それは――ベヒーモスと呼ばれる巨大な怪獣だった。アレルは驚きの声を上げる。それを見たヴィランツ皇帝は嘲笑を浮かべた。
「おまえは知らないようだから教えてやろう。未だかつてこの闘技場で優勝した者はいない。優勝をねだる者は皆このベヒーモスと戦って命を落とした。ククク、余が気前よく下々の者に賞金を与えると思ったか? 余はただ楽しめればそれでいい」
「だましたのか」とアレル。
「だますとは心外だな。約束通りベヒーモスを倒せば金貨千枚をくれてやるさ。もっとも、そのようなことができれば、の話だがな。どうする? 命乞いをして大人しく我が配下になるか?」
「こいつを倒せば本当に賞金をくれるんだな?」
「できるのか? おまえに」
 皇帝の問いに、アレルはレイピアを抜くことで答えた。ベヒーモスは獰猛な唸り声を上げて襲いかかってくる。巨体が闘技場中を駆け巡る。相当の重量があるにもかかわらず、ベヒーモスは俊敏であった。アレルも闘技場中を縦横無尽に駆け巡り、猛攻をかわす。一撃でも喰らえば即死である。攻撃が掠っただけでも重傷を負いそうである。
アレルはしばらく攻撃をかわすのに専念していたが、やがてレイピアを構え、ベヒーモスに突進した。ベヒーモスの片方の眼にアレルのレイピアが深々と突き刺さった。怪獣は大きく咆哮し、暴れ出した。アレルは振り落とされないようレイピアを抜き、今度はベヒーモスの喉を狙った。城内に鳴り響く絶叫を上げ、ベヒーモスは絶命した。その場にどうと倒れる。その場にいた全ての者達から歓声が上がった。
「あのベヒーモスを倒したぞ!」
「あんな小さな子供が!」
「優勝者アレル!」
 驚愕の混じった喝采を浴びながら、アレルは再び皇帝の面前へ行った。
「ベヒーモスを倒したぜ。約束通り金貨千枚をくれるんだろうな?」
「その幼さで信じがたい戦闘能力だな。賞金はくれてやる。それよりおまえの優勝を祝って宴を催してやろう」
「…いいだろう」

 アレルは賞金をもらった後、宴に招かれた。ありとあらゆる贅を散りばめられた皇帝宮殿。数多の臣下が皇帝に従い、召使が働いている。そして円卓の上にはこれまた贅を尽くした料理が所狭しと敷き詰められている。その中でも最も豪奢な造りの場所に、アレルは皇帝と差し向いに座った。皇帝は左右に美しい妾を侍らせていた。アレルの両脇にも美しい侍女を侍らせる。皇帝はしげしげとアレルを眺めた。非常に興味深いものを見る目つき。信じがたいものを見る目つき。アレルの容姿に見惚れ、時に舐めまわすような目つきをしたが、アレルはそれらに無表情で応える。
「アレルと言ったな。おまえの様な子供は初めて見る。どの国の出身だ?」
「どこでもいいだろ? ただこの国の人間じゃない」
「係累はいるのか?」
「いない」
「それなら余の臣下にならんか? 他の奴らとは比べものにならぬ、破格の待遇をしてやるぞ」
「断る」
 アレルはどこまでもつれない返事をする。しかし皇帝は面白そうに笑みを浮かべていた。
「フフ、まあそう言わずに一杯飲んでいけ。酒は飲んだことがあるか?」
「ああ」
「この国で最も上等なワインを共に酌み交わそうではないか」
 皇帝が指を鳴らずと、侍女達が杯にワインを注いだ。アレルと皇帝は乾杯をすると、ワインを一気に飲み干した。その時、皇帝の顔に満足げな笑みが浮かんだが、アレルは気に留めなかった。
「アレルとやら、しばらくこの宮殿に滞在せぬか?」
「いや、すぐに出ていく」
「そうか。ククク。実に惜しいな。おまえのような美しい子供を小姓に迎え、共に天下を取り、この世界を支配する。甘美な夢だ。余は全てを手に入れたい。全てを支配したい。全ては余の前にひれ伏すのだ。アレル、余はな、このグラシアーナ大陸を全土統一したいのだ。全ての国を傘下に入れたい。手始めに近くの三国は既に滅ぼした。フィレン、トディス、カレンツィア。おかげで我が国は以前よりずっと国力が増した。だがまだまだこれからだ。十分に国力増強を行ったら、次はもっと南東に遠征するつもりだ」
 アレルはこの支配欲に取り付かれた皇帝に対して、敢えて何も言わなかった。何を言っても効をなさないと判断したのである。ヴィランツ皇帝が世界征服を企んでいるという噂は有名であった。皇帝は極上のワインと美味な料理をじっくりと味わいながら話を続ける。その顔には酷薄な笑みを浮かべていた。
「アレル、余が滅ぼした国の国王や王妃をどうしたか知っているか?」
「処刑したんじゃないのか?」
「もちろん男の王はな」
 アレルが怪訝な表情をすると、皇帝は優越感に浸りきった表情で右側の妾を傍に引き寄せた。その女性は恐怖に怯えきった表情をしていた。
「この女は元カレンツィアの女王だ。そして今では私の妾の一人」
「…! 滅ぼした国の女王を妾に?」
「そうだ。私にとっては美しい戦利品だ。元カレンツィアの民が反乱を起こそうとしても問題ない。世継ぎは余とこの女から生まれる。カレンツィア王家の血を引いた正当な後継者がな。ククク、カレンツィア王家の生き残りは最早この女だけだ。他は皆、処刑した。民が国を復興させようとしても無駄なこと。後継者は余の血を継ぐ者になるのだ。カレンツィアを滅ぼしたこの私のな。カレンツィアは婚姻により、正式にヴィランツ帝国に吸収されるのだ。血統の上でもな」
(なんてやり方だ…)
 アレルは内心この皇帝に対して怒りが湧いてきたが、表向きは顔色一つ変えなかった。そんなアレルの様子に皇帝は満足げに笑みを浮かべた。そして今度は左側の妾を引き寄せる。
「ちなみにこちらの女はトディスの元王妃だ。夫である国王の方は既に処刑してある。もちろん他の王家の者もな」
「それがあんたのやり方か」
 皇帝は愉悦に浸った表情で語り続ける。
「余は美しい女が好きだ。他国を滅ぼすと戦利品としてたくさん手に入る。おかげで美女に事欠くことはなくなった」
(女の人をそんな風に扱うなんて…!)
 アレルは再び怒りが湧いてきたが、ぐっと耐えた。怒りをあらわにしたところでこのサディスティックな皇帝を喜ばせるだけである。アレルは別の質問をした。
「それで残りのフィレン王国はどうしたんだ?」
「フィレンは女王が治めていた。最初はカレンツィア女王と共に妾にしていたのだが、フィレンは三国の中で最も勢力があった。反乱が起きてな。奴らへの見せしめに処刑したのだよ。処刑の場には第一王子スコットを立ち会わせてな」
 皇帝はますます悦に入った笑みを浮かべた。
「王子の目の前で処刑してやったのだよ。目の前で母親を殺される気分とはどのようなものだろうな。ハハハハハ! そして無残な女王の死体を反乱軍の奴らに見せしめてやったのだ。いいか、アレル。これが最も効果的なやり方なのだよ。事実、反乱軍はすっかり意気消沈してなりを潜めている。人間は恐怖によって支配するのが一番良い方法なのだ」
(肝心な時だけ厳しく取り締まって、後は自由にやらせるのが一番だと思うけどな…)
「何か言ったか?」
「いや、何も。それでフィレンの第一王子はどうしたんだ?」
 皇帝は宴の下座の方にある一角を指し示した。そこには奴隷達が鞭を打たれながら大勢働かされていた。粗末な服を身に纏い、足には鉄球のついた鎖が繋がれている。奴隷の中には子供もたくさんいた。奴隷達は皆、生気がなく、憔悴しきっており、全てに絶望したような顔をしていた。皇帝が指図すると、奴隷達の中から一人の少年が連れて来られた。
「アレル、こいつが元フィレン王国の第一王子だ」
 アレルは冷ややかな目で自分より年長である少年を見つめた。その表情からは何を考えているのか全く窺い知れない。王子の方は信じがたいものを見たような顔をしている。しばらくして皇帝はフィレンの王子を下がらせると、また残忍な笑みを浮かべた。
「アレルとやら、ますます気に入ったぞ。何を聞いても顔色一つ変えない。我が臣下としては理想的だ」
「悪いが俺はあんたに仕える気はない。この宮殿で何でもやりたい放題やってなよ。俺は知らない」
「人を傷つけるのは愉快なものだ。どんな美酒よりも余を快楽に酔わせてくれる。――やれ!」
 皇帝が合図すると、宴に招待された帝国の貴族達は様々な武器で奴隷達を打擲し始めた。この国では残虐な嗜好を持つ者が多い。貴族達は嬉々として武器を振るう。奴隷達の悲鳴はさらに嗜虐的な嗜好を刺激し、さらに力を込めて暴力が振るわれる。それを見て皇帝は非常に満悦そうであった。アレルは眉を顰める。
「皇帝、あんた、あんな光景見てて楽しいのか?」
「おまえもいずれわかる時が来る。人を傷つけることの愉悦感、恐怖に怯えた悲鳴、恐怖に満ちた形相、耳に心地よい断末魔の叫び」
「俺はあんたのようにはならない。絶対にな」
「そう言わずに今夜はここに泊まっていったらどうだ? 今宵はもう遅い」
「…わかった」
 皇帝は口の端をつり上げた。アレルが侍女に案内されて宴の場から出ていくと、側近が近づいてきた。
「ちゃんと酒に薬は入れたのだろうな?」
「はい。効き目が出るまでに少々時間がかかりますが、それゆえに相手に悟らせることなく眠らせることができます」
「眠ったところを我がものにするか。今日はとんだ獲物が手に入ったな」
「あれほどの戦闘能力を備えた子供なら、今後の我らヴィランツ帝国の繁栄に大いに貢献してくれることでしょう」
「ああ、我がしもべとして従わせてみせる。必ずな」
 皇帝と側近は二人でほくそ笑んだ。



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