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PER UN PUGNO DI DOLLARI |
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わたしがモリコーネ、というより音楽全般に興味を持ったきっかけというのが「さすらいの口笛」TITOLI だった。『木枯らし紋次郎』が大好きだった小学生が、当時、ひんぱんにテレビ放映されていたマカロニ・ウェスタンの虜になったのは自然ななりゆきだったように思う。 そして買ったRCA/ビクター発売のシングル盤「荒野の用心棒」PER UN PUGNO DI DOLLARI 。しかし、それはわたしが聞きたかった“それ”ではなかった。おまけにB面の「続・夕陽のガンマン」はモリコーネではなくウーゴ・モンテネグロ楽団。当時は“サントラ本命盤”とか称してサントラを偽装したニセモノも出まわっていた。そいつはそういう手合いではないもののニセモノであるにはちがいない。しかも隅におけないのは、全米でヒットし日本で広く知られていたのはむしろこちらの方だったのだ。 ちなみにモリコーネ楽団の「続・夕陽のガンマン」は、ドミニク・フロンティア楽団の「奴らを高く吊るせ!」とのカップリングでキングからシングル発売されていた。権利の関係からキング発売のマカロニ・ウェスタンのテーマ曲集には収録されておらず、このシングルではじめて聞き大きな衝撃を受けた。いまもモリコーネのベスト・スコアだと思っている。当時、映画音楽はイージーリスニングの延長線上でとらえられていて、そのカテゴリーで括るにはモリコーネの「続・夕陽のガンマン」はあまりにラディカル、あまりにアヴァンギャルドだった。 モリコーネはいまでこそ巨匠扱いだが、当時はニーノ・ロータの一流にたいしB級のキワモノ扱いだった。レオーネにもモリコーネにも芸術性などカケラもなく、あるのは商魂のみとの決めつけが当時の文章からかいま見える。要するに映画評論家の先生方は、開拓者精神のないマガイモノの西部劇を作った連中のことを、イーストウッドも含め内心馬鹿にしていたのだ。 71年の『夕陽のギャングたち』から84年の『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』まで、レオーネ監督は長い沈黙にはいる。この沈黙期間中にかれの映画のファンになったわたしは、『ワンス・アポン・ア・タイム〜』で世間が見直すまで、恥ずかしい話だがレオーネのファンだと公言できなかった。それぐらいレオーネもモリコーネも低くみられていた。 かくして紆余曲折のすえ手に入れたシングル「さすらいの口笛」。B面は「夕陽のガンマン」。RCA/ビクター発売。定価500円。ここから、はじめての映画音楽のLP『夕陽のガンマン/荒野の用心棒』を手に入れるまで長くかからなかった。A面『夕陽のガンマン』8曲、B面『荒野の用心棒』7曲。定価2200円。中学1年のときである。 なぜ、こんな思い出話をしたかというと、06年に単独盤としては初のリリースとなった本盤のスリーヴ・デザインがシングル「さすらいの口笛」とおなじ構図だったからである。「さすらいの口笛」を聞くと、いまもポンチョを羽織ったイーストウッドが枯れ木の幹にブラブラ揺れる首吊りロープを馬上から見上げ通り過ぎていくこのシーンが脳裏に浮かぶ。 あの頃、「さすらいの口笛」と「夕陽のガンマン」のどちらが好きか、友人たちと話し合ったものだ。わたしは、当時もいまも「さすらいの口笛」が好きである。ともにアレッサンドロ・アレッサンドローニの口笛と、西部劇としては異例だったエレキ・ギターがフィーチャーされる。 決め手はどこかというと、木製フルート?の下降するポルタメントから、間髪を入れずにむち(スラップスティック)、教会の鐘の音のようなチューブラーベル、チーンという鉄琴か鉦へと連動する、ことばで表すと「ヒュルルルル、パンカンチーン」となる音の響きの心地よさである。この音のひとかたまりを仮に「サウンド・ピース」と呼ぶことにしよう。 アレッサンドローニが弾くアコースティック・ギターの静かなイントロに導かれ、かれの口笛があの印象的なメロディを奏ではじめると、知らず知らずのうちにいっしょに口笛を吹いている自分がいる。「さすらいの口笛」はこのシンプルでキャッチーなメロディのくり返しから成り立っている。反復されるにしたがい徐々に先述の「サウンド・ピース」、アレッサンドローニ率いるヴォーカル・グループ、カントーリ・モデルニのよいとまけ系の男声コーラス、エレキ・ギター、打楽器、弦楽器、管楽器などが加わり、最後はダイナミックでビート感満点のパソドブレのリズムで幕を閉じる。要するに、ラヴェルの「ボレロ」と似た構造なのだ。オーケストレーションにもラヴェルの影響がうかがえる。 ちなみに「よいとまけ系コーラス」とはわたしの造語。 カントーリ・モデルニが発することばに意味はない。意味がないからことばではない、音声である。いかにも現代音楽の作曲家の発想らしくモリコーネは声の響きそのものを生かそうと考えた。イタリアのべリオ、ハンガリーのリゲティ、西ドイツのシュトックハウゼンなど、多くの現代音楽の作曲家たちも「声」を使った作品を書いている。しかし、それらはどれも呪文のように神秘的または哲学的な響きを持つものばかり。これにたいしモリコーネの「声」は力仕事を大勢でおこなうときの掛け声のように響く。聖にたいする俗、聖職者/哲学者にたいするブルーカラー労働者。知的アカデミズムと野暮ったさとが共存。これぞモリコーネ。だから「よいとまけ」なのだ。 ところで、モリコーネの出世作となった「さすらいの口笛」、じつは62年にかれがアレンジした曲の使いまわしだった。その曲のタイトルはウッディ・ガスリー作のC&W調ナンバー「みのりの牧場」'PASTURES OF PLENTY'。『赤い砂の決闘』の主題歌をうたったアメリカ人歌手ピーター・テーヴィスの名義でシングル発売された。"THE ENNIO MORRICONE CHRONICLES" でこの曲をはじめて耳にしたとき、口笛のメロディの部分が別のメロディの歌になっている点を除けば、そっくりそのままだったのには驚いた。テーヴィスの歌はなかなかしっかりしているのだが、バックがあまりに先鋭的すぎるため主役の存在感がかすんでしまっているところがおもしろい。 もうひとつのテーマ曲「荒野の用心棒」は、レオーネ監督からハワード・ホークス監督の映画『リオ・ブラボー』でティオムキンが書いた「皆殺しの歌」のような曲がほしいとの要請があって書かれたという。わたしはこの曲と「皆殺しの歌」とがどの程度似ているのか知らないが、早崎隆志さんの批評「モリコーネと映画音楽」によると、モリコーネは他人の曲をまねることにつよい抵抗を感じ自分なりのアイディアでスコアを書き上げたと語っている。 ストリングスのゆったりした調べが静寂を演出すると、そこへトランペットが鎮魂曲のような嘆きを奏でる。冴え冴えと響きわたるトランペットを取り囲むようにコーラスや打楽器がすこしずつ加わりじわじわと高揚していく。打楽器はいつしか激しいボレロのリズムを刻み、トランペットが勇ましく高らかに奏されると緊張感は極限に達する。 この曲「荒野の用心棒」は、以後、マカロニ・ウェスタンの対決場面に流れるテーマ音楽の基本型になった。モリコーネが編み出したこの音楽のスタイルを「ボレロ・スタイル」と呼ぶことにする。 ところで、早崎さんの評論のなかに興味ぶかいエピソードを発見した。それは西部劇の音楽を書くのに中世ヨーロッパの音楽を手本としたというモリコーネの発言である。アメリカは絶対王政を通過していないぶん、ヨーロッパよりも中世ヨーロッパの文化や生活様式が遺っていると阿部謹也だったか樺山鉱一だったかの本で読んだことがある。「用心棒の踊り」というおかしな日本語タイトルの付いた'SUQUARE DANCE' は、ストリングスのシンプルなくり返しからなる、まるでバロック音楽のような古めかしいヨーロッパの香りがするダンス音楽だが、これにもそれなりの根拠があったわけだ。すこしやりすぎではあるが‥‥。 「追跡」L'INSEGUIMENTO と「憐れみもしないで」SENZA PIETA' は、「さすらいの口笛」と「荒野の用心棒」に次いで印象的なスコア。これらは、西部劇のヒーロー像をマタドールになぞらえてパソドブレのリズムが採られたとの推理にもとづき、わたしが「パソドブレ・スタイル」と名づけたアグレッシブな音楽である。くわしくは"WESTERN TRIO" のページ参照。 『荒野の用心棒』は65年に『夕陽のガンマン』とのカップリングでLP発売されて以来、CD時代になっても7曲のままだった。それからおよそ40年ぶりに未復刻の10曲が追加されて全17曲入り、初の単独CDとしてリリースされたのが本盤である。 新たに復刻された10曲は、64年のモノラル・セッション・テープから未編集トラックをモリコーネの許可を得てリマスタリングしたもの。「荒野の用心棒」の別テイク2曲をはじめ、1〜2分台の短いトラックに混じって1曲だけ9分31秒におよぶ長尺曲が含まれている。 'TORTURA' というタイトルのこの曲、じつはきわめて前衛的な実験音楽である。さまざまな音のかたまりが間歇的にあらわれては放射状に霧散していく殺風景な音の砂漠とでもいえばよいか。わたしの印象ではギリシアの作曲家クセナキスのオーケストラ作品を思わせた。モリコーネの数ある実験音楽のなかでもハードコアな部類に属する。もとは習作だったろうが、なかなか密度の濃い力作だと思う。 これまでトータルで13分にも満たなかった収録時間が今回の発掘で約38分に膨れ上がった。ただし、'TORTURA' を除くと29分弱となり、これにあなたは納得するかしないか。わたしは、モリコーネの映画音楽をかたちづくる広大で奥深い地下水脈がまたひとつあきらかになったことにおいてこのアルバムを評価したいと思う。また、想像していたよりは音質が悪くなかったということも付け加えておこう。 |
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(2.14.07) |
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