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Artist

笠置シヅ子

Title

日本のポップスの先駆者たち
ブギの女王〜笠置シヅ子


kasagi
Date 1940-1956
Label 日本コロムビア 72CA-2894〜96 [3CDs] (JP)
CD Release 1988
Rating ★★★★☆
Availability ◆◆


Review

 戦前の日本においてジャズとポップスの水準がピークに達したのは、意外にも日米開戦直前の昭和16年(1941)だった。このことは、最近復刊された瀬川昌久さんの増補版『舶来音楽芸能史 ジャズに踊って』(清流出版)ではじめて知った。日中戦争が泥沼化するなか、ジャズに対する世間の風当たりは日増しに強まってきていたが、そんな風潮とはうらはらに演奏者たちのテクニックや作編曲の能力は格段の進歩を遂げていった。

 大阪松竹少女歌劇団(OSSK)の歌姫、笠置シヅ子が松竹楽劇団(SGD)の旗揚げ公演『スヰング・アルバム』に参加したのは昭和13年(1938)4月。このとき、同歌劇団に作・編曲と音楽指揮で招かれていた服部良一と出会う。

 OSSKのトップスターと聞いて、どんなすばらしいプリマドンナかと期待に胸をふくらませていた服部の前にあらわれたのは「薬びんをぶらさげ、トラホーム病みのように目をショボショボさせた小柄な女性」(服部良一『僕の音楽人生』)だった。ところが、その夜の舞台稽古で服部は思わず目を疑った。

「3センチほどもある長い付けまつ毛の下の目はパッチリ輝き、わたしが棒をふるオーケストラにぴたりと乗って、『オッドレ、踊ッれ』と掛け声を入れながら、激しく歌い踊る。その動きの派手さとスイング感は、他の少女歌劇出身の女の子たちとは別格の感で、なるほど、これが世間で騒いでいた歌手かと、納得した」(前掲書)

 それからというもの、ふたりは『踊るリズム』『ブルー・スカイ』『ら・ぼんば』『スイート・ライフ』『トーキー・アルバム』『ミュージック・パレード』『シンギング・ファミリー』『スプリング・ゴーズ・ラウンド』『カレッジ・スヰング』『ホワイト・ミュージック』『ジャズ・スタア』『スヰング・クリッパー』『グリーン・シャドウ』『ラ・クンパルシータ』などのオペレッタや音楽ショーを次々とコラボレート。服部との出会いによって、笠置のホットでジャジーなセンスはますます研きがかかっていった。

 しかし、戦時体制が逼迫してきた昭和16年(1941)の正月興行『桃太郎譚』を最後にSGDは解散してしまう。わずか3年に満たぬ儚い運命だった。
 笠置は歌手として独立すると、トロンボーン奏者の中沢寿士をリーダーに「笠置シヅ子とその楽団」を結成。しかし、米英音楽が禁止されたことからレパートリーを著しく制限されてしまう。ステージでは白墨で線が引かれ、その範囲内であまり動かずに歌わなければならなかったという。



 ここまで、なぜ、戦前のことを長々と書いてきたかというと、笠置シヅ子といえば“ブギの女王”、終戦直後のイメージがあまりに強烈で、しかし、じつはSGD時代にすでに彼女の歌唱スタイルは完成されていたと思うからである。

 笠置シヅ子は、まだ三笠静子と名のっていた昭和9年(1934)10月に日本コロムビアから「恋のステップ」(高橋掬太郎詞、服部ヘンリー曲)でレコード・デビューしている。このときちょうど20歳。すでにはOSSKの看板スターだった。
 ところが、それ以降、昭和15年(1940)1月発売の「ラッパと娘」までの約5年間、まったくレコードを吹き込んでいない。これは想像だが、彼女の本領はステージにこそあり、けっしてレコードむきではないとの考えが本人にもレコード会社にもあったためではないか。だからかどうか、「ラッパと娘」は、服部と出会ってすぐにではなく、ふたりのパートナーシップが揺るぎないものとなった時点で満を持してレコード発売された感がある。

 服部の作詞・作曲・編曲による「ラッパと娘」は、昭和14年(1939)7月に帝劇で上演されたSGDの『グリーン・シャドウ』の挿入歌。1937年の音楽映画『画家とモデル』で、ルイ・アームストロングと白人歌手で女優のマーサ・レイとが演じたかけ合いがヒントになっているとか。ここでの彼女の並はずれたリズム感と爆発力はとにかくすごい。スキャットひとつをとっても、黒人の物まねではなく、本能にしたがって全身から黒いグルーヴがわき起こって来ている感じだ。「ラッパと娘」こそ、笠置シヅ子の代表的な名唱であると断言したい。

 本盤は、デビュー曲「恋のステップ」をはじめとする、原盤が見つからなかった4曲(じっさいはもっとあるのではないか)を除く笠置シヅ子の全吹き込み53曲を年代順に網羅した3枚組。これらのうち、戦前のレコーディングは「ラッパと娘」を含め、わずか6曲のみ。その理由は述べたように、時代の先を走りすぎてレコードの売上げに結びつかなかったこと、レコードよりステージに力を入れていただろうこと、それと反米英感情が高まっていた時勢の問題あたりが関連していると思う。

 「ラッパと娘」に続く15年4月発売の「センチメンタル・ダイナ」は、服部の作・編曲、ジャズ評論の草分け大井蛇津郎(ジャズろう)こと、野川香文の作詞。ディック・ミネのヒット曲「ダイナ」へのアンサー・ソングだろう。恋に悩むダイナを勇気づけるスローで哀愁含みの前半、一転してホットにスウィングする後半という構成はどこか「ヘイ・ジュート」を思わせる。
 ちなみに、昭和21年(1946)、戦後最初の吹き込みで笠置はこの曲をリメイクしている。こちらも甲乙つけがたい出来のよさ。

 翌5月には「セントルイス・ブルース」(大町竜夫詞、W.C.Handy 曲)を発売。この曲はSGDの公演『ミュージック・パレード』で笠置がうたって絶賛されたもので、大人数の混声コーラスにたいして、笠置ひとりが果敢に立ち向かう独特の編曲がなされている。豊かな声量とバネを備えた彼女なればこそ可能になったといえよう。
 7月発売の「ペニイ・セレナーデ」(藤浦洸詞、H.Hallifex-M.Weersma 曲)は、優美なスウィング・ナンバー。服部のアレンジはあいかわらず冴えまくっているが、笠置がうたうしてはサラッとしてスマートすぎるか。

 同年中にもう1曲「ホット・チャイナ」(服部竜太郎詞)が発売される予定だったが、片面に収録の、おなじく服部作品でコロムビア・ナカノ・ボーイズがうたった「タリナイ・ソング」が検閲に引っかかって発売禁止処分を受けたため、おクラ入りになってしまった。
 「ホット・チャイナ」は、同年発売の「チャイナ・タンゴ」「蘇州夜曲」とともに、中国風にモダニズムをとりいれた独自の作風で大陸歌謡の新しい流れをつくった服部ならではスウィング調の傑作。この曲は、戦後の昭和27年(1952)に再吹き込みされているが、オリジナルには及ばない。

 「美しのアルゼンチナ」(原六朗詞、M.Gordon-H.Warren 曲)は、昭和16年(1941)8月発売で戦前最後の吹き込み。解説では映画'SOUTH AMERICAN WAY' でカルメン・ミランダがうたった曲とあるが、じっさいはダイナ・ショアのヒット曲'DOWN ARGENTINA WAY' のカヴァー。対米英開戦のおよそ3ヶ月前に、このような敵性音楽をレコードで出すとはなんとも大胆。タイトルにあるアルゼンチンを隠れみのにして当局を出し抜いたのだろう。



 戦時中、レパートリーを制限された笠置のために服部が提供した曲のひとつが南方歌謡「アイレ可愛や」(藤浦洸詞)だった。南方歌謡は政府が南進政策をうちだした昭和15年(1940)から急増。歌になるのは男ではなくかならず未婚の娘、しかも彼女は歌や踊りが大好き。そこには露骨な植民地支配の視線があらわれている。

 「アイレ」「村娘」「鳥籠ブラブラ ぶらさげて」「村から村へと 流れゆく」。南方はメロディよりリズムで表現された。ここでは「タタタタタンタン」という、いわゆる“オリエンタル・ダンス”をヒントにしたリズムが使われる。
 間奏部では「アイレー アイレーエ アイヤ ランランラン」という伸びやかな歌声がしばらくはさまれる。これはミゲリート・バルデース「ババルー」で典型的にみられた南国に対する呪術的イメージから来たものだろう。また、優美でエキゾチックなアレンジには、レクォーナ・キューバン・ボーイズらパリ・ルンバの影響が感じとれる。

 敗戦によって植民地を失った日本がつぎに発見した“南国=エキゾチズムの地”は北海道(アイヌ)だった。昭和25年(1950)1月に発売された「イヨマンテの夜」(菊田一夫作詞、古関裕而作・編曲)はアイヌの熊祭りを歌ったもの。“オリエンタル・ダンス”のエキゾチックなリズム、伊藤久男のミゲリート・バルデースをほうふつさせる豪快な歌唱は南国イメージそのもの。ストリングスの使い方などには満州歌謡のエッセンスが感じとれ、これによって北国らしさを表現しようとしたのではないか。

 「イヨマンテの夜」によって、菊田・古関コンビがつくりあげた北海道=南国イメージは、昭和27年(1952)4月からはじまった、菊田作のNHK連続ラジオドラマ『君の名は』にもそのまま受け継がれている。28年公開の映画版で、北原三枝が野性的なアイヌの少女に扮してうたった(じっさいにうたったのは織井茂子)「黒百合の歌」は典型的な北海道=南国歌謡である。

 「アイレ可愛や」から話題が南国に飛んでしまったので、ついでに笠置のもうひとつの南国歌謡「ジャングル・ブギ」にふれておこう。
 この曲はブギウギ・ブームまっただ中の昭和23年(1948)11月の発売。作・編曲はもちろん服部良一、作詞はあの黒澤明監督で、映画『酔いどれ天使』の挿入歌として書かれた。ブギではなく、ルンバでもなく、ミュートを使ったデューク・エリントン楽団の“ジャングル・スタイル”がベースになっている。

 「ウワオ ワオワオ ウワオ ワオワオ」の咆吼のあと、「妾(わたし)はめひょうだ 南の海は 火をはく山の ウワオワオワオ生れだ」。そして「ジャングルの ゴムの木に ひょうの毛皮を おいてきた」

 ゴムの木は熱帯アジアが原産。ヒョウはアフリカ、インド、マレー半島、ロシア沿海州などの草原や森林に棲息する。これらのことから黒澤にとってジャングルのイメージはマレイシア、インドネシアあたりにあったと想像できる。この南国イメージに骨格を与えているのは、いうまでもなくハリウッド映画『ターザン』である。
 ヒョウはなぜかオスではなくメスでイメージされる場合が多い。卑近な例では浜崎あゆみがそうだし、むかし、日本ではヒョウはトラのメスと考えられていた。ヒョウ柄と小ぶりでしなやかな体型からそう思われたのか。モデルになったのは、20年代のパリを席巻した褐色の女王ジョセフィン・ベイカーだろう。

 ちなみに、原詞では「月の赤い夜に ジャングルで 腰の抜けるような恋をした」「月の青い夜に ジャングルで 骨のうずくような恋をした」だったが、「えげつない歌、うたわしよるなァ」と笠置がいやがったため、「骨のとけるような 恋をした」「むねがさけるほど ないて見た」に変更された。個人的にはやはり原詞のほうがいかにも黒澤監督らしくて好きだ。

 このようにオリエンタリズムからも、ジェンダーの問題からも興味は尽きないが、そういう教養的な観点は抜きにして、「ジャングル・ブギ」は聴きごたえのある傑作である。



 寄り道が過ぎた。
 さて、上海で終戦を迎えた服部良一は昭和20年(1945)12月に身ひとつで帰国。翌年、エノケン一座の正月公演『踊る竜宮城』、3月にはエノケン・笠置の初顔合わせで『舞台は回る』の音楽を担当した。
 「コペカチータ」(村雨まさを詞)はこのときに服部が笠置のために書き下ろした新曲。ちなみに村雨まさをとは服部のペンネーム。「不思議なリズムだ」の歌い出しではじまるこの曲は、文字どおりメロディとリズムがめまぐるしく変転する。ルンバあり。ハバネラあり。ひとことでいうとスペイン調の情熱的なジャズ・オペレッタという感じだ。笠置なればこそ歌いこなせた難曲である。

 翌22年(1947)2月、日劇で服部のアイデアによる『ジャズ・カルメン』を上演。笠置は主役のカルメンを演じた。「コペカチータ」は『ジャズ・カルメン』の予告編だったのか。

 『ジャズ・カルメン』の公演中、笠置は吉本興業の社長の子息、吉本頴右(えいすけ)とのあいだに子を身ごもっていた。しかし、無事公演を終えて、6月に出産を控えた数日前に許婚が病死するという不幸にみまわれる。
 失意のどん底にあったが愛娘のためにと芸能界にはやばやと復帰。そして、22年(1947)11月に発売されたレコードが「コペカチータ」「セコハン娘」(結城雄次郎詞)だった。

 「セコハン娘」は、着物も、ドレスも、ハンドバッグも、ハイヒールも、恋人も、みんな姉さんのお古ばかり。大事なお父さんだって二人目のお父さん。だから私はセコハン娘、という自虐的で可哀相なお話。メロディは、それまでの彼女にはなかった哀愁味ある歌謡曲調である。「セコハン娘」とは、GHQから支給される救援物資で細々と生きながらえている戦後の日本社会のアレゴリーであることはいうまでもない。明るく歌い踊るイメージがあった笠置が悲嘆に暮れていたときであったからこそ、この曲のもつ悲しさがにじみ出ているのだと思う。



 昭和22年(1947)12月、「東京ブギウギ」(鈴木勝詞)が発売された。服部は、笠置の私生活での苦境、敗戦で沈む日本人の苦境をふきとばし明日への活力に変えようと応援歌のつもりでこの曲を作った。

 ブギ・ウギとは、中村とうようさんによると「黒人音楽の中核をなすブルースに内包するダンス音楽的な要素を凝縮した」ものとある(『伝説のブギ・ウギ・ピアノ』(ユニバーサル UCCC-3041)解説より)。ピアノで奏されるブギ・ウギ最大の特徴は「左手が1小節に8個のビートを刻む」点にあるといわれる。ちなみに、ブギ・ウギの発展型がロックである。

 服部の自伝『わたしの音楽人生』には、昭和17年(1942)ごろ、「ビューグル・コール・ブギウギ」の楽譜を手に入れたのがブギウギとの出会いだったとある。翌年、「荒城の月」のアレンジにブギのリズムを使ったのが最初。そのつぎは終戦まぎわの昭和20年(1945)、上海でのコンサートで李香蘭のために書かれた「夜来香幻想曲(イエライシャン・ラプソディ)」のなかで使われた。そして、戦後、日劇公演『ジャズ・カルメン』でと、レコーディングまでに都合3回テストしていた。

 「ビューグル・コール・ブギウギ」とは、昭和16年(1941)発売の白人女性コーラス・グループ、アンドリュース・シスターズのヒット曲'BOOGIE WOOGIE BUGLE BOY' のこと(THE ANDREWS SISTERS "50TH ANNIVERSARY COLLECTION VOL.1"(MCA MCAD-42044)ほか収録)。聴きくらべてみると、ピアノの左手の低音のパターンになごりが感じられる。

 ところが、パイントップ・スミスやミード・ルクス・ルイスなど、黒人ダンス音楽としてのブギ・ウギの28年から46年までの演奏を収めた前出の『伝説のブギ・ウギ・ピアノ』を聴いてみても、「東京ブギウギ」とはあまり似ていない。ともに8ビートではあるのだけれど、アンドリュース・シスターズにはあった跳ねるようなシャッフルのリズム感覚が「東京ブギウギ」にはみられないのだ。

 だから「東京ブギウギ」はブギではない、といえるかというと、そうともいいきれない。ブギはもともとアメリカ黒人たちのダンスへの欲求から自然発生してきたものだから、起源や創始者を特定することができない。奏法もひとによってさまざまあるため、ブギの定型を明示することはむずかしい。だから、中村とうようさんのことばを借りれば、「何がブギかはパタンではなく感覚の問題」ということになる。

 「東京ブギウギ」には、敗戦でなにもかも失ってしまったことへの絶望感と不安とを明日への希望に変えていこうという開き直りともとれるたくましさが感じられる。つまり悲しみをバネとした陽気さであり、このスピリットこそブギそのものといえないだろうか。

 服部は、新橋駅近くの内幸町にあったコロムビア・スタジオでレコーディングを終えて帰宅する中央線の満員電車のなかで、その振動に身を任せるうちにブギのリズムと重なって「東京ブギウギ」のメロディが浮かんだという。ブギ・ピアノの名手ミード・ルクス・ルイスの代表作'HONKY TONK TRAIN BLUES' も幼児のときの汽車の振動がもとになったというからブギのフィーリングは世界共通なのだ。

 「東京ブギウギ」の大ヒットによって、翌23年(1948)には「さくらブギウギ」(2月/藤浦洸詞)、「ヘイヘイ・ブギ」(4月/藤浦洸詞)、「博多ブギウギ」(5月/藤浦洸詞)、「北海ブギウギ」(9月[未復刻]/藤浦洸詞)、「大阪ブギウギ」(9月/藤浦洸詞)、「ジャングル・ブギ」(11月/黒澤明詞)、「ブギウギ時代」(11月/村雨まさを詞)と、タイトルに“ブギウギ”または“ブギ”を冠した曲を立て続けにリリース。ここに笠置は“ブギの女王”といわれるようになった。



 昭和24年(1949)には、「ホームラン・ブギ」(7月/サトウハチロー詞)、「ジャブ・ジャブ・ブギウギ」(8月/天城万三郎詞)、「名古屋ブギー」(11月/藤浦洸詞)、「ブギウギ娘」(12月/村雨まさを詞)の4曲が発売されたが、さすがにあきられたとみえ、25年は「買物ブギー」(7月/村雨まさを詞)、26年「アロハ・ブギ」(2月/尾崎無音詞)、「大島ブギ」(9月[未復刻]/藤浦洸詞)、「黒田ブギ」(10月/村雨まさを詞)、27年「七福神ブギ」(4月/野村俊夫詞)とブギが激減する。

 ここには、みてのとおり“ご当地ソング”が多くまじっている。“ご当地ソング”は土地の観光事業やまちおこしを目的に昭和はじめにさかんに作られた(たとえば「ちゃっきり節」)。これらは新民謡と呼ばれ親しみやすい小唄調が中心だった。しかし、戦争の荒廃から復興しつつあった地方都市には、戦前の新民謡ではなく、新時代の到来を象徴するブギがうってつけと考えられたのではないか。

 ところが、時代が下るにしたがってブギが引きずられて新民謡化していく。伊豆伊東温泉をうたった「ジャブ・ジャブ・ブギウギ」にいたっては、ピアノが8ビートである点を除けば、ほとんど民謡とお座敷唄の世界。ドリフで有名な「いい湯だな」の原型みたいだ。

 正直なところ、「東京ブギウギ」の爆発的な躍動感と解放感を比較的忠実に受け継いでいると感じるのは「ヘイヘイ・ブギ」「ブギウギ時代」ぐらいである。
 「ワッハッハッハッハッハッハッハッ」「エヘヘ ウフフ オホホ イヒヒ」とひたすら笑いまくる「ヘイヘイ・ブギ」の爽快さったらない。
 そのほかは“ご当地ソング”か、さもなくばノヴェルティ・ソングといったほうがよさそうな曲ばかり。だが、ことわっておくがノヴェルティ・ソングがダメだといっているのではない。

 たとえば、名作「買物ブギー」。上方落語「ないもの買い」をヒントにしたという早口トークにはブギよりもラップに近いノリがある。この歌は“わて”と、魚屋と八百屋のおっさんとのツッコミとボケから成り立っている。なんといっても笠置と服部はともに大阪人。大阪弁のもつ飄々とした人なつっこさがこれほど見事に生かされた曲はほかにはない。

 昭和28年(1953)5月発売の「たのんまっせ」(藤浦洸詞)は「買物ブギー」の姉妹編。今回は“私”がタクシーの運ちゃん相手に「急げ急げ」とひたすら早口でツッコミつづける。
 27年(1952)3月発売の「ボン・ボレロ」(村雨まさを詞)もしゃべくり路線だ。太鼓が大好きな“私”がじっさいの太鼓の音と太鼓を模した声(「ドンツクドンツクドンドンツクツク」)をからめながら標準語でまくしたてる。リズムはボレロというよりもパソドブレに近い気がする。
 服部の弟子、原六朗の作詞・作曲・編曲で昭和30年(1955)2月に発売された「私の猛獣狩」もこの路線を踏襲している。しかし、残念ながら(というか案の定)、どれも「買物ブギー」の二番煎じの域を出ていない。

 それよりも驚いたのは「私の猛獣狩」で、歌詞にゴジラが出てくること。なぜなら、息子がもっている『全ゴジラ完全超百科』によると、映画『ゴジラ』は昭和29年11月公開とあり、レコード化はわずか3か月後のことだったからである。

 「私の猛獣狩」の片面は、おなじく原六朗作の「めんどりブルース」。スローでメランコリックな展開と、ハイテンポでスウィンギーな展開とが代わる代わるあらわれるこの曲は、原が美空ひばりに書いた昭和27年(1952)の「お祭りマンボ」とカラーがよく似ている。このころ、ノヴェルティ路線ばかりをうたわされて、かすみがちだった笠置の歌のうまさがいまさらながらに実感できる名曲・名唱といえよう。

 以上のほかにタイトルにブギを冠していないがブギに分類されそうな「情熱娘」(藤浦洸詞)、「ロスアンゼルスの買物」(村雨まさを詞)、「ハーイ・ハイ」(村雨まさを詞)、「雷ソング」(野村俊夫・村雨まさを詞)のような曲もある。ただし、戦前の「ラッパと娘」を思わせるホットでジャジーな「ハーイ・ハイ」を除けば、どれも似たような感じ。
 むしろ、ブギに隠れていまひとつ地味な印象の「あなたとならば」(藤浦洸詞)や「ペ子ちゃんセレナーデ」(東美伊・藤浦洸詞)はメロディが愛らしく捨てがたい佳曲といえる。



 “ブギの女王”のエピゴーネンはすくなくともふたりいた。ひとりは松竹少女歌劇団(SSK)出身の暁テル子、もうひとりは少女時代の美空ひばりである。

 「ヘイヘイ・ブギ」「セコハン娘」「ジャングル・ブギ」などをレパートリーとして“豆ブギ”だの“小型笠置”だの呼ばれた天才少女歌手にたいして、笠置が服部作品をうたうことの禁止を求めたのは有名な話。もっともおかげで「悲しき口笛」「東京キッド」など、ひばり独自の世界が生まれることになったとはなんとも皮肉な話。
 
 笠置は『ジャズ・カルメン』などで共演した暁テル子にたいしても、昭和24年(1949)に服部のバックアップでビクターからレコードを出したことに不快感を隠さなかったという。
 暁は「南の恋唄」(村雨まさを詞)、「これがブギウギ」(村雨まさを詞)、「鬼のブギウギ」(佐伯孝夫詞)、「東京カチンカ娘」(村雨まさを詞)の4曲の服部作品をうたったが、いずれもヒットにはいたらなかった。暁は「ミネソタの卵売り」(佐伯孝夫詞、利根一郎作・編曲)や「東京シューシャインボーイ」(井田誠一詞、佐野鋤作・編曲)など、服部以外の作曲家が書いた曲によってブレイクした。
 上述曲はすべて暁テル子『昭和を飾った名歌手たち(13)ミネソタの卵売り』(ビクター VICL-60338)に収録。

 ふたりのエピゴーネンがブギで成功しなかったのは、ブギとは笠置であり、笠置がブギだったからである。裏を返せば、ブギを脱ぐときは笠置が歌手をやめるときということだ。事実、マンボ・ブームが到来しブギ時代が終わりをつげた昭和31年(1956)1月発売の「ジャジャムボ」(村雨まさを詞)と「たよりにしてまっせ」(吉田みなを・村雨まさを詞)を最後に歌手として引退してしまった。世は、ひばり・チエミ・いづみの三人娘の時代だった。



 最後に、マンボと笠置シヅ子の関係についてすこしふれておきたい。
 以前にわたしは「服部良一はマンボのリズムに乗れなかった」と書いた。この表現はやや極端であり、じっさいはマンボのリズムにもチャレンジしている。

 笠置の歌のなかにも、昭和30年(1955)7月発売の「ジャンケン・マンボ」(村雨まさを詞)と「エッサッサ・マンボ」(服部鋭夫詞)、ラスト・レコード「ジャジャムボ」「たよりにしてまっせ」の4曲がいわゆる“マンボ”といえそう。

 「ジャンケン・マンボ」は、イントロこそペレス・プラード風だが、歌も演奏もおとなしすぎてマンボならでは爆発力が感じられない。その点、「安来節」をモチーフにしたというマンボ民謡「エッサッサ・マンボ」には、はつらつさが感じられてずっとマンボらしい。東京パノラマ・マンボ・ボーイズの「パチンコ・マンボ」を思い出した。

 「たよりにしてまっせ」は、メロディこそオーソドックスな歌謡曲調だけれども、ホーン・セクションとボンゴなど打楽器をフィーチャーしたきびきびしたアレンジはマンボ風。
 法華経のリズムをヒントに作られたという「ジャジャムボ」は、ヴァイオリン、フルート、パーカッション中心にくり出されるクルクルと旋回するような小気味よいリズムが印象的。マンボというには軽やかで、ジャズ畑の歌手、旗照夫とのデュエットのせいか、笠置の歌はいつもよりさっぱりしているように聞こえる。服部・笠置コンビの知られざる傑作である。

 そもそも服部の音楽はひたすら陽気なブギであっても、背景には優美なリリシズムをたたえていた。だから、よりストイックで直線的なマンボにはあまり向いていないと思う。

 このことを証明するのが、李香蘭の可憐な歌で知られる中国歌謡の名曲「夜来香」(黎錦光詞・曲)に服部がおこなった2種類のアレンジである。
 李香蘭が山口淑子になって昭和24年(1949)に日本語で再吹き込みしたルンバ・ヴァージョンと、日本生まれの中国人歌手、胡美芳が昭和31年(1956)に吹き込んだマンボ・ヴァージョン。このマンボ版「夜来香」こそ、わたしの聴いたかぎりでは、服部のもっともマンボらしい演奏である。これらを聴きくらべれば、服部音楽がマンボではなくルンバ寄りだったことが実感できる。

おまけ
 笠置シヅ子のレパートリーは現在もジャンルをこえて、多くの歌手やグループによってカヴァーされている。なかでも、芸能生活35年記念盤として98年に発売された『小林幸子ブギを唄う』(日本コロムビア COCA-15114)は笠置カヴァー集の決定盤といえよう。音楽プロデューサーには宮川泰をむかえ、「東京ブギウギ」「買物ブギー」の定番曲はもとより、デビュー曲「ラッパと娘」からラスト・レコード「たよりにしてまっせ」までまんべんなくフォローした全12曲構成。

 小林幸子の唱法は美空ひばりの直系。たしかに歌は達者だし愛情は伝わってくるのだけれど、ベタッとしていて黒っぽいグルーヴがカケラもない。宮川のアレンジにしても、“プロの手並み”の域で、雪村いづみの服部良一作品集『スーパー・ジェネレーション』(日本コロムビア COCA-12155)のバックを受け持ったキャラメル・ママのようなマニアックなまでのこだわりは感じられない。企画そのものはおもしろいと思うが、残念ながらわたしたち洋楽ファンをうならせる内容とはいいがたい。

 笠置の歌は、戦前には“世界”から“日本”に向けて、終戦直後は“日本”から“世界”に向けて発せられていた。ところが、小林の歌は“日本”から“日本”へこじんまりと完結してしまっている。したがって、安定感はあってもスリルに欠けてしまう。ここが最大の難点だ。
 笠置シヅ子の世界はちがう。そこでは、ジャズやポップスのモダンな感覚とディープでコアな庶民芸能の感性とが違和感なく共存しており、その両極端から“凡庸”を笑いとばす。

 最後の最後にいい忘れたが、この3枚組は一般のレコード店やamazonではたぶん手に入らない。しかし、通販のコロムビアファミリークラブではまだ入手可能なので、なくならないうちに早めに手をうっておくことをおすすめします。


(3.1.06)


増補「買物ブギー」から消えた歌詞
 ところで、現在、CD復刻されている「買物ブギー」は(LP時代も含めて)、歌詞に不適当な部分があるとして一部が削除されている。そこで、削除された部分をあきらかにしたいと思う。なぜなら“不適当”な部分があって、「買物ブギー」のストーリーははじめてつじつまが合うからだ。

 魚屋と八百屋に寄ったあと、主人公は「ボタンとリボンとポンカンと マッチにサイダーにタバコに仁丹」などを買おうとつぎの店に立ち寄る。
「チョットオッサンこれなんぼ」「オッサン オッサンオッサン オッサン」と何度も大声で話しかけるも返事がない。すると“オッサン”は「わしゃ(ツンボで)聞こえまへん」。「わてほんまによう言わんわ わてほんまによう言わんわ」と主人公がぼやいて歌は終わる。

「買い物ブギー」とおなじ昭和25年(1950)に、アメリカ映画『腰抜け二丁拳銃』の主題歌「ボタンとリボン」を“スイングの女王”池真理子がカヴァーして大ヒットした。

 ここで「ツンボで」が削除され「わしゃ聞こえまへん」に変えられたせいで、店の“オッサン”は本当は聞こえているのに、聞こえないフリをしているようにとれる。わたしはずっとそう思っていた。ところが、この話には続きがあるのだ。(以下聞き取りによる)

「そんなら 向かいのおばあさん わて忙しゅうて かないまへんので ちょっとこれだけ おくんなはれ 書付渡せば おばあさん これまた メクラで 読めません 手さぐり半分 何しまひょ」

 そして、「わてほんまによう言わんわ わてほんまによう言わんわ ああしんど」で、はじめて話は完結する。内容からして、この“おばあさん”は文盲ではなく視覚障害者である。ということは、前段の“オッサン”もとぼけているのではなく聴覚障害者とみるべきだろう。

 このように「買物ブギー」の後半は障害者が笑いのネタにされている。この歌にインスピレーションを与えた古典落語にしてからが差別ネタの宝庫のために現在は講演がむずかしくなっていると聞く。

 時代を考えれば、この削除はやむをえなかったような気もする。しかし、これらには2ちゃんねるの、目を背けたくなるような下品さが感じられない。差別にはちがいないが、動機に不純さがない。「買物ブギー」は、日本の流行歌史に名をとどめる名作といえ、初リリースから50年以上もたっていることを考えれば、古典として完全復刻すべきと思う。この音楽をいま聴くひとたちが2ちゃんねらーのようなアイロニカルな悪意にもとづく差別主義者だとはどうしても思えないのだが...。
(3.26.06)


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by Tatsushi Tsukahara