (2)も聴きどころは多い。ウィリー・クンティマ Willie Kuntima とジーフ・ミンギーディの爽快なマリアッチ風トランペットが光るルンバ・コンゴレーズ'PERMISSION'、ニコとドゥショーのつづれ織りのようなギター・アンサンブルについクラクラしてしまう'BATO YA CONGO'、ロシュローが淫靡な妖気をふりまくラテン系ロマンス歌謡'LOLITA'、ツイスト風味のアフロ・キューバンにのせてニコのハワイアン・スティール・ギターが炸裂するインスト・ナンバー'MAMBO HAWAIENNE'、透明なヴォーカル・ハーモニーが美しいクァミーのスウィート・ルンバ'BELINDA'、ロシュローがコンフント・マタモロス風のソンにチャレンジした'TUSON'など、全20曲。



 スキサの6枚も、フィエスタ同様、すべてソノディスクからのリリース。(9)の一部を除けば、いずれもなぜか66年から69年までの4年間の音源からとられている。これはスキサにかぎった話ではないが、ソノディスクは選曲にあたってポリシーなくシングル曲を適当に寄せ集めた感つよく、結果、楽曲の良し悪しは別として、トータル・アルバムとしてはどれもつかみどころのないものになってしまった。そうなると、売上げを上げようとヒット曲や注目曲から復刻していくことになるので、もっとも古い92年発売の(7)(8)あたりが充実度ではもっとも高くなる。

 ここからはまず、ピック・アップした(7)をくわしく論じたあとで、残りの5枚についてもふれてみたい。



 本盤は、10代のシンガー、サンガナが書いた軽快なルンバ・コンゴレーズ'SANZA ZOMI NA MIBALE' で幕を開ける。サンガナはロシュローにくらべると表現力では劣るものの、この青さというか歌の不安定さをかえってスキサの個性にしている。
 つづくニコ作の'SUAVILO' は、キューバのオルケスタ・アラゴーンを思わせる牧歌的なチャチャチャにとりくんだ異色作。ミシェル・ンガワラリ Michel Ngwalali のリリカルなフルートとチャチャチャならではの人なつっこいコーラスのリフレインが効果的。

 おなじくニコ作の'OLGA' は典型的なルンバ・コンゴレーズ。ここでのニコのギターは、柔らかく甘美なトーンで、心地よい残響効果を生みながら優雅に展開していく。いわゆる「リバーブ」というやつで、これをニコはエフェクターや多重録音によらずつくり出したというのだから、やっぱり“ギターの神様”だ。
 ドゥショー作'EXHIBITION DECHAUD' は、ロックンロールを経由したカントリー風のギター・インスト・ナンバー。ニコ、ドゥショー、おそらくドゥ・ラ・フランスの3者による軽快でさわやかなギター・アンサンブルが堪能できる。

 68年発売のニコ作'KIRI-KIRI MABNA YA SIKA' はスキサの最高傑作のひとつだろう。前半はコーラスとニコのギターとがつかず離れずおおらかに進行する。この段階ではニコの役割はあくまで歌伴なのだが、ギターが歌より饒舌なため歌がかえって“ギター伴”になってしまっている。
 後半、セベン(ダンス)・パートにはいると、テンポが上がるどころかやや減速。こうすることでビートに粘りが生まれる。リズム・ギターがエレピのように丸っこい音で浮遊感を醸し出すのにたいし、ニコのギターはシャープでメタリックなギター・カッティングで音楽を縦割りにする。

 ちなみに'kiri-kiri'とは、60年代はじめに大流行したダンス、ツイストのヴァリエーション“ジャーク”(両手を交互に上下させながら足腰をグラインドさせる)をヒントにニコが考案したダンスで、キノワ、キノワーズ(キンシャサっ子)のあいだで大流行したのだそうだ。しかし、聴いたかぎりではけっして激しいダンスではなくて、たゆたうようなエレガンスをとどめている。このほか、本盤では'DORIS''TALAKA NA MISO' でも'kiri-kiri' のリズムが使われている。あわせて必聴。

 もうひとりの10代シンガー、シャンタルが書いた'NAKAYI ABIDJAN'「アビジャンへ行くよ」という意味。歌詞に重きを置いたロシュローのナショナルにたいし、スキサはニコがリーダーだけあってサウンド重視だった。そのため、スキサの人気はむしろ非リンガラ語圏の国々で高く、しょっちゅうツアーへ出かけていた。
 スキサにはツアー先のことを歌った楽曲が多いが、この曲はまさにその典型例。アビジャンは西アフリカのコート・ジヴォアールの港湾都市なのだが、曲はなぜかハワイアン・スティール・ギターで全面彩られた無国籍ワールド。真珠湾からわずか7年後に発売された「憧れのハワイ航路」の無節操を思い出してしまった。

 本盤にもうひとつあるンガワラリ作の'LIMBISA NGAI' は、ハワイアン・スタイルの代表作のひとつだと思う。とろけるようなハスキーなヴォイスと、けだるいスティール・ギターの相乗効果により資本主義下での労働の無意味を知らしめられる。
 ジョスキーらしき声も聞こえるコーラス・ワークがブリリアントな'ARUNA' は、ニコが書いたオーセンティックなルンバ・コンゴレーズ。ニコのリード・ギターもさることながら、ファズがかったトーンで奏される“ミ・ソロ”ギターがすばらしい。
 そしてラストは、ニコのギターがついにハワイを突き抜けて宇宙へ行ってしまう'MARIA NELLA' で締める。全16曲約74分。



 しかし、脱力系スペイシー・ハワイアンの極致は'PAULINE' だろう。この曲は本盤とならぶ傑作(8)に収録。このアシッド感覚は、欧米におけるインド趣味に匹敵する。これに次ぐのが(10)収録の'TU M'AS DECU CHOUCHOU'。ただし、こちらはハワイ度では負けていないがスペイシー度をやや欠く。

 わたしがもっとも好きな曲'BOUGIE YA MOTEMA'(8)に収録。ここでのニコのギターはカリカリに乾いており、それはあきらかにコンゴ伝統の親指ピアノ“リケンベ”の音と旋律を意識したもの。ソロの途中に二度はいる「スキサッ」の気合いがいい。同盤にはほかにも'MARIE PAULINE' をはじめ、このリケンベ・スタイルのギターが多く含まれている。ハワイアンのまったり感とはちがって、これはこれでたいへん気持ちいい。

 アルバム後半はラッサンとジョスキーの楽曲が目につくことから69年ごろの録音か。音楽構成の面でも緻密さを増してきていて、このころがピークだったのがわかる。
 ラッサンの狂おしいヴォーカルが胸に迫る'BEA OKEYI WAPI?'、リズム・ギターがフェンダーローズっぽいうねりを醸すアフロ・キューバン調の'MIRA'、コラージュのような凝った構成で、途中、ジャジーなトランペットとサックス・ソロをはさむ'KA MUNGANZI KO'、スキサではもっとも長い7分25秒の演奏時間で、もっともロックぽいワイルドさを備えた'ECHANTILLON YA PAMBA'、一部のスキもなく完璧に構築された“コーラスの壁”と凝った展開がいかにもジョスキーらしい'BOLINGO YA SENS UNIQUE''BOLINGO EZALI MPO NA KISI TE' など、全曲すばらしい出来。全15曲約72分。惜しむらくはすでに品切れかも。



 上述の2枚の出来が群を抜いているが、そのつぎというなら個人的には(11)を推したい。スキサとしてはめずらしくホーン・セクションが多く使われているというのが全体の印象だ。

 なかでも、インスト・ナンバー'AFRIQUE DE L'OUEST' では、ニコのギターとともにサックス・ソロがフィーチャーされ、全体を彩るホーンズのリフはまさしくガーナのダンスバンド・ハイライフ。述べたように、スキサは周辺諸国で高い人気があったことから、西アフリカのファンを意識して演奏したナンバーと思われる。ハイライフ好きにはたまりません。

 'YO CANTO''EL TONTO DE MI LUGAR''EL TONTO DE MI LUGAR''ERAMORANDO' にいたっては、ダンソンあり、グァラーチャありと、ラテン系音楽のリメイクもしくはイミテーション。キューバ音楽好きにはたまりません。スペイン語でうたっています。
 そして、スキサ最大の問題作は、サザン・バラードの定番中の定番、パーシー・スレッジの'WHEN A MAN LOVES A WOMAN'「男が女を愛する時」のリメイク。へたすぎる英語と湿り気ゼロの歌と伴奏にはひと筋の情感も感じられず、そこがかえっておもしろい。
 これらはある意味、フェイクにはちがいないが、むしろニコの旺盛な好奇心が発揮されたアルバムといえるだろう。全12曲53分。



 上と対照的なのが(9)。ここからはホーンズがいっさい聞こえてこない。ぜい肉は極力そぎ落とされソフトだがキレのよいスキサを聞くことができる。
 ストイックな印象さえ受ける本盤にあって、ニコが書いた冒頭の'MANDORA' だけはやや異質。前半はハワイアン・スティール・ギターをフィーチャーしたエレガントな歌と演奏が展開し、後半は一転して伝統音楽のコール・アンド・レスポンスのモティーフが援用される。伝統への回帰は“オタンティシテ”の影響だろうか。だとしたら73年ということになるが、モダニティと伝統の融合がすばらしく、いわれるようなダサイ民謡の感じはない。伝統音楽の要素を大きくとりいれたニコの'MOKILI MATATA' についても同様である。

 クレジットを信じるなら、68年と73年の5年もの隔たりがあるにもかかわらず、音楽的なちがいを聞き分けられなかった。ラッサンの泣きたくなるような歌唱がニコの繊細なギターと相まって心に沁みる'LASSAN YEMBILA NGAI' をはじめ、ニコのギターも音楽構成もハデさはないが、噛みしめた分だけ味わいが出る楽曲群である。全14曲約65分。



 (10)は、冒頭に収められた前述の'TU M'AS DECU CHOUCHOU' のインパクトが強すぎて、ハワイ路線を想像したくなるがさにあらず。
 ジョスキーの'SADI NABOYI MASUMU' は、ホーン・セクションが多用され、スキサ脱退後に結成したオルケストル・コンティネンタルのファンキー路線を思わせる。ニコ作の'FANTA DIARA'では、かれが“メレンゲ”と名づけたシンコペートするビートにのせて、ギター、トランペット、サックスがインタープレイを展開。

 アフロ・キューバンの陽気なリズムとカリプソのおとぼけムードが合わさったような'TOUR D'AFRIQUE' は、文字どおり、西はセネガルから東はモザンビークまで、たぶんツアー先の国々を連呼される楽しいナンバー。個人的に好きなシンガー、ラッサン作の'JULIENNE IMPORTEE' は、さりげなさのなかにもジワジワくるものがあってかなり聞かせる。
 と、いうようにヴァリエーションも豊富な13曲約53分30秒。



 スキサのアルバムは、98年発売の(12)を最後に復刻されていない。聞いた感じでは、最初期の音源を中心に選曲されているようだ。
 このアルバムの目玉は、クァミーの作品が2曲収録されていること。クァミーはスキサ結成直後にグループを脱退し、O.K.ジャズからメンバーを大量に引き抜いて、自分のバンド、オルケストル・レヴォルシオンを結成した。音楽としてはクァミーらしい繊細なソフト・ルンバで特筆するほどではないけれども、愛すべきトラブル・メイカーの在籍が耳で確認できただけでも収穫。

 それともう1曲、忘れちゃならないのは、アルセニオ・ロドリゲス楽団の名ピアニストで有能なソング・ライターでもあったリリー・マルティネス・グリニャンがフェリックス・チャポティーンの楽団に提供したソン・モントゥーノ'SASONANDO'(ホントのつづりは'SAZONANDO' で邦題は「スパイス入れて」)。
 厚いホーン・セクションもはいっていて、演奏はややもたつくものの、オリジナルにかなり忠実。出来の良し悪しよりも、アルセニオやチャポティーンの音楽が、当時のコンゴでどのようにどの程度受け容れられていたのか、興味は尽きない。全12曲約46分。



 今回、ドクトゥール・ニコのレビューを全面的に見直そうと、資料を調べたり、音楽を聞いたりしてみたが、かれについてわからないことはまだまだ多い。
 たとえば、60年代末から70年代はじめのレコーディングはどうなっているのか、スキサが空中分解する直前の民謡調の音楽はどういうものだったか、アベティとレ・ラドゥタブルと組んだ晩年の音楽はどういうものだったか、等。

 フランコやロシュローがプロデューサーだったのに対し、ニコは徹底してギタリストだった。ニコはわずかな期間で多種多様な音楽スタイルに挑んだが、それは自分がいま興味が持っているギターのプレイ・スタイルを実験するためにもっとも適した音楽スタイルを選んでいたように思えてくる。そんなことを考えていたときに、「レコード・コレクターズ」2005年2月号の特集“ジェフ・ベック”で、立川芳雄さんがおなじようなことを書いておられたのにはおどろいた。やはりニコは、コンゴのジェフ・ベックだったのだ。


(2.1.05)
(4.10.06加筆)



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by Tatsushi Tsukahara