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Artist

服部良一

Title

日本のポップスの先駆者たち
僕の音楽人生


ongaku jinsei
Date 1935-1973
Label 日本コロムビア 72CA-2740〜92 [3CDs] (JP)
CD Release 1988
Rating ★★★★★
Availability ◆◆


Review

 服部良一の音楽生活70周年を記念して1992年(平成4年)に7枚組CDボックス『オリジナル盤による服部良一全集』(日本コロンビア COCA-10401〜10407)が発売された(93年1月永眠)。その別冊解説書のなかで、音楽評論家の瀬川昌久は、服部良一は古賀政男や古関裕而とならぶ日本の流行歌の大作曲家であるにとどまらず、その音楽は「単なる歌謡流行歌の枠を超えて、途轍もなく広大な領域にまたがり、その全てのジャンルで不滅である」と最大限の讃辞を贈っている。まったくそのとおり。

 が、不滅といわれるわりには、古賀政男にくらべ、発売されたCDや書籍の数は多くない。近いところでは、2003年発売のビクター音源による2枚組編集盤『東京の屋根の下』(ビクター VICL 61066〜7)、上田賢一の著書『上海ブギウギ〜服部良一の冒険』(音楽之友社)ぐらいか。

 となると、決定盤は依然として前掲の7枚組CDボックスということになる。しかし、このボックス・セット、服部良一の功績を顕彰する目的で発売されたことから、6、7枚目はポップスではなく、交響詩曲「ぐんま」ほか、70、80年代に書かれたオーケストラ作品がしめる。そのことには目をつぶったとしても、問題なのはとっくのむかしに廃盤ということだ。
 だから、現在も入手可能なこの3枚組を中心にとりあげることとした。とはいっても、発売年は88年とかなり古いため、92年の7枚組とくらべてもノイズがひどく聴きづらい。そろそろリマスター盤を再リリースすべき時期に来ていると思うのだが、なにせコロムビアのこと、あまり期待しないほうがいいだろう。

 のっけから文句みたいになってしまったが、この3枚組と出会ったことでわたしは服部音楽のすばらしさをはじめて知った。そればかりか、日本の古い流行歌に興味を持つきっかけとなったという意味で、わたしにとってはとりわけ思い出ぶかいアルバムである。

 瀬川がいうとおり、服部音楽ほど、ジャンルをこえて現在もヴィヴィッドに感じられる日本のポピュラー音楽をほかには知らない。大好きな曲があまりにありすぎて、それらにいちいち踏み込んでいたら、ぼう大な文章量になってしまう。そこで「別れのブルース」他、ブルースは淡谷のり子「東京ブギウギ」他、ブギは笠置シヅ子「蘇州夜曲」他、中国風歌謡は渡辺はま子または李香蘭のコーナーでくわしくふれることとして、本稿ではそのほかの服部作品を中心に論じてみたいと思う。



 服部が生涯につくった曲は3千曲以上におよぶという。それらのうち、わたしがCDで持っているオリジナル録音の楽曲数はざっと数えてみたところ、せいぜい200曲弱だった。前掲の7枚組の解説書、および昭和57年(1982)刊行の自伝『わたしの音楽人生』(中央文芸社)巻末のディスコグラフィによると、タイヘイやニットーと契約していた在阪時代の音源はわかっているだけでも150曲ちかくあり、本盤冒頭に収録の昭和10年(1935)録音の「流線型ジャズ」(藤原山彦詞/志村道夫歌)を除けばすべてCD未復刻のはず。

 だから、現在、CDで聴くことができる99パーセント以上が、上京してコロムビアの専属作曲家となった昭和11年(1936)以降の音源である。このときから、リリース数が極端に落ち込んだ昭和19〜20年(1944〜45)の時期を含めても、昭和30年(1955)までの約20年間にコロムビアを中心に約500曲がレコード化されている。
 ところが、31年以降になると楽曲数は年を追って減少し、世を去る平成5年(1993)までの37年間でレコード発売された新曲はわずかに140曲程度。
 ということは、音楽生活70年で、わかっているだけで約790曲がレコード化され、そのうちの約63パーセントが戦争をはさんだ約20年間に作られたという計算になる。これは、古賀政男が昭和6年(1931)の「酒は涙か溜息か」から昭和41年(1966)の「悲しい酒」まで、およそ35年間の長きにわたってヒット・メイカーでありつづけたのにくらべるといかにも短い。

 前掲書『上海ブギウギ』のなかで著者は、昭和30年(1955)を境に服部が失速していった理由について、服部が嫌っていた「センチメンタルで単調な民謡調、俗謡調の流行歌」が日本の流行歌の主流をしめるようになったことへの幻滅をあげている。たしかにそれはあるだろう。

 保守独裁による「55年体制」が誕生したこの年は、高度経済成長の開幕を告げた時期にあたり農村部から多くの労働力が都市部へと流入した。こうした背景のもと、“ふるさと歌謡”とか“民謡調歌謡”をうたう春日八郎、三橋美智也、島倉千代子のような演歌調の歌手が人気を博するようになる。美空ひばりが本格的に演歌をうたいはじめたのもこのころからだ。

 流行歌が都市から地方へ広がり大衆化が進行した結果、流行歌の趨勢は、ジャズのリズムとメロディを生かした日本独自の流行歌を創作したいという服部の意志に反し、土着化の方向へ進んでいった。

 他方で、都市部を中心に西欧のポピュラー音楽をダイレクトに受け容れる感性を持った若者層があらわれ、服部による日本的な化粧直しをあえて必要としなくなったこともあるだろう。もし、わたしがその時代にいたなら、服部の音楽はベタで中途半端に感じて忌み嫌っていたかもしれない。

 しかし、変わったのはシーンばかりではなかった。
 昭和23年(1948)12月、灰田勝彦の歌で「東京の屋根の下」(佐伯孝夫詞)が発売された。服部はこれを機に、ビクターにも楽曲を提供するようになる。このころが服部のもっとも多忙で脂が乗っていた時期だった。
 24年(1949)に発売された代表的なヒット曲としては、「青い山脈」(西條八十詞/藤山一郎・奈良光枝歌)、「銀座カンカン娘」(佐伯孝夫詞/高峰秀子歌)、「三味線ブギウギ」(佐伯孝夫詞/市丸歌)、「恋のアマリリス」(西條八十詞/二葉あき子歌)などがある。
 翌25年にも「買物ブギー」(村雨まさを詞/笠置シヅ子歌)、「山のかなたに」(西條八十詞/藤山一郎歌)のようなヒットはあったが、マンネリ化の印象は拭えない。この年の7月〜11月、笠置シヅ子とともに渡米。日劇で帰国記念ショー“ホノルル・ハリウッド・ニューヨーク”を上演すると、翌年11月にはおなじ日劇で“服部良一作曲二千曲記念ショー”を催すなど、名声は絶頂をむかえていたが、楽曲にかつての勢いが感じられなくなった。

 ビクター盤『東京の屋根の下』のディスク2は、渡米後に書かれた楽曲からなっている。実妹服部富子がうたった「アメリカ土産」(村雨まさを詞)の歌詞に「やっぱり日本が一番大好き」とあるとおり、帰国後はかえって日本回帰志向が強くなって、いっそう歌謡曲らしくなった印象を受ける。ちなみに村雨まさをは服部のペンネーム。
 アメリカ・ツアーの成果として発表されたジェローム・カーンの「オールマン・リバー」とビ・バップをもじった「オールマン・リバップ」(村雨まさを詞/笠置シヅ子歌)にしても表層を舐めただけという感じで、ビ・バップのスリリングさはなく笠置シヅ子の野暮ったさばかりがかえってきわだってしまっている(笠置シヅ子『ブギの女王』収録)。

 以上みたように、昭和26〜30年(1951〜55)の5年間は、かつてのボーダーレスな過激さは鳴りをひそめ、すっかり保守化してしまった歌謡曲の有能な作曲家として過ごした時代だったと断言したい。服部が昭和30年を境にシーンから消えていったのには、本人の意欲の低下があったとしても、その前の5年間にすでにクリエイターとしての輝きを失いつつあったことを指摘しておくべきだろう。アーティストの宿命とはいえ、服部の場合、光輝があまりに鮮烈だっただけに落差が大きかった。

 いっぽう、古賀政男ははじめから筋金入りの保守だったから長持ちした。変わり続けることを暗に求められた服部音楽にたいし、“古賀メロディ”はいつの時代も変わらぬことを期待されたのだ。

 ところで、早くからタンゴ/ハバネラ調のリズムを取り入れてみたり、日本で最初にギターをフィーチャーした流行歌を作ったことから古賀政男のモダンな音楽性を評価するとらえ方があるのは知っている。中山晋平以来のヨナ抜き短音階(ファとシを除く5音階の哀愁味を帯びた短音階)を基調とした“古賀メロディ”を、そういう意味で“昭和モダニズムのなかの土着回帰”(細川周平)とみるのは正しい。だから、正確には“昭和モダニズムのなかの保守”というべきだろう。

 こうしてみると、ジャズやブルースばかりか、タンゴやルンバのようなラテンのリズムも見事に消化していた服部が昭和30年(1955)に起こったマンボ・ブームに乗りきれなかった理由がみえてくる。
 服部は、マンボ・ブームの年、笠置シヅ子に「ジャンケン・マンボ」(村雨まさを詞)、「エッサッサ・マンボ」(服部鋭夫詞)の2曲を提供している(共に笠置シヅ子『ブギの女王』収録)。マンボといえば、服部にとっては弟子にあたる原六朗が昭和27年(1952)に早くも美空ひばりの歌で「お祭りマンボ」(原六朗詞)をものにしている。どちらの作品も厳密にはマンボとはいえないのだが、“マンボらしさ”で聴き手をねじ伏せてしまうパワーが感じられるのは「お祭りマンボ」で、服部のマンボにはそれがない。それは楽曲の完成度もさることながら、かつて“小型笠置”だの“豆ブギ”だのといわれた少女と本家“ブギの女王”との勢いの差も関係しているにちがいない。

 ついでにもうひとこと。
 このころ、パリ帰りの高英男、宝塚出身の越路吹雪らによって静かなシャンソン・ブームが起こっている。淡谷のり子がうたった昭和12年(1937)の「別れのブルース」(藤浦洸詞)がダミアの「暗い日曜日」の影響で書かれたというように、服部は戦前からシャンソンにも関心を持っていた。服部音楽には欠かせない歌手たち、淡谷のり子と二葉あき子は音大出身、服部富子は宝塚出身ということもあって、彼女たちが端正な唱法を生かせるシャンソンに近づいていったのは自然な流れだった。そして、服部自身も激しいマンボやロカビリーよりも、落ち着いた感じのシャンソンに興味が向かっていたフシがある。こんなところにも、服部の保守化がうかがえる。



 いま、MCAジェムスが保有するデッカ、ヴォカリオン、チェスなどの音源から中村とうようが選曲・監修したコンピレーション『ブラック・ミュージックの伝統〜ブルース、ブギ&ビート篇』(ユニバーサル UCCC3039)を聴きながらこの原稿を書いている。「別れのブルース」「東京ブギウギ」も、もちろんこんなディープな黒人音楽を聴いて服部が書いたわけではない。手本にしたのは、黒人作曲家W.C.ハンディが譜面にして作曲した「セントルイス・ブルース」 ST. LOUIS BLUES であり、白人女性コーラス・グループ、アンドリュース・シスターズが41年(昭和16年)にうたってヒットした「ブギ・ウギ・ビューグル・ボーイ」 BOOGIE WOOGIE BUGLE BOY だった。これらは白人社会むけに通俗化されたブルースでありブギであり、服部はこれらをさらに日本人むけにつくり変えてしまった。

 和製ブルース第1号は、昭和12年(1937)、服部が、日系二世のトランペッター森山久(森山良子の父、というより森山直太朗の祖父)にうたわせた「霧の十字路」(高橋掬太郎詞)である。
 ホーン・セクション、ピアノ、リズム・ギターのアンサンブルに、名手、松本伸によるむせび泣きのテナー・サックス・ソロがはいるイントロが絶品。森山の英語なまりのバリトンとじわじわと盛り上がっていくオーケストレーションが男の哀愁をいやがおうにもかき立てる。しかし、この曲はヒットしなかった。本盤に未収録の、おなじく日系二世歌手リキー宮川を起用したスウィング・ナンバー「夢見る心」(西岡水朗詞)もそうだったが、流行歌としてはあまりにバタくさく、時代より前を行きすぎていたため大衆の意識が追いつかなかった。

 そこで、日本人受けを意識して3か月後に淡谷のり子を起用してレコーディングされたのが「別れのブルース」(藤浦洸詞)だった。「別れのブルース」は、日中戦争で中国にいた日本人のあいだから火が点き、その後、長崎、神戸、大阪、横浜の港をめぐって東京に到達。発売から1〜2年たって日本全国で大流行した。「別れのブルース」のヒットによって、淡谷は服部とのコンビで「雨のブルース」(野川香文詞)、「思い出のブルース」(松村又一詞)、「東京ブルース」(西條八十詞)、「満州ブルース」(久保田宵二詞)などを次々とリリース、“ブルースの女王”と呼ばれるようになった。これらのうち、本盤収録は「別れのブルース」「雨のブルース」

 服部の和製ブルースには、曲名にブルースとうたっていなくてもサウンド面からブルースと判断できる、細川周平が“隠れブルース”と名づけた作品も多くみられる。
 たとえば、日中戦争が泥沼化しつつあった昭和15年(1940)に発売された「散りゆく花」(野川香文詞/ベティ稲田&淡谷のり子歌)、「湖畔の宿」(佐藤惣之助詞/高峰三枝子歌)、「小雨の丘」(サトウハチロー詞/小夜福子歌)などには、異国趣味こそやや薄らいでいるものの和製ブルースに欠かせない哀感は備わっている。「散りゆく花」の発売中止になったベティ稲田ヴァージョンは『オリジナル盤による服部良一全集』、昭和15年(1940)発売の淡谷ヴァージョンは本盤収録。

 このように服部が創作した和製ブルースは、アメリカ黒人の民俗音楽であるブルースとはあまり似ていない。しかし、ジャズの技法をとりいれた舶来的でグルーミーな情感は「なるほどブルースっぽい」と納得させるものがある。ところが、戦後になるとブルースの持ち味だった舶来趣味は消え、哀愁は深情けに変わり演歌歌手の専売特許となってしまった。



 もし、服部が外国の音楽をそのままやっていたら、日本の流行歌にこれほどまでの影響力を残すことはなかっただろう。服部音楽は、時代を先取りしすぎず、さりとて時代に迎合するでもなく、つねに半歩前を行くスタンスをとっていた。しかも、こんにち聴いても刺激的でまったく色あせていないというのは、表面上の“わかりやすさ”の下に広大で奥深い音楽の根が張りめぐされていて、聴くたびに新たな発見があるからだ。

 そのとおり、服部良一の音楽は世界のポピュラー音楽の宝箱である。
 和製ブルースとともにコロムビア初期の服部音楽を代表するのがジャズ・コーラスである。昭和11年(1936)、コロムビア入社第1作は淡谷のり子とナカノ・リズム・シスターズによるジャズ・ソング「おしゃれ娘」(久保田宵二詞)だったし、相次いで発表した中野忠晴とナカノ・リズム・ボーイズの「東京見物」(西條八十詞)もそうだった(本盤収録は「おしゃれむすめ」)。ミルス・ブラザーズやボズウェル・シスターズを手本にしたホットでリズミックなハーモニーは服部以前の日本の流行歌にはなかった。デューク・エリントン楽団をほうふつさせるホーン・セクションによるスリリングなアンサンブルの妙がすばらしい。

 服部にとっては満を持して送り出した自信作だったが、これらも「霧の十字路」とおなじ理由でヒットには至らなかった。それならと、日本人になじみのある民謡やわらべ唄を題材にして、ジャズ的なコーラス作品に仕立てたのが昭和12年(1937)発売の「山寺の和尚さん」(久保田宵二詞)だった。
 コロムビア・ナカノ・リズム・ボーイズを単独で起用したこの作品で、服部は「ポン ポン ポン」とか「ダガジグ ダガジグ ダガジグ ダンダラン」とか、お囃子ことばをもじったリズミックでユニークなスキャットを多用。親しみやすいメロディとモダンなビート感覚が融合したこの作品は服部にとって最初のヒットとなった。
 わたしは幼いころにボニー・ジャックスやダーク・ダックスの歌で慣れ親しんでいたせいか、「ずいずいずころばし」とおなじ作者不詳のわらべ唄だと思っていたが服部のオリジナルと知って驚いた。それぐらいメロディがよくこなれている。中山晋平の「証城寺の狸囃子」と双璧をなすと思う。



 かつてジャズ・ソングと一括されていた舶来のポピュラー音楽のなかで、日本の流行歌に比較的早くからとりいれられたのがタンゴだった。当時、日本ではキューバ原産のリズム、ハバネラ(アバネーラ)もタンゴの一種とされていたようだ。
 服部はニットー専属時代の昭和10年(1935)に奥野椰子夫の詞で「カスタネット・タンゴ」を作曲している。この曲は昭和24年(1949)に藤山一郎の歌でリメイクされていて(本盤収録)、これを聴いたかぎりではタンゴというよりハバネラに近い。ちなみに、『ブレイヴ・コンボのええじゃないか』(Pヴァイン PCD-1800)には同曲がリメイクされていて、そこではタンゴのリズムが使われている。

 「別れのブルース」の片面に収録されたコロムビア移籍後では初の和製タンゴ「泪のタンゴ」(奥山靉詞/松平晃歌)も同様にハバネラである。そのほか、本盤収録曲だけでも「チャイナ・タンゴ」(藤浦洸詞/中野忠晴歌)、「鈴蘭物語」(藤浦洸詞/淡谷のり子歌)、「蘭の花」(桐山麓吉詞/二葉あき子歌)、「夢去りぬ」(南雅子詞/スリー・シスターズ歌)、「黒いパイプ」(サトウハチロー詞/近江俊郎・二葉あき子歌)、「夜のプラットホーム」(奥野椰子夫詞/二葉あき子歌)というように服部は数多くのタンゴ/ハバネラの名曲を生んでいる。

 「チャイナ・タンゴ」は、タンゴが持つ異国情緒と中国風メロディとを結びつけた服部でなければ書けないモダンな楽曲。昭和13年(1938)に前線慰問団として初めて上海を訪れ、その近代的な街並みを見て曲想が浮かんだという。ここではじめてハバネラではなく正調タンゴが使われた。
 タンゴ/ハバネラといえば、昭和12年(1937)に映画『三星伴月』の挿入歌として周[王旋](おうへんに“旋”で一字)がうたって大ヒットした「何日君再来」が思い出される。「チャイナ・タンゴ」は、おそらくこの曲に触発されて書かれたものだろう。「チャイナ・タンゴ」によってモダンな中国風歌謡という新しいスタイルを確立した服部は、このあと「広東ブルース」(藤浦洸詞/渡辺はま子歌)、「蘇州夜曲」(西條八十詞/渡辺はま子・霧島昇歌)、「牡丹の曲」(西條八十詞/山田五十鈴歌)、「風は海から」(西條八十詞/渡辺はま子歌)、「アデュー上海」(藤浦洸詞/渡辺はま子歌)といった名作を生む(「広東ブルース」以外は本盤収録)。

 日米関係に暗雲が漂うようになるにつれ、ジャズやハワイアンは敵性音楽として演奏しづらくなったが、タンゴはそこまでではなかった。昭和14年(1939)に発売された「鈴蘭物語」は服部の自信作だったとみえ、15年(1940)にはスリー・シスターズの歌で、23年(1948)には霧島昇の歌で「夢去りぬ」としてリメイクされている。

 スリー・シスターズ(正確には南スリー・シスターズ)は、雅子(ヴォーカル)、澄子(スティール・ギター)、芳江(ウクレレ)のドイツ系混血の美人姉妹で、ボズウェル・シスターズにならったコーラス・スタイルでジャズやハワイアンをうたっていた。リズムとカスタネットが使われるところはタンゴ調なのに、スティール・ギターとウクレレがフィーチャーされるというタンゴとハワイアンが融合したユニークな“ワールド・ミュージック”になっている。なお、スリー・シスターズ・ヴァージョンは本盤のみの収録。ノイズがひどいが貴重な復刻である。

 この曲にはオリジナルがあって、それは「鈴蘭物語」発売の半年前の昭和14年(1939)4月に、コロムビアのポピュラー系洋盤から発売されたヴィック・マックスウェル楽団の「夢去りぬ LOVE'S GONE」である。じつはマックスウェルはコロムビア洋楽部にいた日独ハーフの社員ファクトマンのことで、作曲者のHatter は服部の変名だった。戦後、霧島の歌でこの曲がリメイクされたとき、服部の盗作疑惑がささやかれたほど、長くヨーロッパ人による原盤と信じられてきた。

 ハッターとマックスウェルのコンビは、このほかに「待ち侘びて I'LL BE WAITING」(Maxwell詞) と「私の好きなワルツ THE WALTZ I LOVE」(Maxwel詞) の2曲をレコーディングしている。発売は日米開戦直前の昭和16年(1941)7月。
 「待ち侘びて」の原曲は昭和14年(1939)に淡谷のり子の歌として書かれた「夜のプラットホーム」だった。ところが、出征兵士を見送るプラットホームの陰で泣いている女性の姿が連想されるという理由で、発禁処分を受けてしまった。それでは惜しいということで英語詞をつけて洋盤として売り出されたわけである。
 日本語版「夜のプラットホーム」は、戦後、二葉あき子の歌で再吹き込みされると大ヒットして、二葉の代表曲になった和製タンゴの傑作である。
 ちなみに本盤で聴けるマックスウェル楽団の歌と演奏は「私の好きなワルツ THE WALTZ I LOVE」のみ。

 前にふれたように服部作品をささえた代表的な女性歌手といえば、淡谷のり子、笠置シヅ子、渡辺はま子、そして二葉あき子だろう。前の3人にくらべると、二葉は音大卒の教員出身だけあって、高音で伸びのある声質で歌はうまいが優等生的すぎるキライがある。
 服部作品以外にも、古関裕而「フランチェスカの鐘」(菊田一夫詞)、古賀政男「恋の曼珠沙華」(西條八十詞)、仁木他喜雄「別れても」(藤浦洸詞)、高木東六「水色のワルツ」(藤浦洸詞)というようにあらゆるタイプの作曲家の楽曲をうたいこなす器用さをもっていた。

 二葉がコロムビアからデビューしたのは、服部と同年の昭和11年(1936)だった。「月に踊る」(藤浦洸詞)と「ビロードの月」(藤浦洸詞)は服部にとっても二葉にとってもコロムビア最初期の録音である。

 「月に踊る」は、スティール・ギターとアコーディオンをフィーチャーした南国調の明るい曲で、二葉のソロとナカノ・リズム・シスターズのコーラスとの掛け合いが聴きどころ。昭和17年(1942)ごろからたくさん出まわるようになる南方歌謡のさきがけとなる作品だ。
 ナカノ・リズム・ボーイズと共演した「ビロードの月」は、ハワイアンの影響が感じられる優雅なバラード。角田孝のバウンスするギターを伴奏に二葉がやさしくうたい、第2コーラスからリズム・ボーイズのハーモニーが加わり、ジワジワと盛り上がってくる編曲がすばらしい。

 彼女の端正なソプラノにタンゴはよく合う。昭和14年(1939)発売の「蘭の花」は、伴奏にコロンビア・タンゴ・バンドを起用した格調高いコンティネンタル・タンゴ。この流れを汲むのが、二葉が近江俊郎とデュエットでうたって戦後初の和製タンゴのヒットとなった「黒いパイプ」。伴奏はタンゴの名門、楽団南十字星。
 このように、タンゴ/ハバネラが広く受け入れられた背景には、哀愁好きの日本人の感性をくすぐるメランコリーをはらんでいたことがあげられよう。

 そういえば、前にわたしが“筋金入りの保守”と呼んだ古賀政男は、明大マンドリン倶楽部の創設者だったこともあって早くからタンゴに興味をもっていた。昭和6年(1931)、古賀の手によって和製タンゴ第1号「日本橋から」(浜田公介詞/佐藤千夜子歌)が、「影を慕いて」のB面として世に送り出された。昭和14年(1939)にはタンゴの本場ブエノスアイレスを訪れる。細川周平は、古賀が得意とした戦前の流行歌の代表的なリズムはハバネラのリズムと親和性があることを指摘し、これを“ハバネラくずし”と呼んだ。



 戦前にタンゴに次いで人気があったラテン音楽といえばルンバであった。ルンバの原型は1920年代にキューバで広まった音楽ソンとされ、30年にアントニオ・マチーンの歌とドン・アスピアス楽団の演奏でレコード化された「南京豆売り」EL MANISERO (THE PEANUT VENDOR) がNYで大ブレイク。人気はまたたくまに世界中に飛び火した。日本では、昭和6年(1931)秋に鉄仮面(作間毅)が「南京豆売り」を吹き込んだのが最初といわれている(『リズムの変遷〜日本ラテン傑作選』(ビクター VICG-60229〜30)収録)。
 
 自伝『わたしの音楽人生』巻末の主要作品リストによると、服部はタイヘイ時代の昭和7年(1932)に早くも「夏祭りルンバ」という曲を録音したとある。しかし、7枚組CDボックス・セット付属のディスコグラフィにはその記載がない。したがって、現在、存在が確認できる服部作品のなかで最初にルンバのリズムが使われたのは昭和14年(1939)発売の「小鳥売の歌」(サトウハチロー詞/松平晃歌)と「キューバの月」(野村俊夫詞/ミスコロムビア歌)である。

 昭和13年(1938)、淡谷のり子がコロムビアから、翌年には能勢妙子がビクターから、レクォーナ・キューバン・ボーイズの演奏で知られる「ルンバ・タンバ」RUMBA TAMBAH をカヴァーして好評を博した。淡谷ヴァージョンは『SP盤復刻による淡谷のり子名唱集』、能勢ヴァージョンは『リズムの変遷〜日本ラテン傑作選』、レクォーナ・ヴァージョンは"LECUONA CUBAN BOYS VOL.1"(Harlequin HQ CD11) および "VOL.4"(Harlequin HQ CD26) に収録。
 「ルンバ・タンバ」はもとはプエルト・リコ出身の作曲家ラファエル・エルナンデスの作品で、原詞は黒人奴隷の嘆きと絶望を詠んだ暗く深刻な内容だが、高橋忠雄の訳詞は対照的に陽気で朗らか。曲調が明るくリズミカルなこともあってヒットした。

 わたしは、戦前の日本人にとってのルンバのイメージは「南京豆売り」とこの「ルンバ・タンバ」の2曲にほぼ集約されると考えている。このことをもっともわかりやすく示してくれているのが「小鳥売の歌」ではないか。
 まず、「お買いなさいな お買いなさいよ 可愛い小鳥 小鳥はいかが」のサトウハチローが付けた歌詞とタイトルは、キューバでプレゴーン(物売り歌)と呼ばれる「南京豆売り」を手本にしている。
 サウンド面でも、歌のオブリガートにミュート・トランペットを入れたり、曲の節目でボンゴを激しく叩く手法は「南京豆売り」のものだ。しかし、マラカスを中心にくり出されるルンバのさわやかなリズムにのせて、松平が上品で甘い歌声を聞かせる都会的なムードは、レクォーナに近い。ルンバではあまり使われないフルートが入っているせいか、ラファエル・エルナンデスの「カチータ」CACHITA につうずるリリカルな表情をもつ和製ルンバの傑作である。

 「キューバの月」は、おそらく20枚組CDボックス・セット『オリジナル盤による昭和の流行歌』(日本コロムビア COCP-30171〜30190)でしかCD復刻されていないレア・ナンバー。
 ストリングス、ピアノ、マンドリン合奏と打楽器によるゆったり波打つようなリフはキューバというより南欧風。リズムがアフロっぽく聞こえることから、服部はレクォーナの「タブー」'TABU' あたりを手本にしたのではないか。ただし、アフロの特徴といえるエキゾティシズムは皆無。マラカスやミュート・トランペットの使い方にルンバらしさが認められるものの、ミス・コロンビア(松原操)のメリスマを効かせた歌は渡辺はま子のようで、ロマンチックなキューバの夜を熱海の海岸に変えてしまっている。なぜ、二葉あき子にうたわせなかったのか?

 服部が書いた和製ルンバの最高傑作といえば、二葉あき子の歌で戦後の昭和22年(1947)に発売された「バラのルムバ」があげられよう。もとは女優の高峰秀子のために書かれたが、高音の多いむずかしい曲になってしまったことから二葉が起用された。
 この曲でクラベスがはじめて使われシンキージョ(キューバ音楽独自の5つ打ち)を刻んでいる。これにマラカス、ボンゴなどが加わり本格的なルンバのリズムとなった。反面、「南京豆売り」風のトランペットは後退し、代わってフルートとストリングスによる流麗でまろやかなアンサンブルが前面に出てきて、ますますプエルト・リコ風(?)になった印象を受ける。つややかで張りのある二葉の歌いかたはルンバというよりタンゴに近いものの情感のこもった名唱といえる。

 李香蘭が山口淑子として日本語詞でうたった昭和25年(1950)1月発売の「夜来香」で、服部は編曲を担当している(山口淑子『夜来香』収録)。この日本語ヴァージョンもオリジナルの中国語ヴァージョン(李香蘭『私の鶯』収録)同様、華麗なルンバのリズム。「夜来香」は服部に「バラのルムバ」のインスピレーションを与え、「バラのルムバ」で用いられたアレンジ手法が「夜来香」日本語ヴァージョンに生かされているように思える。

 ちなみに、昭和31年(1956)に発売された胡美芳の「夜来香」で、服部はこれにマンボ・アレンジを施した(『コロムビア音得盤シリーズ/胡美芳』(コロムビア COCA71015)収録)。いくらマンボ・ブームだったとはいえ、この流麗なメロディにマンボとは無謀にもほどがある。

 服部ラテン・アレンジの集大成は、昭和22年(1947)末に4度目のレコーディングがおこなわれた「夢去りぬ」(鈴蘭物語)であろう。歌詞は加茂六郎による復古調に改められ、うたわれるのはワン・コーラスのみ。残りは全編にわたって服部による凝りに凝ったオーケストレーションが冴えをみせる。
 前半はアコーディオン、ピアノ、ギター、ヴァイオリンのピッチカートなどが歯切れのよいリズムを刻む格調高いハバネラ調、霧島の印象度の薄い歌をはさんで、後半はクラベスとマラカスが加わりルンバを奏でる。クラリネットとアコーディオンとの華麗なインタープレイが絶品。服部は日本の“モンチョ”ウセラか?

 ここまで、タンゴとルンバの、服部がとりくんだ代表的なラテンのリズムを使った楽曲について述べてきた。その他、変わったところでは、昭和14年(1939)に藤山一郎コロムビア復帰記念として発売された「懐かしのボレロ」(藤浦洸詞)という曲がある。「南の国 唄の国 太鼓を打て 拍子をとれ 楽しき今宵」の歌い出しで始まる情熱的な南国歌謡である。音域がひろいため中野忠晴も松平晃もうたいこなせず、最後に藤山にまわってきた難曲だ。藤山は期待に見事に応え、かれの代表曲のひとつになった。
 ところがこの曲、タイトルには“ボレロ”とうたわれているが、じっさいには闘牛士のテーマとして知られるスペインのリズム、パソドブレに近い。歌詞といい、打楽器の使い方といい、服部はルンバの世界を意識して作ったのだろう。



 藤山一郎で思い出した。数ある服部作品のなかで、いまももっとも多くの日本人から親しまれている「青い山脈」にふれねばなるまい。
 昭和24年(1949)2月発売のこの曲は、同名映画の主題歌として作られたが、今井正監督の意に添わず鬼子扱いされたにもかかわらずレコードは大ヒットした。明るくおぼえやすいメロディと未来への希望にあふれた歌詞が受けた理由だろう。映画『青い山脈』は、主題歌からイメージされる明るいだけの青春映画ではなく、原節子演じる女教師が戦前的価値観がいまだ残る社会と葛藤する意外とシリアスな内容の映画である。
 この2拍子系のシンプルでノリのいいリズムにはポルカの影響がみられるといい、事実、前掲の『ブレイヴ・コンボのええじゃないか』でポルカを得意とするブレイヴ・コンボは、これをスカ・ビートで見事にリメイクしてみせた。

 しかし、わたしをこの曲を先進的とはみない。むしろ、それまで進歩的とされていた服部が流行歌の保守本流を歩みはじめた記念碑的作品のように思える。
 あの印象的なイントロを聞いて連想したのは、古賀政男の「緑の地平線」(佐藤惣之助詞/楠木繁夫歌)、「東京ラプソディ」(門田ゆたか詞/藤山一郎歌)、「誰か故郷を想はざる」(西條八十詞/霧島昇歌)だった。演歌の流れで語られることが多い古賀だが、戦前には「丘を越えて」(島田芳文詞/藤山一郎歌)に代表される、細川周平が“ほがらかソング”と名づけた明るい青春ソングを多くつくった。これらもその流れにあるとみていいだろう。

 都市部の中産階級をターゲットにした“ほがらかソング”を代表する歌手は、日本で最初のクルーナーといわれる藤山一郎である。健全で折り目正しい藤山の歌唱なくして“ほがらかソング”の成功はなかっただろう。しかし、戦時色が色濃くなる昭和15年(1940)までには“ほがらかソング”は姿を消してしまった。
 そして、戦後になってこの流れが復活し、その代表曲が「リンゴの唄」(サトウハチロー詞/並木路子・霧島昇歌)であり「青い山脈」だったと思う。こうした経緯からして藤山の起用はまさに適切だった。

 戦前の曲でもうひとつ思い出したのが、昭和7年(1932)に発売された東海林太郎の「国境の町」(大木惇夫詞/阿部武雄曲)だ。「国境の町」は、馬車の前進をイメージさせるフォックストロットを和風仕立てにしたような2拍子系のリズムが特徴的だった。「青い山脈」は、買い出しのひとやヤミ屋でゴッタがえす電車の車窓から六甲山系を眺めているときに浮かんだメロディだったというから、服部は鉄道をイメージさせるのにこの手法を用いたのかもしれない。

 こんな具合に「青い山脈」「古い上着よ さようなら」どころか、戦争で着られなかった“古い上着”をタンスから出してきた復古調の作品だと思う。



 ここまで、CD『僕の音楽人生』収録曲を引き合いに出しながら、ジャズ、ブルース、タンゴ、ルンバなど、当時、最先端だった外来音楽を服部がいかに日本の流行歌にとりこんでいったかという点を中心に述べてきた。最後に文章の流れからこぼれてしまった2、3曲をとりあげて、このとりとめもない服部良一論を終えるとしよう。

 服部は、ジャズ畑の出身だったから、一流ジャズ・プレイヤーの知り合いも多く、昭和12年(1937)から翌年にかけて、歌とおなじ比重でかれらの楽器演奏にスポットライトを当てた楽曲をいくつか作っている。
 本盤収録曲では、トランペッター南里文雄の華麗なソロ・プレイをフィーチャーしたジャズ・バラード「私のトラムペット」(服部良一詞/淡谷のり子歌)、ギターの名手、角田孝のバンジョー・ソロをフィーチャーしたC&W調の“ほがらかソング”「バンジョーで唄えば」(藤浦洸詞/中野忠晴歌)がある。
 ほかにも「歌うサキソホン」(服部良一詞/松平晃・二葉あき子歌)というのがあるがCD復刻はされていない。

 終戦間もない昭和23年(1948)、荒廃した金沢城の堀端を歩いていて浮かんだというメロディから2つの名曲が生まれた。1つは灰田勝彦用に書かれた「東京の屋根の下」、いま1つがディック・ミネをイメージして書いたという「胸の振子」(サトウハチロー詞/霧島昇歌)である。

「柳につばめは あなたに わたし 胸の振子が 鳴る鳴る 朝から今日も」

 心あたたまる美しいメロディとサトウハチローの詞がすばらしく、渡米したとき、ビング・クロスビーに楽譜を贈ったというから本人にとっても自信作だったのだろう。契約の関係から霧島昇がうたっているが、ディック・ミネばりのジャズっぽいクルーナー唱法は名唱の名に恥じない。

 いま、わたしたちは世界中の音楽を比較的容易に聴くことができる。ところが、服部良一が若き時代を過ごした日本では、音楽ソースはきわめてかぎられていた。そんななか、これほど多岐のジャンルにまたがる音楽を作り続けたというのは、まさに驚嘆に値する。

 しかし、いっぽうで思う。もし現在のように音楽情報が豊富だったら、あのような自由でイマジネーティブな音楽を創作できただろうかと。
 ネコ科のトラは実在するが、日本の寺院や書院の襖や屏風に描かれたトラはほとんど空想の動物である。実在に裏打ちされつつも、多くを想像力によって肉付けされたトラは、日本的な美意識が全身に沁みこんで、実物とは多少ちがった姿をしているが、だからこそわたしたちを魅了しつづけるのである。


(1.20.06)



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by Tatsushi Tsukahara