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Artist

CUARTETO MACHIN

Title

THE ORIGINAL CUARTETO MACHIN



Japanese Title 国内未発売
Date 1930/1931
Label TUMBAO TCD-015(CH)
CD Release 1992
Rating ★★★★☆
Availability ◆◆◆


Review

 アントニオ・マチーンの名まえは知らなくても、ドン・アスピアス楽団の「南京豆売り」で、「マ〜〜ニ〜〜」と甘く美しい郷愁にあふれた歌声を聞かせてくれた歌い手といわれれば思い当たるひとも多いはず。マチーンの、あの歌なくしては「南京豆売り」の世界的な大ヒットはなかっただろうし、もっといえばキューバ音楽がその後の世界のポピュラー音楽にこれほどまでに大きな影響力を及ぼすことはなかったと断言できる。「南京豆売り」での名唱があまりにも有名なものだから、マチーン自身が率いていたグループについては意外と知られていないのは残念なことだ。

 アントニオ・マチーンは、1903年(1900年とも)、スペイン出身の父とキューバ生まれの母とのあいだに生まれた。ミュージシャンとして成功を夢見て上京したハバナで、トローバの作者として有名なマヌエール・ルナに見出されトリオ・ルナに加入。26年にはミゲール・ザバラとデュオを結成し、ナイトクラブやラジオに出演するまでになった。
 
 そして27年、ナイトクラブに出演していたかれらの歌を聞いたドン・アスピアスから、アスピアス率いる人気楽団カシーノ・ナシオナールと契約しないかとのオファーがあり、これを快諾。だが、かれはドン・アスピアス楽団の専属歌手になったのではなく、あくまでゲストの扱いだったのではなかろうか。というのも、29年には、マチーンのよきパートナーとなるギタリストでセカンド・ヴォーカル担当のダニエル・サンチェス、トレス奏者で作編曲家でもあったアレハンドロ・ロドリゲスらとセステート・マチーンを結成しているからだ。
 
 このころ、セステート・アバネーロセステート・ナシオナールなどの人気グループがあらわれて、キューバ東部オリエンテ州サンティアーゴ・デ・クーバで生まれたソンとよばれる音楽スタイルをキューバ全土に広めた。セステートとは、トレス(複弦3対のキューバ独自の小型ギター)、ギター、ベース、マラカスまたはクラーベス(たいがいヴォーカル兼任)、ボンゴの6人編成。この人気にあやかったのがセステート・マチーンであり、29年6月にはこのセステートでソンのレコーディングもおこなっている。このときのテイクはANTONIO MACHIN / EL MANISERO 1929-30(TUMBAO TCD-026(EP))またはVARIOUS ARTISTS / "SEXTETO CUBANOS"(ARHOOLIE CD7003(US))で聴くことができる。
 
 30年春にはドン・アスピアスの誘いで相棒のダニエル・サンチェスとともにニューヨークへ渡り、その年の4月26日、ニューヨーク・パレス・シアターで伝説となったドン・アスピアス楽団のコンサートに出演。そして5月13日、ニューヨークのスタジオで「南京豆売り」の歴史的録音をおこなっている。その20日後にはダニエル・サンチェスを除くすべてのメンバーをニューヨークで調達してセステート・マチーンとして録音すると、なんと!わずか15日後の6月18日に、今度はハバナでサンチェスを含む現地のメンバーからなるセステート・マチーンとして録音をおこなっている。するとまたもやアスピアスからお呼びがかかり、返す刀でニューヨークへ渡り、7月2日に「真実の愛」'AMOR SINCERO' の名唱を残すという当時の交通事情からして信じられないような離れワザをやってのけている。30年という年がマチーンにとって、そしてキューバ音楽にとって大きなエポックだったことを物語るエピソードである。
 
 「南京豆売り」がレコード・リリースされたのはその年の11月だったが、発売されるやいなや売れに売れて、瞬く間にミリオン・セラーになった。ルンバ・ブームのはじまりである。この未曽有の大ヒットをきっかけに、マチーンはニューヨークへ拠点を移すことにした。ところが、ニューヨークではソンを演奏できるミュージシャンがまだあまりいなかった。そこで窮余の策として結成されたのがクァルテート・マチーンだったわけだ。編成は、リード・ヴォーカルとマラカスまたはクラーベスがマチーン、セカンド・ヴォーカルとギターがダニエル・サンチェス、これにトレス(またはクアトロ)とトランペットが加わった。
 
 このクァルテートはマチーンがヨーロッパへ渡る直前の35年まで約5年間つづいたが、マチーンとサンチェス以外のメンバーは一定していない。「南京豆売り」で印象的なミュート・トランペットを聴かせてくれたレンベルト・ララや、ハバナのセステートでトレスを弾いていたアレハンドロ・ロドリゲスらに混じって、トランペットでアフロ・キューバン・ジャズのキーマンとなるマリオ・バウサの名も見える。また、ペドロ・フローレスのクァルテート・フローレスやラファエル・エルナンデスのクァルテート・ビクトリアなどの名門グループに在籍した“ダビリータ”こと、ペドロ・オルティス・ダビラをはじめ、ニューヨーク在住のプエルト・リコ人が何人か参加しているのはとても興味ぶかい。
 
 30年代のニューヨークのプエルト・リコ音楽(VARIOUS ARTISTS / "THE MUSIC OF PUERTO RICO"(HARLEQUIN HQ CD22(UK))"LAMENTO BORINCANO"(ARHOOLIE 7037-38(US)))を聴いていると、それまでプレーナ、デシマ、アギナルドなどプエルト・リコ特産の音楽が多かったのが、徐々にボレーロやソンといったキューバ産の音楽が演奏される比率が高くなってくるのがわかる。たとえば、36年にセステート・フローレスが録音した'UN BESITO NO MAS' なんて、キューバン・スタイルのソンそのもの。キューバ音楽の圧倒的な影響力から脱して、プエルト・リコ音楽独自のカラーが生まれてくるのは40年ごろからである。
 
 クァルテート・マチーンの演奏は、系統的にはトリオ・マタモロス・サウンドにつうじるものがあるが、当時の平均的なキューバ音楽とくらべるとずいぶんあか抜けた印象を受ける。マチーンは、ソンやボレーロをキューバそのままに演奏したのではなく、ラファエル・エルナンデスやペドロ・フローレスといったプエルト・リコの作曲家の作品もとりあげていることでもわかるように、ニューヨークのラテン・コミュニティを視野に入れた、より柔軟なカリブ圏音楽を構想していたのではないか。トレスのかわりにプエルト・リコの小型ギター、クアトロが使われたりしていることもそのあらわれといえよう。ドン・アスピアスが西欧世界の抱く南国イメージをそのまま音楽に反映させたがために散漫になっていったのとは対照的に、マチーンの音楽にはカリブの古層にしっかりと根ざした柔軟さが備わっているのだ。
 
 本盤は、トゥンバオからリリースされたクァルテート・マチーン曲集の第1集にあたる。クァルテートとしては最初期の30〜31年の音源20曲を収める。プレゴーン2曲、グァヒーラ1曲のほかはすべてソンとボレーロであるが、伴奏がシンプルなぶん、マチーンのヴォーカルとハーモニーの美しさがきわだっており、聴けば聴くほどはまる。トレスを弾くのはプエルト・リコ出身のカンディード・ヴィセンティで、そのせいかこころなしかクアトロっぽい弦の刻み方である。
 
 セステート・ナシオナールのイグナシオ・ピニェイロの代表作のひとつ'SUAVECITO' のようなリズミカルなソンやプレゴーンも悪くないが、やはりじっくりと歌を聴かせてくれるボレーロ系がすばらしい。なかでもプエルト・リコっぽいやわらかなタッチを持った'SORPRESA'「水晶の鐘」の邦題で知られるエルナンデスの代表曲'CAMPANITAS DE CRISTAL'、エルナンデスの名作'LAMENTO BORINCANO'「プエルト・リコ人の嘆き」をパロッたと思われるしっとりしたソン'LAMENTO CUBANO'、マチーンとサンチェスの掛け合いが美しい'MARIA BELEN CHACON' が好き。キューバにくらべてプエルト・リコにクァルテート編成が多いのは、クァルテート・マチーンの影響なのかと考えたくなるぐらいにプエルト・リコの音楽との距離が近い。
 
 ピニェイロの代表作'ENCHALE SALSITA' をアルバム・タイトルにいただいた第2集(TUMBAO TCD-041(EP))は、クァルテートの活動期間にあたる30〜35年の音源から各年ほぼ均等に選曲された全22曲からなる。ピニェイロ作の4曲を筆頭に、セステート・マタンセーロのリーダーで名トレス奏者であったイサーク・オビエードの'VACILANDO'、トリオ・マタモロスあたりがリメイクしていたような気がするマチーン自作の代表曲'A BARACOA ME VOY' など、第1集にくらべるとソンのしめる比率が圧倒的に高く、全体にアップ・テンポになった印象を受けるが、内容的には申し分ない。プエルト・リコの代表的なリズムであるプレーナをもっとも早く録音したカナリオのグループでクアトロを弾いていたヤイート・マルドナードがギターで参加しているのも興味を惹かれるところだ。
 また、オリエンタル・ムードにあふれたトンデモ・チャイナの'ILUSION CHINA' はかなり笑える。黒人奴隷貿易が禁止されたあとの19世紀後半、労力(クーリー)と呼ばれた中国人労働者がかなりの数キューバへ送られてきたようで、セステート・アバネーロの'PA' CANTON' やトリオ・マタモロスの'LA CHINA EN LA RUMBA' など、中国をモチーフにした曲は意外に多い。「ラテン系音楽におけるオリエンタル趣味」はいちど取り組んでみたいテーマではある。
 
 1935年、マチーンはヨーロッパへ渡り、ロンドンでコンサートを開くと、そのままパリに拠点を移し、以後みずから楽団を率いてドイツ、デンマーク、スウェーデン、オランダ、イタリア、ルーマニアへ演奏旅行に出た。そして39年、第二次大戦の勃発を機に、父親生誕の地であるスペインに永住を決意。77年マドリードでスペインの人たちから愛されながら逝った。


(3.4.03)



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by Tatsushi Tsukahara