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Artist

渡辺はま子

Title

SP盤復刻による懐かしのメロディ
シナの夜


sina no yoru
English Title
Date 1938-1949
Label 日本コロムビア COCA-10763(JP)
CD Release 1993
Rating ★★★★☆
Availability ◆◆◆◆


Review

 ひとは彼女を「チャイナ・メロディの女王」と呼ぶ。では、チャイナ・メロディって何?
 もちろん、明清楽系の音楽そのものをさすのではない。中国趣味の歌謡のことである。日本人にとってエキゾチシズムの場としての中国、当時のいい方で「支那」は、「満州」(中国東北部)とはっきり区別されていた。だから、満州をあらわすのには鈴が使われ、中国のイメージはゴング、木琴、ウッドブロック、胡弓だった。これらの楽器を意識的に用いて、中国色を出そうとした最初の作品が「支那の夜」である。

 西條八十作詞、竹岡信幸作曲によるこの歌は、日中戦争がはじまった翌年の昭和13年11月、日本軍が破竹の勢いで大陸を席巻しつつあった最中に発売された。発売後しばらくはまったく売れなかったが、半年後から売れ出して1年後には戦線の将兵たちのあいだで大流行したという。

 細川周平さんによると、この曲は'CHINATOWN MY CHINATOWN''HONG KONG BLUES' のようなアメリカ人が描く中国のイメージを比較的忠実になぞっているのだそう。具体的には、平行4度を多用した編曲、ゴングやタムタムのタイミング、胡弓に似せたヴァイオリンのポルタメント、ムーディな女声コーラスは、まさしくハリウッド=ブロードウェイ的な手法だという。

 太平洋戦争中に対米謀略放送でこの曲が使われ、'CHINA NIGHTS' としてアメリカ兵から愛されたのにはこんなわけがあったのだ。ちなみに、昭和30年(1955)に渡米したジャズ歌手ナンシー梅木は、翌年アメリカで発売されたアルバム"MIYOSHI UMEKI SINGS AMERICAN SONGS IN JAPANESE"(UNIVERSAL UCCM-9040)のなかでこの歌をとりあげている(というか「うたわされている」)。オリジナルをさらにアメリカ的な中国趣味に染め抜いたアレンジが笑える。梅木はこの歌をあまり知らなかったとみえて、歌詞をまちがえたまま1番のみを繰り返しうたっている。このまちがいにさらに拍車をかけているのが、聞き取りによる日本盤の歌詞カード。「紫の夜に」「紫のように」としたのはやむをえないとして、「胡弓の音」「呼吸のね」はないでしょ。西條八十が怒るよ。

 みてきたように、「支那の夜」はまだハリウッド的中国趣味の域を出るものではなかった。日本人ならではの中国趣味といえるものが完成したのには「蘇州夜曲」によってであった。この曲は、「支那の夜」のヒットを受けて、長谷川一夫と李香蘭のコンビで昭和15年に公開された東宝映画『支那の夜』の挿入歌として服部良一がつくった。
 昭和13年に服部が芸術慰問団の一員として訪れた抗州の西湖で浮かんだメロディに西條八十が甘美な叙情詩をつけて生まれた「蘇州夜曲」は、中国、日本、西洋、それぞれの要素が緻密に編み込まれた凝った構成で、ストレートにではなく深いところで中国らしさをたたえているのがミソである。

 服部はこの曲を李香蘭のために書き、映画では李香蘭がうたっているが、レコードでは所属レコード会社の都合で渡辺はま子(霧島昇とデュエット)がうたっている。清純なソプラノという感じの李香蘭にたいし、はま子はメリスマを効かせた歌い口で中国風をきわだたせている。服部の編曲も凝りまくっていて、ふつうのジャズ・オーケストラに、胡弓、チェレスタ、グロッケンシュピール、アコーディオン、マンドリンまではいっている。

 戦後、山口淑子に戻った李香蘭が服部良一の新アレンジでこの曲をリメイクしている(『山口淑子(李香蘭)/夜来香』(日本コロムビア CA-4383)収録)。ストリング・オーケストラの伴奏で格調高くなっているが、緻密さも情感もはま子のオリジナル・ヴァージョンには遠く及ばない。

 渡辺には「支那の夜」「蘇州夜曲」のあいだに「何日君再来」「広東ブルース」「いとしあの星」の中国趣味の歌がある。
 「何日君再来」は、昭和12年(1937)に周[王旋](おうへんに「旋」で一字)がうたって大ヒットしていたのを前線慰問に行った松平晃が譜面で持ち帰ったもの。結局、女性歌手のほうが合うということで渡辺はま子の歌で昭和14年に発売された。オリジナルと同様、アコーディオンを伴奏にしたハバネラ・タンゴなのだが、リズムがモタッとしていて野暮ったい。

 「広東ブルース」「いとしあの星」は、ともに服部良一の曲で昭和14年発売。
 「広東ブルース」はイントロや間奏部こそ中国調だが、基本的には「別れのブルース」と同系列のブルース。「風は南よ マンゴがかおる」の歌詞(藤浦洸作詞)が昭和17年あたりから量産される南洋物の先駆となっている。
 「いとしあの星」(サトウハチロー作詞)は、長谷川・李香蘭コンビの大陸三部作のひとつ『白蘭の歌』の挿入歌。渡辺のメリスマはモロ中国調なのだが、お決まりの鈴もあって曲調はまったくの満州=ロシア調。

 おなじ時期、はま子は“長崎もの”の先駆けといわれる「長崎のお蝶さん」(藤浦洸作詞、竹岡信幸作曲)を吹き込んでいる。当時、長崎は上海と航路が結ばれ、日本のなかの中国だった。作曲者が竹岡ということもあって「支那の夜」の続編的内容。
 戦後まもない昭和22年には、竹岡の作曲で「支那の夜」の真の兄弟というべき「東京の夜」が発売されている。東京らしさを出すため、藤山一郎をパートナーにうたってはいるが、曲自体のクオリティが高くなく“キワモノ”の域を出ていない。

 大陸メロディ最後の曲は、西條八十作詞、服部良一作曲で昭和17年12月に発売された「風は南から」とされる。東宝映画『阿片戦争』の主題歌として書かれ、映画では高峰秀子がうたった。そこにはすでにあからさまの中国調はないが、きわめて中国的な情感にあふれている。おなじく服部の作曲で山田五十鈴がうたった「牡丹の曲」ともども中国風スロー・バラードの傑作といえよう。

 じつは戦後、藤浦・服部・はま子のトリオで「広東ブルース」以来、10年ぶりとなる中国をテーマにした歌「アデュー上海」が吹き込まれている。この哀感あふれるバラードにおいて、「中国」はもはや歌詞の題材でしかなく、「中国風」をイメージさせる音楽的な仕掛けがどこにもされていない。そういう意味で、この曲は「チャイナ・メロディ」とはいえない。

 ここまで「チャイナ・メロディ」をキイ・タームとして渡辺はま子を語ってきた。
 渡辺はま子の名を一躍世間に知らしめたのは、二・二六事件が起こった昭和11年(1936)にビクターから発売された“ネェ小唄”「忘れちゃいやヨ」『想い出の戦前・戦中歌謡大全集』(日本コロムビア GES-31022〜31033)収録)だった。
 武蔵野音楽学校を卒業後、音楽教師を経てレコード歌手に転身した経歴の持ち主なだけに「ネーェわすれェちゃあ〜いや〜ンョ」と鼻にかかった甘えた歌い方でうたうことには相当抵抗があったようだが、意に反してこの歌は大ヒット。しかし「婦女の嬌態を眼前に見る如き官能的歌唱」とみなされ発売禁止に憂き目にあった。

 そこで心機一転のためコロムビアへ移籍して最初に放ったヒットが古関裕而が作曲した美しいワルツ「愛国の花」(昭和13年)だった。「国民に健全な歌を」をキャッチフレーズに放送を開始した国民歌謡にしては堅苦しくなく、リリカルですがすがしい名曲といえる。

 インドネシアのスカルノ大統領が愛唱したことでもよく知られ、田中勝則さんがプロデュースしたワルジーナの96年のアルバム『永遠の詩〜クロンチョン』(OMAGATOKI SC-6109)で、この曲がクロンチョン・アレンジでリメイクされている。ワルジーナは、はま子に劣らぬ透き通った美声を披露してくれている。

 すっかり忘れていたが、ワルジーナは、同じく田中勝則さんのプロデュースによる94年発売のアルバム『ラトゥ・ジャワ』(アスリ ASR-01)でも「支那の夜」をリメイクしていた。残念ながら、こちらはあまり感心できる出来とはいえない。

 渡辺はま子は、昭和25年1月発売の「何日君再来」をパロッた竹岡作曲の「いつの日君帰る」を最後にコロムビアを去る。ビクターに移籍したその年にはなったヒットが「桑港(シスコ)のチャイナ街(タウン)」『想い出の戦後歌謡大全集』(日本コロムビア GES-31056〜31067)収録)である。
 「蘇州夜曲」「風は南から」によって行きついた「日本的な中国趣味」は露と消え、紋切り型の野暮ったい中国趣味がここでまたぞろ顔をのぞかせている。はま子のうたいかたがこのころからミョー「懐メロ」くさく聞こえてしまうのは気のせいか。
 
 フィリピンのモンテンルパ収容所に拘留された日本人戦犯がつくった曲をレコード化した昭和27年発売の「あゝモンテンルパの夜は更けて」『想い出の戦後歌謡大全集』(日本コロムビア GES-31056〜31067)収録)にしても、この歌をめぐるストーリーは感動的であっても、音楽として純粋におもしろいとはいいにくい。

 渡辺はま子を聴いていると、「いき」と「野暮」は薄皮一枚の関係で、なにかのきっかけで容易に反転してしまうものであることを実感してしまう。


(7.8.04)



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by Tatsushi Tsukahara