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Artist

雪村いづみ

Title

フジヤマ・ママ
スーパー・アンソロジー 1953〜1962


fujiyama mama
English Title FUJIYAMA MAMA: The Super Anthology of Izumi Yukimura
Victor Recordings 1953-1962
Date 1953-1962
Label ビクター VICCG-60506〜8 [3CDs]
CD Release 2002
Rating ★★★★☆
Availability ◆◆◆◆


Review

 ポップスをうたわせたら、日本で屈指のシンガーだと思う。
 彼女の歌声に魅了されたのは、平成3年(1991)に発売された黒沢進氏の選曲による名コンピレーション『黄金のニューリズム'50s・'60s』(ビクター VICL5109)収録の「マンボ・イタリアーノ」'MAMBO ITALIANO' だった。
 マンボ全盛期の昭和30年(1955)に発売されたこの曲は、前年にローズマリー・クルーニーがうたったミリオン・セラーをカヴァー。陽気なジャジャ馬娘という感じのロージーに対し、いづみはもっと清楚でキュート。また、オリジナルではホンキートンク風のハープシコードがキイを握っていたが、いづみヴァージョンではスティール・ギターがこれに代わり、大胆でラディカルなソロを展開。歌、演奏ともにオリジナルを完璧に圧倒している(編曲は広瀬健次郎)。日本ポップス史上に残る名唱名演といえよう。

 “三人娘”の末っ子、雪村いづみが「想い出のワルツ」'TILL I WALTZ AGAIN WITH YOU' でデビューしたのは昭和28年(1953)4月、16歳のときであった。今回、はじめて気づいたのだが、“三人娘”のひばり・チエミ・いづみは年齢ではなくデビューの順ということ。じつは、三人とも昭和12年(1937)生まれで、正確にはひばり5月29日、チエミ1月11日、いづみ3月20日と、なんと!ひばりが1学年下。ひばりがオバサンくさかったのか、いづみがカマトトぶっていたのか。その両方だろう。

 本盤は、デビュー曲「想い出のワルツ」から、結婚直後の昭和37年(1962)発売の10インチLP『雪村いづみのヒット曲集』まで、彼女の10年の歩みを集大成した全75曲からなる豪華3CDボックス・セット。1曲を除いてオリジナル・マスター音源使用なので音質がたいへんよい。また、若き日の貴重な写真、ビクター在籍時のディスコグラフィ、全出演映画のデータ、瀬川昌久、出口一也、北中正和、黒沢進諸氏による詳細な解説と、至れり尽くせりの内容。おまけにポストカード4枚付き。
 そんなわけで、いまさらクドクドと書きたてる必要もなかろうから、ここでは個人的な感想と補足情報をつけ加えるにとどめようと思う。

 DISC1には、「想い出のワルツ」「ジャンバラヤ」'JAMBALAYA' から30年(1955)2月発売の「インディアン・ラブ・コール」'INDIAN LOVE CALL' 「炎のワルツ」'LET ME GO LOVER' まで、代表作「青いカナリア」'BLUE CANARY' 「はるかなる山の呼び声」'THE CALL OF THE FAR-AWAY HILLS' を含む24曲を発売順に収録。当時アメリカのヒットチャートをにぎわした洋楽ポップスを中心にムーディでおしとやかな曲調が並ぶ。グレン・ミラー風のスウィング・サウンドをバックに、いづみは十代とは思えない洗練された歌声を聞かせてくれる。

 DISC1収録曲の大多数は、訳詞を井田誠一、編曲を多忠修と寺岡真三が担当。
 このうち、多忠修(おおの・ただおさ)は、昭和初期に雅楽の名門多家からジャズ界に入った変わり種。戦後はサックス奏者として渡辺弘のスターダスターズに入り、昭和24年(1949)、自己の楽団ゲイ・スターズを結成した。ゲイ・スターズは、その後、ビクター・オール・スターズと名のって、ビクター専属の歌手のバックバンドをつとめた。いづみのバックをつとめるのは、このビクター・オール・スターズ、つまりゲイ・スターズ。だから、ポピュラー向けにソフトにアレンジされてはいても、根底に流れるのはオーセンティックなビッグバンド・ジャズだ。

 戦前からジャズ畑で活躍していた多に対し、寺岡真三は戦後派。昭和23年(1948)、日本のジャズメンでもっとも早くバップに取り組んだといわれるグラマシー・シックスの結成にピアニストとして参加。昭和27年(1952)に編曲家としてビクターに迎え入れられた。映画『シェーン』の主題歌をカヴァーした「はるかなる山の呼び声」は、編曲家として寺岡がはなった最初のヒットである。

 よく知られているように、戦前、日本でジャズ・ソングといえば、いわゆるジャズだけでなく、外来のポピュラー音楽全般を含んでいた。この傾向は戦後も引き継がれ、モダン・ジャズが定着する昭和30年代なかばごろまでは残っていたようだ。雪村いづみや江利チエミは、ポピュラー・ソングをうたうほとんど最後の“ジャズ歌手”だった。だから、いづみを多や寺岡のようなジャズ畑の人間がバックアップしたのはごく自然な流れだったといえる。

 ちなみに、多が参加したスターダスターズやゲイ・スターズ、寺岡が参加したグラマシー・シックスなどの貴重な演奏は、9枚組CDボックス・セット『ジャズ・イン・ジャパン 1947-1963』(ビクターVICJ-60722〜60730)で聞くことができる。

 DISC1にかんするかぎりでは、多と寺岡とでアレンジに大きなちがいは感じられない。ところが、当時“ニューリズム”と呼ばれていたマンボやチャチャチャなどにも取り組みはじめた昭和30年(1955)以降になると、個性のちがいがはっきりしてくる。DISC2には、そんな“ニューリズム”や映画の主題歌のカヴァーを中心に昭和30〜31年のレコーディング25曲を収録。

 「慕情」'LOVE IS A MANY SPLENDORED THING' 「エデンの東」'EAST OF EDEN' など、もっぱら映画音楽のカヴァーを手がける多は、デビュー以来の格調高くムーディなジャズ系ポップス路線を堅持。
 ただし、「恋人になって」'I WANT YOU TO BE MY BABY' のような例外もある。これはロックンロールの原型になったジャンプ・ブルースで、服部良一笠置シヅ子コンビの「買い物ブギー」をほうふつさせるファンキーさ。といっても、根幹はやはりジャズというところが多らしい。

 いっぽう、若い寺岡は「チャチャチャは素晴らしい」'MILAGROS DEL CHA CHA CHA' 「マンボ・バカン」'MAMBO BACAN' など、明るく快活な“ニューリズム”の編曲も積極的に手がけた。
 しかし、寺岡以上にいづみの“ニューリズム”路線を後押ししたのは、このころ、新たに編曲家として加わった広瀬健次郎である。広瀬は、先述の「マンボ・イタリアーノ」のほかに「スィート・アンド・ジェントル」'SWEET AND GENTLE' 「ジングル・ベル・マンボ」'JINGLE BELLS MAMBO' と、当時、大流行したマンボやチャチャチャを次々とものにした。広瀬は、のちに作曲家として「若大将」や「駅前」シリーズ、「オバQ」「ド根性ガエル」など、数多くの映画・テレビの音楽やCMソングに腕をふるうようになる。

 しかし、江利チエミのバックについた見砂直照(みさご・ただあき)と東京キューバン・ボーイズのパンチあふれるスリリングな演奏に比べると、ビクター・オール・スターズの演奏はいまだジャジーでラテンになりきれず、すこしお行儀がよすぎる。
 このことはいづみ本人の歌にもいえていると思う。たとえば、有名な「ジングル・ベル」ペレス・プラード調にマンボ・アレンジした「ジングル・ベル・マンボ」での、いづみのハリキリ(なりきり)ぶりはノリがよくすばらしいと思う反面、その優等生的なスタンスがわざとらしく、ときに薄ら寒く感じられるのだ。

 マンボよりお寒いのが、いづみがロックンロールをうたうとき。たとえば、本盤唯一のギターバンド伴奏による“ロカビリーの女王”ワンダ・ジャクソンの「フジヤマ・ママ」'FUJIYAMA MAMA' やジェリー・リー・ルイスの「火の玉ロック」'GREAT BALLS OF FIRE' で、シャウトしたり声をしゃくり上げたりするロカビリー独特の唱法をじつに見事にこなしている。

 ロックンロールの表現は、ある意味で、青春心理のエモーショナルな発動であるのに、いづみは、その青くささを抜群の歌唱力によって完璧になぞってみせる。第1回日劇ウェスタン・カーニバルの大成功によって、十代のロカビリー歌手たちがつぎつぎとデビューした昭和33年(1958)、いづみはすでに20歳を超えていた。実力ではかれらを圧倒的に凌駕していたのにもかかわらず、うまさがかえって災いしたようにも思える。肝心なのはスピリットであり、つたなさはむしろ若さの勲章だったのだ。
 
 60年代(この時代からは西暦での表記がふさわしくなる)になると、渡辺マリ、ザ・ピーナッツ、森山加代子田代みどり弘田三枝子といったポップス新世代がつぎつぎとデビューを飾る。しかし、その前のロカビリー時代の3年間はというと、めぼしい人材としては昭和32年(1957)デビューの浜村美智子、翌33年に11才でデビューした伊東ゆかりぐらいしかが見当たらない。そこで、レコード会社としてはジャズ系のいづみに頼らざるをえなかったという事情があったようだ。

 DISC3には、昭和32年からのロカビリー時代と、日本とアメリカを往来する生活から本場のミュージカルに魅せられていった時代の音源を中心に26曲収録。多の名はぱったりと消え、寺岡と広瀬のふたりが編曲をほぼ担うようになった。それはジャズの時代の終わりを告げると同時に、いづみにとっては流行歌手から実力派歌手へ脱皮していく過渡期でもあった。

 ディスク終盤の8曲は61年(昭和36)末に録音された10インチLP『雪村いづみのヒット曲集』を丸ごと収録。いづみがアメリカで実際に見聞したミュージカルや映画の主題歌などを中心に選曲されたジャジーな仕上がりの良質なポップ・アルバム。伴奏は戦後、日本のビッグ・バンドの最高峰として君臨し続けてきた渡辺弘とスターダスターズ。編曲は60年に多からゲイ・スターズを託されたトロンボーン奏者、野々村直造が当たっている。

 ワイル=ブレヒトの「マック・ザ・ナイフ」'MACK THE KNIFE (MORITAT)'、コール・ポーターの「アイ・ゲット・キック・アウト・オブ・ユー」'I GET A KICK OUT OF YOU'、57年のミュージカル『ウェストサイド物語』の挿入歌、ナンシー梅木が出演した58年のミュージカル『フラワー・ドラム・ソング』の挿入歌、コニー・フランシスの「センザ・ママ」'SENZA MAMA E NNAMMURATA'、民謡をうたった異色作「ひえつき節」と、歌、演奏ともに申し分のない高みに達している。まちがいなく雪村いづみの歌手としての頂点をなす傑作アルバムといえよう。しかし、個人的な好みでいえば、アメリカかぶれのゴージャスさが鼻について3回聴けばもういい世界。

 何度もふれたように雪村いづみは、実力と才能を兼ね備えた日本ポップス史上、最高の歌い手であった。しかし、そんな彼女にも欠けていたものがあった。そのヒントはDISC2収録の「マンボ・バカン」のなかにある。この曲は、55年のイタリア映画『河の女』で女優ソフィア・ローレンがうたった主題歌。

 このイタリア製マンボのなにが魅力かというと、楽曲のよさもさることながら、ペレス・プラードの「ア〜、ウーッ」の代わりに、ローレンが悩ましく「ア〜ン、ウフ〜ン」とため息をつくところ。いづみの「マンボ・バカン」には、このため息が入っていない。そう、コケットリーの欠如こそ、雪村いづみという歌手の最大の欠点である。

※とかなんとかいいながら「マンボ・バカン」はいづみの歌のなかでもお気に入りの1曲である。だが、それ以上にソフィア・ローレンのオリジナルがよすぎる!ローレンのは有名なわりにはあまり復刻が進んでいないみたいで、わたしは SOPHIA LOREN / "GREATEST HITS" (VIVI MUSICA VCDS 7008) でようやく聞くことができた。

 それどころか、ノン・セックスは“三人娘”のすべてに共通した特質であった。朝倉喬司氏が美空ひばりを論じたさいに指摘したように「“性”と社会、あるいは芸能と“性”に係わる、ある普遍的な契機に基づいた醸造物」などと大それたことをいうつもりはない。

 むしろ鍵は、三人がいずれも少女歌手としてデビューしたところにあると考える。子どもとしての〈幼女〉と産む性としての〈女〉のあわいにあって、それらのどちらでもありどちらでもない存在としての〈少女〉。“三人娘”の人気は「子どもが大人顔負けにうたう」ところに負う部分が少なくなかった。だからこそ、他方で「大人にはない健全さ」が求められたといえまいか。

 “三人娘”はこの微妙な宙吊り状態の上に立っていたがゆえに、大人になっても〈女〉になることが許されなかったように思う。もし、いづみがソフィア・ローレンばりのため息を洩らしていたら、世間はとたんに彼女が落ち目になったと断じていただろうから。かくして、年ごとに歌唱力を“成熟”させていったいっぽうで、〈女〉としての“成熟”はじゅうぶんに果たされなかった。このアンバランスが、雪村いづみのカマトトと正体である。


(10.24.05)



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by Tatsushi Tsukahara