―――――私が求めたものはそこにあるのだろうか、

      ―――――なかったとき、私はどうするのだろうか。

 

 

     第二章 転倒生?

 

 深夜、雲ひとつ無くとても月が綺麗な夜空だ。
  闇に支配されているシンフォニー学園はしんと静まり返り、静寂が更に際立って感じられる。

 誰もいないはずの時間。
  警備員も見回りを終え、駐在所で休んでいる時間。
  そんな時間に一人の少女が校門の前に立っていた。

 桃色の髪を風になびかせながら、サファイアブルーの瞳が月明かりに照らされているシンフォニ
ー学園を見つめている。
「ここが…、父さんの言っていた養成期間…。きゃ」
  突然そんな呟きをかき消すかのように突風が吹きぬけ、暗い校舎に短い悲鳴が響く。
「…止ん、だ…?」
  すぐに突風は止んだ、まるで初めからさっきの呟きが無かったかのようにまた静寂が辺りを包む。
「さてと、帰ろっと」
  今は、此処がどんな雰囲気かを見に来ただけ。明日からここの学園に通うことになるからこれ以
上ここにいても仕方が無い。そろそろ帰って寝ないと、転入日初日から遅刻になりかねない。
  それに…、明日から忙しくなりそうだから。
  くるりと振り返る、そこには静かな月の下、街灯で彩られた細い路地が通っている。これが帰り
道、これから毎日歩くことになる道だ。その路地へ駆け出そうとした瞬間。
  ―――――ドゴン
  暗い路地に、何かが衝突するような音が響いた。
  路地に入る手前で桃色の髪の少女は無言で倒れている、ものすごい勢いで受身を取らずにこけた
のだ、何もつまずく物は無いはずなのに。
「……」
  運が悪ければ脳内出血で大変なことになっているだろう。転んだ少女は、身動きひとつしないで
地面に突っ伏したままだ。
「…いったーい」
  なんと、数分して立ち上がった。
  痛いじゃすまないほどの音を立てていたはずなのに、本人は怪我ひとつない。ただそんな声が、
夜の学校と家を繋ぐ細い路地に木霊しただけだった。

 

   ∴

 

 窓から日の光が差し込む、これと言って不愉快ではなく逆に心地が良いが、もう少し寝ていたい
のでタオルケットを頭から被る。近くに置いてある目覚まし時計は、『六時五十九分』を刻んだと
ころ、そろそろ起きないと用意が間に合わない。
「んー…」
  寝返りを打つ。頭では起きなきゃと思っているが、どうも起きれそうにない。
  また意識が沈みかけた瞬間、時計の針が『七時〇〇分』を指し示す。
  ジリリ…と起床の時間を告げようと鳴り始めたが。
「…うる、さいっ…!」
  動画にとって永久保存したくなるほどの、強烈な右ストレートが音源に叩き込まれ、部屋の隅ま
で吹き飛び小気味いい音を立てて壊れた。時計が存在していた場所には、ぐーに握られたままの拳
が存在している。

 彼女は満足そうな表情を浮かべ、また静かに寝息を立て始めた。

   …

「…き…い」
  声が聞こえる、
「…き…な…さい」
  だんだんとその声は大きくなってくる、
「ラクト!いい加減起きなさい!」
「んー…、なに…?」
「何?じゃないの、もう四十分よ!」
「!?」
  咄嗟に飛び起き、時間を見ようと時計を探すが、いつもの場所に無い。
「あっれー?おかしいな、目覚しないよ?」
  きょろきょろと部屋を見回すが、どこにもない。
「時計ならあそこでしょ」
  お母さんが指差す方向を見ると、
「…」
  そこには、砕け散っている時計らしきものが転がっている。購入してたった二日目で、その時計
は役目を終えていた。これで、三つ目の目覚まし時計が壊れた、最近になって一週間に一個のハイ
ペースで壊している。
これも空乃に負けたせいだ、と思う。

「…、まったく、いったい誰に似たんだか…」
  そう呟いて、お母さんは部屋を出いこうとノブに手を掛ける。
「えーと、お母さん。今何時?」
  一応、とぼけてみる。
「七時四十三分よ」
  予想通りの答えを残して、お母さんは部屋から出て行った、今から急いで用意しても遅刻しそう
だけど、始めから諦めるのは性に合わない。
「まあ、あがいてみようかな…」
  そうと決まれば、後は行動あるのみ。
  机の上に散らばっている教科書を適当に掴み鞄の中に放り込みながら、制服に着替え、勢いよく
部屋を飛び出し階段を駆け下りる。だが、駆け下りるというより飛び降りていったという表現が正
しいだろう。
「遅刻だぁぁぁー!」
  と、お決まりの台詞を言いながら、リビングのドアノブを回し勢い良く開ける。
「…」
  そこには。
「まずいな、こりゃ遅刻だな」
  そんなことを呟きながら着替えているお父さんがいた。
「…」
「…」
「…、はぁ…」
  入ってきた私に気付いたのか、こっちを向いたお父さんと目が合う。その近くで、朝ご飯の用意を
していたお母さんのため息が聞こえた…。気がする。

 お父さんは、物凄い勢いで朝ご飯を消化して、その勢いのまま家を出て行った。
遅刻がまずいならもっと早く起きればいいのに、と思いつつ椅子に座り朝ご飯のパンを食べ始める。
(なにこれ…?)
  テーブルの上には、朝ご飯のパンが乗っているお皿以外に、見慣れない袋が置かれている。
(何が入ってるんだろ?)
  袋を手にとり、中を覗く。その中には、今も自分の部屋に転がっているはずの時計らしきモノの
残骸が入っていた。こんなことをするのは、家の中で私とお父さんだけ。
「…ねぇ、お母さん」
  一切れ目のパンを飲み込み、袋の中身は見なかったことにしてまた隅っこに置く。
「なに?」
  ちょうど、お母さんは向かい側に座って、コップに牛乳をなみなみと注いでいる。
「私って、お父さんに似たのかなぁ…」
「…」
  お母さんは無言、恐らく肯定の意味だろう。牛乳の注がれたコップが目の前に置かれる。
「…」
  無言で牛乳を少し飲んで、洗面台へ走る。残りの時間はあと十分ぐらい。
まともに髪を整える事は無理だろうから、寝癖だけでも直していかないと流石に恥ずかしい。
  鏡に映るのは、ボサボサになっている白い髪と、まだ眠たそうな黄金色の瞳。いつも見る自分の
顔だ。しかし、今日は一段と寝癖が酷い、これは長い時間をかけて手入れしたいが、あいにくそんな
時間は無い。
(…、んー、五分でいけるかなぁ…)
  無造作に寝癖を一つ一つ撃破して行き、最速記録タイの二分で手入れは終わった。やはり長い時
間掛けて手入れしたい、そんな事を思いながら玄関へ向かう。
  外には既に、鞄を持ったお母さんが立っている。
「ラクト、帰りがけにクレスの目覚まし時計買ってきて、後でその分は払うから」
  うん、と返事をして鞄を受け取る。
  自分の目覚ましも壊れてしまって、買わなきゃいけないから丁度良い。

   ちなみに、クレスとは私のお父さんのことでクレストという。
    いちおう歴史の教科書にも載っているほど有名人なのだけど、今朝みたいなことがあるせい
    でそんなに有名じゃないような気がしてくる。
    それから、お母さんの名前はネルーナといって、実はお母さんの方が有名なんじゃないのか
    なぁと思う時がよくある。

「どんなの買ってこればいい?」
  走る前準備をしながら、お母さんの方を向く。
「出来れば頑丈なやつで」
  お母さんはなにか含みのある微笑みを浮かべ即答。
「分かったー」
  そう返事をして駆け出す、遅刻まで残り五分弱。
  走っても学園に到着するには十分はかかる、幸い通学路には車が通るような場所は無く立ち止ま
ることなく走ることが出来るが、この後に待つ授業用の体力が持つかどうかが心配なところ。でも、
このペースで走っていけば滑り込みセーフ…、になるといいなぁ。

   …

 元気良くラクトが走っていくのを見送りつつネルーナは、
「ほんと、クレスに似ちゃったわね」
  と、暖かい笑顔を浮かべて、そう思っていた。

   △

「…、今の何…?」
  いつかの突風のように走り去っていった女子生徒を見て呟く。
  桃色の髪は、柔らかな日の光で深夜の時より鮮やかに映る。
(っと、今何時かな)
  時計を鞄から取り出す、そのディスプレイには『七時五十七分』と表示されている。
(えーっと、これは、もしかして遅刻かな)
  もしかしなくても遅刻っぽい、さっきの生徒は遅刻しそうだからあれだけの勢いで走っていった
のかもしれない。
「…」
  どうやら、ゆっくりし過ぎたみたいだ。
  転校手続きした時に貰った書類には『八時十五分までには校舎内に入ってください』と書かれて
いたのだが、どうもさっきの生徒を見ていると、八時までに校門内に入ってないと駄目な気がして
くる。
(じゃあ、急ごうかな)
  トントンと片足で軽く跳ねたあと、さっきの生徒に負けないくらいの勢いで走り出した。

   -∵-

 最後の曲がり角を曲がり、残すは校門までの直線コース。この勢いで行けば校門が閉まるまには
園内に入れる。
「えっ…」
  はずだった、予想を反して半分閉まりかけた校門が見えてくる。
  遅刻まであと少しは余裕はあるはずなのに校門が徐々に閉まろうとしている、残り数メートル
という所まで来て諦めたくはない。
 
  ふと頭に、門を飛び越えるイメージが浮かんだ。
  今考えつく『遅刻を免れる方法』はこれしかない。
「たっ!」
  走ってきた勢いを殺さずに地面を蹴り、門を飛び越える。その後、軽い音を立てて着地。
「あっ、と…」
  したと思っていたら、バランスを崩して倒れそうになる。
  とりあえず門が閉まる前に入れたから遅刻は無いはずだ。
「ふう…」
  荒い呼吸と体勢を整え一息つく。
この時間になって登校してくるような勇者はいないらしく、運動場を歩いている人影は当然無い。
「あ、おはよう」
  と思っていたら、前方に空乃が立っていた。
「…」
  何故か、返事がない。
「まったく、人が挨拶してるのに返事なし?」
  少し頭にきた、何か言ってやろうと一歩前に踏み出そうとしたが。
「…ラクト、胸元を見てみろ」
  そう謎の言葉を残して、彼は校舎の方へ向かっていった。
(…、何よ…?)
  返事がなかったことに腹を立てながら、視線を下に落とす。
「!?」
  瞬間的に頭に血が上ってくるのが分かった。
「あ、あれ?」
  なぜか制服ははだけて、下着があらわになっている。
「な、な、な…」
  なんでと言えずに口をぱくぱくさせながら、急いでボタンをはめる。
  しかし、上から二つ目のボタンが存在せず、その隙間から下着が少し見えてしまっている。幸い、
生徒はおろか教師も近くにはいない。
(…、えーと)
  朝の出来事を思い出してみる、何故こうなっていたかも解るかもしれない。

   今朝は、三代目の時計を亡き物にしたりしていて忙しかったから、制服のボタンに関する情
    報は頭の片隅にすらもない。だけど、お母さんが何も言わなかったと言うことはそのときは
    ちゃんと閉まっていたのだろう。とすると、家から学園まで走っている途中に外れてしまっ
    たと考えられる。でも、走っていただけでボタンが無くなるわけが…

「あ」
  ない、と思ったが。ひとつ思い当たる節があった。
  もともとこの部分のボタンはほつれかかっていて、そのうち直そう、と思いながらも忘れていた。
  そして、その瀕死のボタンにとどめをさしたのは恐らく先の跳躍だろう。そう考えてみると着地
の時、微かに何かが千切れる音が聴こえた気がしてきた。

 とりあえず、制服の隙間の部分を腕で隠し、これからどうするかを考える。
(医務室…って、きつそうだなぁ…)
  このボタンを直すことを考えると、真っ先に医務室が浮かぶ。だが、医務室は校舎に入らなけれ
ば行けない場所に位置していて、このまま校舎に入れば確実に誰かの目に入ってしまう。
(ん〜、困ったな…)
  振り返ってみるが、既に校門は閉まっていて外に出られそうにもない。
  かといって、この姿で校舎内に入るのならば、授業をサボるといった行動をとろうと思う。
「うん、広場。広場に行って考えよう」
  言い訳じみたことを自分に言い聞かせながら、運動場の東に位置する広場に向かうことにした。

   △

 木々や草花が、青々と生い茂る公園のような場所。そこには噴水など目を引くようなものこそな
いが、木々の間から漏れる柔らかい日差しと肌を撫でる風が心地良く、辺りを覆う静かな雰囲気が
授業で荒んだ心を落ち着かせてくれる。

 昼休みになると、弁当を食べに来る生徒が多く、何度足を運んでも見飽きない。
  そこは、通称『憩いの広場』として好評だ。

 その広場の一角、よく利用するベンチに腰を下ろす。いつものようにそこは、木々の間から穏や
かに差し込む光と、吹き抜ける風が気持ちいい。
「…って、和んでる場合じゃなかった」
  気を抜くと、今の状況を忘れてしまいそうだった。
(…、でもやっぱり授業をサボるのはなぁ)
  いつまでもここに居れるわけじゃない、午前中の授業が終わる前にこの制服をどうにかして元に
戻さなければ。
(と言っても、直せそうな物なんてこんなところにないし…)
  辺りを見回すが何もない。当たり前かな、とため息を漏らす。
  ―――ざあああああ…
  ひときわ強い風が広場を吹き抜けていく、潮騒のような木々のざわめきが辺りを包む。
(ほんとにサボっちゃおうかな…)
  髪が乱れないように頭を抑え、風が止むのを待つ。
  風はすぐに止んだが、自分の座っているベンチの対角線にある広場でも大きいほうの木の陰。
さっきまでは何も無かったのに、いまでは動くものが見える。
(…ん?なんだろう、あれ)
  目を凝らして、その場所を見る。
  ―――人影…?
  まさかと思う。こんな時間帯でこの場所にいるような生徒は私ぐらいだ。
  よく目を凝らしてその一点を見る。特徴的な黒髪、そして蒼瞳。間違いない、空乃だ。
  彼を視認したと同時に何かが吹っ切れた、ボタンのことも忘れ木陰へと歩を進める。
「なんであんたがここにいるの!?」
「…俺が、広場にいる理由か?」
  空を見上げ、返事をしてくる。
「ただ、何と無く、だ」
  もたれかかっていた木から離れ、踵を返す。
「なんとなく…?」
  怒りを込めて呟く。
「後一分で予鈴が鳴る」
  そう言い、広場から立ち去ろうとする空乃を睨みながら拳をきつく握り締める。
「なによ、私の気も知らないで…」
  それが聞こえたのかどうかは分からないが、空乃は立ち止まり、少しだけ振り返り。
  ――。無言で、何かを放り投げる。それは空中で鈍く光り、私の足元に落ちた。
「…?」
  睨んでいた視線が、落ちたものの方に向く。小さな灰色の箱が足元に落ちている、拾い上げてよ
く見てみるが、特にそれ以外の特徴は無い。
「何よ、これ?」
  視線を戻すが、目の前には既に人影は無く広場は何事も無かったかのように静。辺りにはいつも
より微かに強い風が吹いているだけで、さっきまであったはずの人の気配は跡形も無く消え去って
いる。
(幻?)
  しかし、手元には灰色の箱がある。
「それにしても」
  もう一度、その箱を見る。何の飾り気も無いその箱は、ただの箱としての機能のみを求めて作ら
れたように見える。
「なんだろこれ」
  どこをどうに見ても、外見どおり箱だ。箱ということは。
「あ、やっぱり開いた」
  鈍い音を立てて箱が開いた、開くというよりこじ開けたんだけど。
「えーと、中身は…っと」
  中に入っていたのは、裁縫用の針が数本と細くて透明な糸、そして生服用のボタンが一個。この
ラインナップから見てこの箱はいわゆる、『ソーイングボックス』と分類されるものだろう。
「ってこれ…」
  が、入っていた糸の袋には『For an operation(手術用)』などと書かれていて、既に封が開い
ており、少し減っているようにも見える。まあ、それは見なかったことにしておこう。
(これは、空乃に感謝…しなきゃね)
  さっきの自分の態度が馬鹿らしくなってくる。さっきの『なんとなく』というのは案外、私のこ
とを心配してくれてのことかもしれない。
「ううん、あいつに限ってそんなことはない、よね…」
  そんな考えを、その一言で消し去る。

 

――――きーん、こーん、かーん、こーん。

 ちくちくと、制服のボタンを縫いつけている間にチャイムが鳴る、これでも手際はいいほうだと
自分では思っているけど、縫い付ける対象を着たままだから意外と時間がかかる。結局、ボタンの
縫い付けが終わったのは予鈴が鳴ってから二分後、ホームルーム開始のチャイムまで後三分、広場
から校舎まで走るだけで時間切れだ。
(でも、やっぱり、サボるよりは遅刻の方がいいかな)
  そんなことを思いながら、今も静かな広場を後にした。

   -▲-

 ――見慣れた少女が門を飛び越え、着地した時。足元に白く丸い物が転がってきた。

 今日、学園に到着して最初に見た光景がそれ、門は飛び越える物じゃない通る物だ、と内心思う。
恐らく、今足元にあるのは奴のボタンだろう。昨日の別れ際には、既にとれかかっていたから、そ
の辺りは簡単に想像がつく。

「あ、おはよう」
  そんな制服が肌蹴ている格好で、その女子生徒は挨拶してくる。
(さて、この状況は如何にするべき、か)
  そう、僅かに思考を廻らせる。
  しかし、結論はすぐに出た、的確に的を付いて知らせることが本人のためにもなるはずだ、と。
「まったく、人が挨拶してるのに返事無し?」
  怒っている様子で、こっちに向かってくる。
「…ラクト、胸元を見てみろ」
  ため息交じりで、そう告げる。さっきまでこっちに向かってきていた足が止まり、視線が下に行く。
その直後、その顔が赤くなった。
  とりあえず、今のラクトには何を言っても無駄だろう。さっさと教室に行くことしよう。

 いつも通り教室に入る、少し教室中のテンションが高い、例の転校生の事で熱くなっているのだ
ろうか。そんな中でもいつも通り自分の席に座る、話し掛けてくるような輩はいないし、作りたい
とも思わない。そう、今までやって来たのだから、このテンションは苦にもならない。
  唯一、この教室で話し掛けてくる人物は。
(…人目につかない所、か)
  窓の外、その人影は運動場から広場のある方向へ歩き出している。
(今なら、適切な判断か)
  制服を止めているボタンは無く、直す手段も無ければ身を隠したくなる。
  ましてやその姿で、校舎内に入る事は自分の自尊心が許さない…、か。
  特にあのラクトなら本当にやりかねないことだ。
(だが、そこは昼になれば賑わう)
  不意に、鞄の中には数本の針と手術用の糸がある、といった言葉が頭をよぎる。
『違法(ごうりてき)』な『改造』を施こした携帯端末を取り出し、起動。
  浮き出た空間投影式出力デバイス(ディスプレイ)を見る、時刻は八時〇五分を刻んだところで、
ホームルーム開始まで後五分といったところ。
(あと五分でホームルームだが…)
  ここから広場まで、普通に走っても三、四分はかかる。往復のことも考えると無理な距離。
(たまには、身体を動かすのもいい、か…)
  そう考え、教室を出る。制服のポケットには、修繕セット一式を詰めた箱を入れて。
(さて、久々に『本気』で走るが)
  普通の学生では、五分以内で往復することはできない。そう、普通ならば。
  外に誰もいないのを確認し、廊下の窓を開ける。
(はたして、何秒で目的地に辿り着けるか…)
  そう呟いた後、窓の外へその身を踊らせた。

   ∴

「はー、はー」
  荒い息を吐きながら、教室前に到着する。
  ノンストップで学園まで走りこみ、驚きの好タイムをたたき出した後、さらに広場から教室まで
全力疾走してきたから残りの体力は少ない。
(あ、あれ?)
  教室はいつもと違った雰囲気を醸しだしている、ホームルームが始まっているはずなのに、廊下
まで話し声が聴こえてくると言うのはどう考えてもおかしく、普段でもここまで話し声は聴こえて
こない。ドアの前にいるだけで、室中の熱気が溢れ出ているような感じがする。たまに聞く『生理的
嫌悪感』って、こういうものを指すのだろうか。覚悟を決めて、ドアに手をかけ開ける。
  ガラ
「…」
  教室は、たとえ様の無い熱気と、雑音(ノイズ)のような話し声がする見たことの無い異界と化し
ていた。その熱気に耐えながら無言で、鞄を机の上に置いて席に座る。なんと言うか、ある一人を
除いて皆ハイテンションだ。原因が解らないだけに、気味が悪くて仕方が無い。
「ね、ねぇ、今日って何かあるの?」
  耐えかねて後ろの人に聞いてみる。
「ん?バーミリオンは知らないんだ」
「うん、知らないよ」
  知らないことを聞きたいんだから、知ってるわけが無いだろう。
「なんか、転校生が来るって話」
「へー…、初耳だなぁ」
「情報によると、女子らしい」
  その一言で、この異常なまでのテンション、異界の形成された理由が分かった気がする。
「ふーん…、珍しいね」
「だろ? 今時バインダー科に転校してくる子がいるなんて、って思うよ」
  これはこれで、テンションがいつもより高い。

 シンフォニー学園は、女子生徒が少ない。やはり、軍直属のBD技術者養成機関だからだろうか。
それでも、BD外部設計科や制御科は一学年で数えても女子生徒が結構いる。それに比べ、バイン
ダー科は全学年合わせても数人。

「しかも、転校前はデギロードのフォートスレーブにいたらしい」
「へぇー…、また結構なところにいたんだなぁ」
  ここより、環境が恵まれてる所から来るなんて変な子だなと思う、しかも国境越えてるし。
「可愛かったらどうしようか…」
「…」
  別に困らなくてもいいでしょ、と言いたいが、あえて無視しておこう。

 とりあえず、まだ担任が来る気配はない、転校の手続きというので遅れているのかもしれない。
時間があるのなら、忘れないうちに空乃のところに行って広場の事を聞き出そう。
「あきのー」
「ん…?」
  いつも通り彼は、自分の席に座って外を眺めていた。
「なんでさっき、広場にいたの?」
「何と無く、と言ったはずだが…?」
  目線だけがこちらを向く。
「でも、鞄持ってなかったよね?」
「ああ、教室に一回入ったからな」
  あっさりと、不思議なことを言う。
「だけどさ、私が広場に行ったのって、空乃と別れた後すぐのはずだよ?」
  教室から広場までは走って約四分、今日の私でも三分はかかった、それを上回るタイムで走り抜
ける生徒がいる、なんて話は聞いたことがない。空乃と別れてから、広場でその姿を確認するまで
約二分、その間で往復したとでも言うのか。
「それより、ラクト」
  そう言って、空乃は手で『後ろを見てみろ』とジェスチャーする。
  その直後、背後になんだか威圧感を感じたのは気のせいだろうか。
   というか、気のせいであって欲しい。
    いや、これは気のせいだ。
     うん、気のせい。

 覚悟を決めて振り返る、そこには。
「お、おはようございます。先生…っ」
  予想通り、担任(くま)が立っていた。気が付けば教室は静かになっていて、誰一人と席を離れて
いない。そう、いつかのように私を除けば、だ。
「バ〜ミ〜リオ〜ン、とっくにホームルームは始まってるぞ〜」
  顔が笑っている、このままここにいたら確実に帰りがけに呼び出しをくらってしまう。
「はいぃ、すぐに戻ります!」
  豹もびっくりな速度で席に戻る、また帰りに空乃から聞き出すとしよう。

   ▽

「お〜し全員席に着いたな、遅くなったがホームルームを始めるぞ〜」
  そう言って、担任は黒板になにやら書き始める。
  ―――カッカッカカッカ。
  教室に、チョークが物凄い勢いで削れて行く音が響く。とりあえず、今日は特に予定はないらし
い。黒板の半分を書き終えたところで、チョークが吹き飛んだ。
(一体、どれだけの力で書いてるんだろう)
  いつもそう思う。
  このクラスのチョークが減るスピードは、学園内でトップに君臨する速度で。一週間で一箱、大
体四十本が無くなる状態だ。
「さて、今日の連絡事項はここまで。特に予定は無いからいつも通り過すように」
「っえ!?」
  廊下でそんな声が微かに聞こえた気がするが、空耳だったことにしておこう。
「せんせー、特に無いって言っていますが。本当にないんですか?」
  一人の生徒がすかさず質問をする、遠回しに『転校生を早く出せや』と言っているようだ。
「おっと、そうだ」
  担任の視線がドアの方を向き、軽く笑いながら。
「すまんな〜、呼び忘れていた」
  そう言うと、教室のドアが心なしか力なく開く。忘れられたのが相当ショックだったのだろうか、
入ってきた桃色の髪の女子生徒は元気が無いように見える。そんな状態でとぼとぼと数歩、前に歩
いたあと。
―――ズドン!
  物凄い勢いでつまづき、こけた。室内は歓喜から一転、しんと静まり返り、声の一つもしない無
音空間と姿を変える。ついでに凄いのは、車と衝突したような音だけではなく、そのこけっぷりと
何も無いところでつまづいたという所で、常人では真似出来ないし真似したら。
(あれは即死ね…)
  そう考えるしかなかった。おそらく、このクラスのほぼ全員が、死んだな、と思ったはずだ。
  担任は、ルミデ〜ッツ生きてるか〜、などと声をかけている。
「……」
  こけた当人(ルミデッツだっけか)は、身動きせず倒れたままだ。
「これは、医務室より葬儀場に連れて行ったほうが早いかもしれん…」
「たしかに、あの音は尋常じゃ無かったよな」
「だな、あれで生きてたらすげえ」
「転校初日で帰らぬ人にか…、いろんな意味で可哀想だな」
  周りでそんな話し声がちらほらと聞こえ始める、確かに可哀想だなとは思う。
「お、ルミデッツ、目が覚めたか」
  と、そんな冗談じみたことを担任が言う。まさか、と思いつつ視線を倒れた現場の方へ向ける。
そこには、倒れていたはずの女子生徒が、何事も無かったかのように教卓の横に立っているではな
いか。しかも、無傷で。
「ねぇ、なにがあったの?」
  わけがわからないので、後ろの席の生徒に聞いてみる。
「あー、見てなかったの?」
  後ろの席の人が言うには、担任が声をかけて始めて三回目で動き出し、その後一挙動で立ち上が
った、とのこと。
「あれは、すごい復活劇だったよ…」
  そんな感想はどうでもいい、とにかく無傷で生きていると言うのがすごい。気が付けば、いつの
間にか教室中が歓声に包まれていて、拍手まで起こっている。
「先に医務室に行くか?自己紹介するか?」
  担任がそんなことを聞く、普通この状態ならば即、医務室送りだろう。普通ならの話だけど。
「いえ、大丈夫です」
「そうか、じゃあ、自己紹介だな」
  そう言って、女子生徒にチョークを渡して「黒板に名前を」と担任が言っている。今時するかな
そんなこと。
  ―――カッカッカカカカカッカ
『Abyss Llumydest』
  言われる通りに、女子生徒は黒板に自分の名前を書いていく。あれは、あびす・るみでっつと読
むのだろうか、なかなか綺麗な字だ。
「え〜、今日からこの科に編入してきたアヴィス=ルミデッツだ」
「ええと、」
  額に指を当て、ややあってから。
「私はアヴィス=ルミデッツです、前はフォートスレーブ専門学院に通っていました」
(ほんとにフォートスレーブから来てたんだ…)
  デギロード経済共同体が有する唯一の『BD技術者養成機関』と聞いているけれど、それ以外は設備
と環境が良い。ということしか聞いたことがない。
「これから、よろしくお願いしますね」
  ぺこりと、頭を下げる。どこからか、かわいいーという呟きが漏れてきた気がするが無視。
「んじゃ〜、ルミデッツの席は…」
  担任が座席表を見る、少し思案した後。
「一番右の列、バ〜ミリオンの二つ隣が空いてるか」
  そう呟き、その方向を指差す。
  視線を右に向け、席が空いていることを確認する。前までその席には、違う生徒が座っていたは
ずなのだが『なぜか』いなくなっている。
(もしかして、あれから来てない…?)
  その席の生徒は私が数日前、シミュレータ戦で完膚なきまでに叩きのめした相手で本人は負け無
し(自称)と言っていたから、それに黒星をつけてやろうとフル装備で戦っただけなんだけど…。
「! バーミリオン…さん。先生、どこの席ですか」
「そこの列の、前から五番目のところだが?」
  それを聞くと、サファイアブルーの瞳がこちらを見た。なんとなく、目を合わせたくなかったの
で机に突っ伏す。
「さて、連絡事項も終わったことだ、今から授業を始める〜」
  すでに、ホームルーム終了の時刻は過ぎていて一限目が始まっている。一限目は、制御論理とい
うバインダーにとって(必ず眠くなる)必須の科目だ。丁度いい、机から顔を上げるのもだるいか
らこのまま眠ってしまおう。元よりそのつもりだったのだから。

   …

 午前中を寝て過ごしたら、あっという間に昼になっていた。
  幸い、今日の授業に歴史の科目はなく、ゆっくりと身体を休めることが出来た。
「さーて、昼ごはーん」
  そう呟きながら、鞄から弁当箱を取り出す。その弁当箱一個で、普通の男子生徒でも満腹になれ
そうな大きさなのだが、ものの数分でそれを平らげる。
「んー、あれだけ走ったからこれだけじゃ足りないなぁ」
  空になった弁当箱を鞄片付け、鞄から『牛乳』とでかでかと書かれたパックを取り出す。
「今から学食もなぁ…」
  そう呟き、パック牛乳をゴクゴクと飲む。適当につまみ食いさせてくれそうな人は…、ここにい
るわけがない。
「そうだ、セフィなら分けてくれるかも…」
  親友の名前が頭に浮かぶ、今の時間だとちょうど広場でご飯を食べているはず。
「セフィのご飯はなーにかなー」
  そうリズミカルに呟きながら、教室を後にした。

   -∵-

 なかなか、歯応えのある授業内容でした。と言うのが今日の午前中の感想。
  前の学院より三十分ほど授業時間が長いから、余計にそう感じてしまう。
(そろそろ、お昼ご飯ですね)
  机の上を片付け、鞄から弁当箱を取り出す。転校資料には。
『昼食は弁当持参、又は学園食堂がありますので…――』
  と、書いてあったから間違いは無いはず。あとは、どこで食べるかが問題になってくる。
(天気がいいことですし、外にでも…)
  弁当箱を持って、席を立った丁度そのとき。
「ルミデッツさん」
「はい?」
  呼び声がした方を向く。
  声がした方向には数人の女子生徒がグループを作り、わいわいと弁当を食べている。その中の一
人、長い金髪を後頭部で束ねた、いわゆるポニーテールの生徒がこっちを向いている。
「お昼ご飯、一緒に食べない?」
「ぇーと…」
  転校初のお昼ご飯のお誘い、会話についていけるかが心配だったけど。
「いいですよー」
「決まりね」
  その生徒の腕が上がる。
「そこの机使ってもいいから」
  女子生徒の指差す方向には、誰も座ってない席がある。この席の生徒は多分、学園食堂という場
所に行っているのだろうか。そんなことを考えていると。
「どうしたの?突っ立ったままで」
「いえ…、この席を勝手に使ってしまっていいのかなって」
  それを聞いた、ポニーテールの生徒は、持っていたフォークを置いて。
「いいのよ、男子はチャイム鳴ってからじゃないと戻ってこないんだから」
  席を立ち、ガタガタと机を動かし始める。
「また、あいつに何か言われるかもよー?」
  サンドイッチを片手に、他の人の弁当をあさっていた生徒がクスクスと笑う。
「お昼ご飯時にいない方が悪いのよ、何か言われたら、そうね」
  机を動かす手を止め、少し考える素振りをして。
「動かされたくなかったら、溶接でもして固定しておきなさいって言っておくわ」
  と、にやりと笑みを浮かべた。
「ぇ、えと…」
「さて、机の移動終わりっと」
  大方の予想通り、会話に全くついていけない、ほんとにこの先大丈夫なのかな。
「ルミデッツさん」
「はい?」
「席、用意でたけど、早く食べないと休み時間がなくなるわよ?」
「あ、ありがとうございます」
  ペコリと頭を下げる。
「いいって、早く食べよう」
  こうして、転校後初のお昼ご飯が始まった。

   ▽

 今日のお弁当の献立は、バターロール十個と弁当箱一段目にサラダ、二段目に鶏肉の照り焼
き。照り焼きの方は朝早く起きて仕込み始めたから、不味いものではないと思う。
「ルミデッツさんの弁当って、手作り?」
「はい。今日のは確か…、四時ぐらいに起きて作ってます」
「早起きね、それにしても量が多い…」
「そうですか?私には少ない方ですけど…」
  四個目のバターロールをほおばる。照り焼きは大成功でした、これなら母さんを唸らせられ
るかもしれないほどの出来だ。
「ラクトと同等か、それ以上の食欲だね…」
「だね、ラクトに見せてあげたい…。って、ラクトいないじゃん」
  さっきまでサンドイッチを持っていた生徒が、チッと惜しげに指を鳴らす。
「ほんとだ、ラクトいないね。久しぶりに広場に行ったのかな」
「レリアもそう思う? …って」
  机の上に置いてあったボトルに手を伸ばし、
「もう飲み物ないや」
  軽く振ってから、そのままごみ箱へ投げ込む。ボトルはそこそこ綺麗な放物線を描いて、その中
へと吸い込まれていった。
(あれ?あのごみ箱ってたしか…)
  ボトルの投げ込まれたごみ箱には、『可燃物用』と書かれていて、ボトルは『資源ごみ』のはず。
投げた本人もそれに気付いたのか、席を立ち。
「んー、ちょっと学食行ってくるね」
  じゃあねー、と教室から出て行こうと、ドアに手をかけ。
「あ、そういえば」
  くるりと方向転換、その視線は自分に向いているような気がする。
「ルミデッツさんって、なんで髪染めてるの?」
  その一言で、周りの生徒の動きが止まった。
「…」
  視線が集まるのを感じる。
「染めるの禁止されてるはずだよね?」
「…これは、その…」
  周りの生徒は何も言ってこないが、向けられた視線が「どうして?」と言っているような気がす
る。その視線に耐え切れなくなったわけではないけど下を向き、なんて返事をしようか考える。
  こんなときに限って、いつも言っている定型文が浮かばない。
「知らなかった、は無しだよ? 事前にちゃんと言われるはずだか――」
「ミシア」
  隣、さっきレリアと呼ばれた生徒から聞こえてきた静かで、どこか冷たい声がこの場を凍らせた。
ミシアと呼ばれた生徒も言おうとした言葉が全部言えずに固まっている。
「担任がなんにも言ってなかったんだから、別に事情があるんでしょ?」
  ドアの方を睨むレリアを見ながら思う。ぐおーっとくる迫力やしんとした冷酷さは感じられない
けれど、なんというか…握られたままのフォークが怖い。
「それとも、そんな事情まで聞き出して、お昼ご飯を不味くさせる気?」
「うー…、でも」
「それとも、休みの日とかに髪染めてる事とかを密告して欲しい?」
  にやり、と口元が吊りあがる。
「げ、何で知ってるの…?」
「ふふ、あなたの髪を見れば分かるわ」
「実は、あたしのストーカーとか…?」
「そんなことはしないけど、これ以上何か暴露して欲しくなかったら、さっさと学食にいってらっ
しゃい」
  まだ何かあるのかと、周囲の視線がドアの前にいる生徒に集まる。
「うー…、分かった…」
  うなだれるように頷き、教室から出て行った。

 周りの生徒からようやく終わったー、という感じのため息が漏れる。
「あの、レリアさん」
「何?」
  彼女がこちらを向く、
「ありがとうございました」
「いいって、ご飯不味くなる嫌だったから」
  ははは、と苦笑い。
「でも、あれでも悪気があったわけじゃないから、許してあげてね」
「…はい」
「それにしても…、ラクトにも髪の事言っててボコボコにされたから。もう差別的なことはしない
と思っていたんだけど…」
  ため息を一つ、まだ懲りてなかったか、と言わんばかりだ。
「まあ、これであの子も反省してくれるといいかな…」
  そう呟いて、再び弁当を突付き始める。私もそれに見習い、ロールパンをかじる。
『ボコボコ』の真意を考えながら。

   …

「どういう人なんですか?ラクトさんって」
  お弁当を半分まで食べ終わったところで、考えていたことがまとまらなかった。やっぱり、
こういう事は知っている人に聞くのが一番早い。
「あ゙ー…、もしかして、さっきの話気にしてる?」
「いえ、少し気になったものですから…」
「んー、そうね…」
額に指をあて、何かを思い出すような仕草をして。
「簡単に言うと、単純な子、かな」
「単純…、ですか」
言ってしまっては悪いけど、それって頭が悪いということになるのかな。
「む、ちょっと違うかな…」
また、額に指をあて。
「単純、なんだけど…。んー、なんて言えばいいのかな…」
今度は、腕を組み始めた。そろそろ止めないと、戻ってこなくなりそう。
「あの、」
「ああもう、単純でいいかこの際」
投げやりな発言だけど、何か吹っ切れた表情だ。
「でも、いい奴だよ、ラクトは」
「え?」
「見てて面白いし、話しても嫌なところはないから」
「ふむふむ」
「でも、ちょっとおかしいところがあるかな」
「どんなところです?」
  ポニーテールの生徒の視線が、窓際の席の一番後ろへと向けられる。
「あいつとよく話しているところかな、それ以外は普通なんだけど…」
  少しその表情が曇る。
「あの方と話してはダメなんですか?」
「駄目と言うより、話してくれないだろうね、きっと」
  ふう、とため息を漏らし。
「話し掛けても、虚しくなるだけだから止めておいた方がいいわ」
  そう言って、残っている弁当を食べ始めた。

   ▽

 教室の中は、窓際の一番前の席を中心に男子生徒が固まり、話し声や笑い声が騒音となって聞こ
えてくる、少し騒がしいけど楽しそうだ。しかし、その集団から孤立するように一番後ろの席には、
一人の男子生徒が座って気だるそうに弁当を食べている。避けられていると言うより、いない存在
として扱われているような感じがする。
(誰でしたっけ…)
  さっき一通りクラス名簿を見ながら、教室のどこに誰が座っているかを確認したけど。あの席の
部分に書かれていたのはたしか、へんてこりんな文字のようなものが書いてあっただけで読めなか
った。 
  んー、と悩んでいると。
「あいつ、深裏 空乃って言う名前よ」
「みり あきの?」
  質問もしていないのに、なぜ聞きたいことが分かったのか不思議だ。
「そう、名前(ファーストネーム)が空乃で苗字(ファミリーネーム)が深裏、変な名前でしょ」
「は、はい」
「えーと、確か…」
  また考える素振りをして、
「今は無いけど、日本って言う島国に住んでた人たちは、皆こういう風に名乗っていた。って、ラ
クトから聞いたわ」
「ふむふむ」
「聞いた話だから、確信は持てないけどね」
  またその男子生徒に視線を向ける、彼はこの状況に慣れているのか、全く気にしていない様子で
弁当をつついている。
(寂しく、ないのかな…)
  ふと、そんな考えが頭の中をよぎる。
  余計な迷惑かもしれない、本人もこうなることを望んでいているのかもしれない、虚しい思いを
するかもしれない。それでも、私は彼と話しがしたい。
  食べかけの弁当を片付け、それを手に持ち席を立つ。
「ルミデッツさん? まだ、お弁当も食べ終わってないようだけど」
「少し、彼と話をしてきます」
「やっぱり…、でも止めはしないわ。多分、近づくのさえ嫌になると思うけど」
  その声を聞き届ける前に、弁当を片手にその集団から離れた。

 一番後ろの席に向かって歩く、変な風に思われちゃったかもしれないけど、間違ったことを
しているという感じはないからこれでいい、と自分に言い聞かせる。
  ――――な
(ぇ…?)
  ふと、針を落としたような小さな音がした。
  その音はすぐに聴こえなくなったが、耳元で何か囁かれた後のように、嫌な感じが残る。
不安になり辺りを見回してみるが、周りには机と椅子しかない。
(気のせい…、かな)
  一歩、また一歩と進んでいく。さっきの『近づくのが嫌になる』ってこいう意味でしょうか…、
と考え始めた。が

 ――――来るな
「っ!」
  後机二個分の所まで近づいたところで、周りの空気が一変した。
  男子生徒の付近は、さっきまでいた場所よりも肌寒く、重い。同じ教室なのだから、気温がここ
だけ低い、と言うことはないはず。
(冷たい…)
  ただ寒いだけなら、そんなに辛くはない。でも、

 ――――近づくな
  彼の周囲(ここ)は違った。
  彼の周りには、他人を拒むような冷たさと、ただそこにいるだけで、自分という全てが『否定』
されているような感覚があるだけ。
(近づくのが嫌になるって、こういうことだったんですね)
  一歩、また一歩進むごとに、周りの空気が重くなっていくのを感じる。それにともなって、体に
走る寒気の強さも増していく。
  でも、私は引き返すという行動はとりたくない。

 数分がとても長い時間に感じられる中、ようやく彼と十分に会話ができる距離まで着いた。
「こんにちは」
  肩にかかる重圧と、体中に走る悪寒を隠して声を掛ける。
  しかし、相手は無言。話し掛けられたという事さえも気付いていない様子で弁当をつついている。
「深裏さん?聞こえてます…、か?」
「…」
  カチャと二本の棒(はし)が弁当のフタの上に置き、ため息を一つ。その後、深い藍色の瞳が気だ
るそうにこちらを向く。
「…っ!!」
  今までに無い、寒気と重圧感が肩に圧し掛かる。こっちを睨むその瞳は、ただ一言

 ――――煩い

 私を否定した。
  冷たい、目を背けたくなるほどの視線を正面から受け止めながら。私は、少しでも何かを伝
えようと口を開き。
「―――」
  喉まで出掛かった声を飲み込んだ。
  直感だけど、どんな言葉で表しても、彼には届くことは無いと言うことが解った。だから私も、
同じように見つめ返す。自分の視線にただ一言。

 ――――貴方に、私が視えますか?

 と、それだけの言葉を乗せて。

   ▽

「…」「…」
  どのくらいの間、見つめ合っていたのだろうか。ほんの数秒だった気がするし、数分経った
ような感じもする。ふと、男子生徒の視線がこちらから外れ、机の上の弁当に戻る。
「…」「…」
  暫しの沈黙の後、彼から深いため息が漏れるのと同時に、さっきまで在った寒気と肩に圧し
掛かっていた重圧が退いていく。
(どう、伝わったのかな…?)
  あのまま、見つめ合っているだけで休み時間が終わったらどうしよう。と心配していたけど、
どうやら大丈夫だったみたいだ。
「おい」
  唐突に男子生徒の口が動く、その表情はやっぱり気だるそう。
「は、はい?」
「俺に、何か用か?」
「あっ、え、ぇーと…」
  ここに来るのに必死だったので、話そうとしていた内容を忘れてしまいました。なんて言え
ない、話がしたくてここまで来たというのに。
「んーと…」
  どうしても思い出せない。頭を振ってみるが、全くでてこない。
そんな行動に呆れたのか、また、ため息をつく男子生徒の姿が視界の隅に映り。
「どうでもいいが、昼飯はいいのか」


  そう言って、彼は弁当をまたつつき始める。
(昼飯…?)
  すっかり忘れていたけど、持っている弁当箱の中身はまだ残っている。
どこで食べようかと辺りを見回し、彼の隣の空いている席に目が止まった。
(使っても、いいですよね…?)
  少し、お借りします。と、ここの席の人に心の中で頭を下げ。机の上に弁当箱を置き、広げる。
  残っているのは、バターロール六個と照り焼き数切れ、サラダが丁度半分ぐらい。
(食べている内に、思い出せるといいのですが…)
  まだ、休み時間もありますし、と頬を緩ませながらバターロールをかじり始めた。

   -△-