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Artist

美空ひばり

Title

今日の我れに明日は勝つ
美空ひばり大全集


hibari daizennsyu

Date 1949 - 1988
Label 日本コロムビア CA-4001〜4035[35CDs+2 Booklets](JP)
CD Release 1989
Rating ★★★★☆
Availability


Review

 美空ひばりを「演歌の女王」としてではなく「日本のポピュラー・ミュージック」の文脈で本格的に扱ったのは、知るかぎり「季刊ノイズ」89年夏号がはじめてではなかったか。この特集が出た直後にひばりは世を去った。
 昭和36年(1961)生まれのわたしにとって、美空ひばりとは「キンチョウ蚊取り線香のオバサン」だった。それ以上でもそれ以下でもなかった。

 美空ひばりというと、いまもかならず引き合いに出されるのが古賀政男やその弟子である船村徹との関係である。
 デビューから7年後の昭和31年(1956)、船村徹がひばりのために「港は別れてゆくところ」とともに最初に手がけた「波止場だよお父つぁん」は、ひばりが“演歌歌手”に転じていくきっかけとなったマイルストーンである。
 外の世界との玄関口の役割をはたす“波止場”は演歌の主要な構成要素である「望郷」と「悲恋」を喚起させるのにもってこいの題材だった。ひばり自身が港町横浜出身だったこともあり、これがきっかけとなって、昭和30年代は“波止場”“港”“マドロス”をタイトルに使った曲がたくさん吹き込まれている。

 そして、そんな“波止場もの”の最高傑作こそ、作曲・船村徹、作詞・石本美由起のコンビが手がけた「哀愁波止場」(昭和35年)である。曲中「五木の子守唄」が引用され、これがいやがおうにも郷愁をかきたてるという、後年、阿久悠が八代亜紀の「舟唄」で試みた「本歌どり」のさきがけとなっている。この曲のヒットによって“演歌歌手”美空ひばりのイメージはゆるぎないものになった。

 ところが、東京オリンピックがあった昭和39年ごろから、ひばりの歌に重要な変化があらわれてくる。高度経済成長にともなう交通網の発達は、昭和初期の「波浮の港」「出船」以来、流行歌において〈内〉と〈外〉をつなぐ境界として特権的なポジションを得てきた“波止場”を主役の座から引きずりおろしていった。
 
 代わってめだってきたのが任侠や芸人・職人などに仮託してストイックな生きざまを歌にしたもの。その代表例が、古賀政男の作曲で、昭和39年に日本レコード大賞を受賞した「柔」である。東京オリンピックで柔道がはじめて公式競技に採用されたことと、“エコノミック・アニマル”として禁欲的に労働に励んだ当時の日本人のヒロイズムに訴えたことがこの曲の大ヒットにつながったのだろう。

 そして、「柔」とならんで美空ひばりの全盛期を画した代表曲こそ、古賀政男の作曲、石本美由起の作詞で古賀本人がギターを弾いた昭和41年発表の「悲しい酒」である。ここで「望郷」と「悲恋」の場は“波止場”から“酒場”へ移行したことがはっきりあらわれている。“酒場”は“波止場”と同様、さまざまな地方から都会に出てきて夢やぶれた者たちが集う吹きだまりであった。“波止場”にはまがりなりにも現実の風景があり、具体的な他者がいたが、「柔」といい、「悲しい酒」といい、ここに来てすべては自家撞着的な心象世界にのみ存在するようになった。“豊かな社会”に生まれ育ったわたしには、なぜにこうまで内向するのか、自己陶酔するのか、正直なところ理解に苦しむ。

 わたしがリアルタイムに耳にしていたのはそんなひばりであった。この重く粘着質で、わざとらしいまでに過剰でおどろおどろしいものの正体はなんなのか?それは敗戦による荒廃から猛烈な勢いで経済成長を遂げてきた日本社会が吐き出した澱(おり)なのか。
 戦後、海外から新しい文化が堰を切ったように日本に押し寄せてきた。戦前・戦中的な価値観は崩壊し、日本人の多くは依って立つべき機軸を欠いたままそれらにさらされアイデンティティ不安に陥った。そのための防衛手段として伝統回帰志向がつよまり、「日本」をイメージさせる素材が手当たり次第にかき集められた。しかし、外部からの文化刺激があまりに強烈すぎたとみえて、その反動としてあらわれた「日本」は過剰なまでのディープさと、とってつけたようなわざとらしさを身にまとっていた。こうした土着化現象はめざましい戦後復興にともなう日本の自信回復のあらわれだったといえるかもしれない。

 だから、ひばりが歌う「日本」は戦前・戦中の「日本」とは似て非なるものである。“外圧”に対抗するために、より「日本」らしくあることを求められたひばりの歌は、よってますます重く、ますますわざとらしくなっていく。

 ここまでは“演歌歌手”としての美空ひばりについてみてきた。ここからは時計の針を戻して“演歌歌手”になる前のひばりについてみていくことにしよう。

 わたしがはじめて買ったひばりのレコードは、90年(平成2年)に発売されたCD『ジャズ&スタンダード』(日本コロムビア CA4545)だった。タイトルのとおり、外国曲ばかりを集めたもので、「演歌の女王」としてしか彼女を知らない身にはかなりショックだったのをおぼえている。なかでも、ひばり十代のときに吹き込まれた「上海」(昭和28年)や「A列車で行こう」(昭和30年)は体全体を使ったようなノリがすばらしく、英語であろうとなかろうと物怖じすることなく軽々と歌いこなす実力はまさに天才歌手の名に恥じない名唱といえる。

 ところが、シャープ&フラッツと共演した昭和36〜40年ごろの録音になると途端につまらなくなる。小器用な演歌歌手が外国曲にチャレンジしたという域を出ていないのだ。十代のころは先入観を持たずジャンルをこえて“歌そのもの”として対していたのが、この時期になるとジャズやポップスをジャンルとして意識して歌っているように聞こえる。基点として〈内〉に「日本」を据えたことが、ジャズやポップスを〈外〉として対象化する結果を招いてしまっている。この時点でひばりは世界に開かれた歌手であることをやめて「日本」の歌手になってしまった。

 こうしてみてくると、ポピュラー音楽ファンが聴いて楽しめるひばりは、やはり昭和24年のデビューから昭和30年前後までというところに落ち着いてしまう。そんなことで、これからひばりを聴いてみようというひとには、前述の『ジャズ&スタンダード』と、デビュー曲「河童ブギウギ」から昭和32年の「港町十三番地」までのヒット曲を集めた3枚組『美空ひばり特選オリジナル・ベストヒット曲集Vol.1 1949〜1957』(日本コロムビア COCA-70001~03)をまずおすすめしたい。

 しかし、これらはいずれもひばりの音楽を日本のポピュラー音楽の文脈でとらえ直す視点からはかならずしも満足できる選曲とはいいがたい。編集方針がまったく見えてこず、ただ適当に曲を選んで羅列しただけで、解説はおろか録音データさえしっかりしていないのだ。これらのことは、もう10年以上も前に中村とうよう氏や田中勝則氏が指摘してきたことなのに、いまだにそれが実現していないとは日本コロムビアの怠慢でなくしてなんであろう。
 このままでは、美空ひばりという昭和が生んだ不世出の大歌手の功績が、彼女と同時代を生きたひとたちの「思い出のアルバム」のなかに封じ込められてしまう。「コロンビアよ、わたしらのために、ひばりのために、日本のポピュラー音楽の将来のために、いますぐ封印を解け!」

 これにはこんな異論もあろう。「近ごろの昭和歌謡ブームのなかで、ひばりのレパートリーは現在もリメイクされつづけているではないか!」と。だが、それらはひばりの歌そのものを正当に評価しているのではなくて、“ひばり神話”を都合よく利用しているにすぎないように聞こえてしまう。そのためにこそ“神話”をいったん解体し、むき出しのひばりを現代の視点から再検証する必要があるのだ。

 美空ひばり。本名加藤和枝は、昭和12年(1937)に横浜の下町、滝頭にある通称「屋根なし市場」の魚屋の娘として生まれた。戦後すぐに家族を中心に旗揚げされた青空楽団(まもなく美空楽団と改称)で歌ったのが評判になって、昭和23年、横浜の国際劇場に出演。このとき、当時、人気絶頂の笠置シヅ子の前で笠置の持ち歌「セコハン娘」を歌った。笠置は歌い手としての本能から、この少女のおそるべき才能に警戒し、自分の持ち歌をいっさい歌わないように申し入れたという。大スター笠置をしてこうまで警戒せしめたものとはなんだったのであろうか?

 笠置の「海を渡り響く」ブギには、重苦しい戦争からの解放感と、先行きの見えぬ将来にたいする「あとは野となれ山となれ」みたいな自暴自棄の感覚がつきまとう。ところが、ひばりはデビューから2曲目の「悲しき口笛」(昭和24年)に端的にあらわれているように、敗戦という現実を少女の身に正面から受けとめている。現実を笑い飛ばして忘れようとする笠置と受けとめようとするひばり。ひばりの歌には明るい曲にもつねにそんな哀しさが宿っていた。

 童謡を除けば、ブギも、ブルースも、タンゴも、ジャズも、和調も分け隔てなく易々と歌いこなした少女時代の美空ひばりは、あらゆる既成の秩序や価値観が崩壊しアノミーと化した戦後社会のなかで、自信を喪失した大人たちを尻目にしたたかに生きている子どもたちを象徴する存在であった。サトウ・ハチローがひばりをゲテモノ扱いし毛嫌いしたのも、ひばりというボーダーレスな存在が戦前戦中的な価値観にすがりつく大人たちにとって脅威と映ったからだ。

 ひばりの追悼盤として89年に発売された歌詩集と写真集付きのこの木箱入り豪華35枚組CDボックス・セットは、『美空ひばり大全集』のサブタイトルとはうらはらに『ジャズ&スタンダード』にあった外国曲が収録されていないが、ひばりのオリジナル曲(おそらく歌詞が差別的として削除された「びっこの七面鳥」(昭和27年)を除いて)はほぼ年代順に網羅されている。ひばりの座右の銘だったという『今日の我れに明日は勝つ』がタイトルにとられていることからも想像がつくように、わたしのような音楽マニアではなく、ひばりマニアへのメモリアルとして発売されたものといえる。そのため、日本コロムビアの社長をはじめ、ひばり関係者による追悼文があるのみで曲目解説はいっさいなく大いに不満。しかし、聴きたくとも聴けなかった曲がいくつも収録されていたことから、ネットオークションでこれを見かけたとき、けっして安い買い物ではなかったが思いきって落札した。

 わたしの興味は演歌歌手に転向する前の十代のひばりにあったから、手に入れてずいぶん経つのに聴くのはもっぱら前半の10枚前後までに集中している。
 ひばりは笠置シヅ子の歌マネで注目されるようになった経緯もあって、12歳のとき、はじめて吹き込んだオリジナル曲はブギだった。デビュー曲「河童ブギウギ」(昭和24年)は、笠置から突きつけられた服部メロディ禁止令によって、服部良一ではなく浅井擧嘩が書いている。ひばりが吹き込んだブギとしては、ほかに「拳銃ブギー」「あきれたブギ」(ともに昭和25年)「泥んこブギ」(昭和26年)があり、これら3曲はおそらく本盤でしか聴けないレア・ナンバーだろう。
 
 なかでも注目したいのが、世の大人たちから白眼視されるひばりの心情を越後獅子に託して西条八十が作詞した名作「越後獅子の唄」(昭和25年)のB面に収められていた「あきれたブギ」「越後獅子の唄」とおなじく作詞・西条八十、作曲・万城目正のコンビで書かれたこの曲は、ついこのあいだまで「挙国一致」とか「生きて虜囚の辱めを受けず」とかいっていた大人たちが、いまやアプレーゲル(戦後派)を気どってみたり、ストリップショーにうつつを抜かしているさまを少女の視線で諷刺した痛快な内容。

 じつは、ひばりは1曲だけ服部良一からブギを提供されている。「銀ブラ娘」(昭和26年)がそれだが、服部が高峰秀子に書いた「銀座カンカン娘」(昭和24年)の二番煎じの域を出ていない。この曲が世に出たときは、すでに「悲しき口笛」「東京キッド」(昭和25年)「越後獅子の唄」「私は街の子」「ひばりの花売娘」(ともに昭和26年)などのヒット曲をものにしたあとだったから、もはやひばりにブギも服部メロディも必要ではなかったとみる。ひばりが笠置シヅ子をこえていた証といえる。

 初期のひばりに多くの曲を提供していた作曲家としては、万城目正、上原げんと、米山正夫、原六朗の名をあげることができる。万城目正は「悲しき口笛」「東京キッド」「越後獅子の唄」「あの丘越えて」(昭和26年)、岡晴夫とのコンビで“花売娘”シリーズのヒットを持つ上原げんとは「私は街の子」「ひばりの花売娘」、米山正夫は「リンゴ追分」(昭和27年)、原六朗は「お祭りマンボ」(昭和27年)というふうに、作曲者の個性がよくあらわれた数々の名作を生んでいる。これらさまざまなタイプの曲をいとも軽々と歌いこなしてしまっているのだから、やはりひばりはすごい。

 そんななか、いま聴いても、新鮮でラディカルに感じられるのが原六朗の作品。その代表作「お祭りマンボ」は、下町的な威勢のよさとラテンの快活なリズムとが渾然一体となって下世話なまでの喧騒をうみ出している。ところが後半になるとガラッとブルース調に変わり、祭りのあとの哀感をかき立てるという凝った展開。厳密にはこれはマンボのリズムとはいいがたいのだけれど、田中勝則氏によると、外国人がマンボをとりいれヒットさせた世界的にもっとも早い例だという。
 本盤のみで聴けるマンボとしては、ほかに「チューチューマンボ」(昭和28年)「江戸ッ子マンボ」(昭和29年)「泣き笑いのマンボ」(昭和35年)「すたこらマンボ」(昭和36年)がある。前の2曲はおなじく原の作品で「お祭りマンボ」の二番煎じといったところ。後の2曲は米山の作品で「泣き笑いのマンボ」についてはひばり本人の作詞。「ひばりのドドンパ」(昭和36年)ともども録音年代が新しいこともあって、ずいぶんラテンっぽくなっているけど、これらをひばりが歌う必然性はあまり感じられない。

 ほかにもラテン音楽ファンとして見逃せないものに「春のサンバ」(昭和28年)「陽気なバイヨン」(昭和29年)「ひばりのチャチャチャ」「哀愁のサンバ」(ともに昭和31年)なんてのもある。「ひばりのチャチャチャ」を除けば本盤のみの復刻ということもあって、ものすごく期待して聴いてはみたが、やはり案の定というべきか、どれもラテン風味の“なんちゃって系”。でも、これはこれで当時のラテン音楽にたいするパブリック・イメージがみえてきたりして、それなりには楽しめる。

 ポピュラー音楽としての美空ひばりのピークは昭和27〜28年、ひばり15、16歳のときとみる田中勝則氏の意見にわたしもまったく賛成である。この35枚組でいうと3〜6枚目がその時期にあたる。なかでも4枚目5枚目がいい。
 ここには「お祭りマンボ」「チューチューマンボ」「春のサンバ」のほかに、グレン・ミラー風のスウィング・ナンバー「小さな水溜り」、ハリウッド調バラード「パパは話がわかる」、ルンバ調の「誰でしょう」「シャボン玉の乙女」、C&W調の「チャルメラそば屋」、ハワイアン調の「バイバイ ハワイ」「バラ色の船」、チャイナ風メロディ「晩香玉(ワンシャンユイ)の花咲く宵」、西部劇映画音楽風の「月の幌馬車」、クリスマス・ソング「ひとりぽっちのクリスマス」、服部メロディ風の「乙女ごころの唄」、古賀メロディ風の「流れのギター姉妹」、マイナー調ワルツ「乙女ごころの唄」、和製ブルース「私はシンデレラ」、小唄・端唄調の「初夢道中」「唄祭り八百八丁」、民謡調の「馬っこ先生」、NHK連続テレビ小説『私の青空』で主人公の父親でマグロ漁師役の伊東四朗がいつも口ずさんでいた米山正夫の名曲「津軽のふるさと」等々、ありとあらゆる音楽をひばりは自由自在に歌いこなしている。
 
 そして、星の数ほどあるひばりの歌のなかで、あえていちばんのお気に入りをあげるとすると、昭和28年吹き込みの「チャルメラそば屋」だろうか。この曲は、当時日本に駐留していたボビー・ノートンが、ラーメン屋のチャルメラをおもしろく感じて作ったコミック・ソングで、ひばりは前半を日本語、後半を英語で歌っている。リズムやメロディはC&W調だが、本物のチャルメラやハワイアン風のスティール・ギターが使われたり、途中で曲調が一時、新内流しに変わったりと“ワールド・ミュージック”のお手本のような凝ったつくりとなっている。

 いま、この文章をテレビをつけたまま書いていたところ、ワイドショーで氷川きよしがひばりの歌をカヴァーするとの報道を目にした。楽曲がいいからというよりも、ひばりの曲だからというのがカヴァーの理由のようだ。“ひばり神話”を利用してヒットにありつこうとする輩がまたここにもひとりあらわれた。いまや「神様」に奉られたひばりは、ジョン・レノン同様、もはや表現者として見てもらえなくなってしまったのか。わたしらに求められているのは、できあがった“ひばり神話”を後世に伝えることではなくして、「いま・ここ」においてひばりと向かい合うことではないだろうか。


(1.15.04)



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by Tatsushi Tsukahara