アレル達がヴィランツ帝国から亡命した夜は、帝国にとって悪夢の夜となった。雷やハリケーンで建物のあちこちが破壊され、大雨により起きた洪水で首都全体が水浸しになった挙句、大地震で首都ヴィランツインペルは壊滅状態になった。膨大な死傷者が出、帝国の幹部の者達は事後処理に追われていた。損害は夥しい。しかし、凄惨な光景を目の当たりにしても皇帝は平然としていた。側近達を連れて淡々と命令を下していく。
「これでは当分他国への侵略はできんな」
「…は。それにしましても何故このような自然災害が一度に起きたのでございましょう?」
「そのようなことはどうでもいい。おまえ達が徹底して復興に当たれ」
 皇帝の表情は冷徹そのものであった。これだけの大惨事を目の当たりにしても顔色一つ変えない。そんな皇帝に側近の一人は恐る恐る進言する。
「陛下、もしかしたらこれは天罰が下ったのでは…今まで我々はあまりにも血を流し過ぎました。それに自らの楽しみの為だけに残酷な行為を繰り返しました。その報いを受けたのでは――グフッ!」
 皇帝の刃が容赦なくその側近を貫いた。
「くだらぬ戯言を言うな。おまえ達、今後そのようなことを言った者は全て処刑せよ」
「…はっ」
 側近の一人は皇帝によりあっけなく命を絶たれた。その亡骸だけが虚しく横たわっている。それには目もくれず、皇帝は一番お気に入りの側近に話しかける。
「あのアレルという子供はどこにいる?」
「それが…どれだけ探しても姿が見当たらないのでございます」
「まさか死んではいないだろうな? 昨夜薬を飲ませたのだから侍女が通した部屋にいるはずだ。あの近辺の被害は?」
「それが、地震により崩れ落ちました」
「何だと! 死んでもらっては困るぞ! なんとしても探し出すのだ! 薬が効いたところでじっくりと我がものにしようと思っていたというのに。あれだけの上玉、もう二度と手に入らぬかもしれぬ」
「現在捜索を続けております」
 その時、別の側近が報告にきた。
「申し上げます。スコット王子が姿を消しました」
「何? 死体の山に埋もれているのではないか?」
「その可能性もございますが、現在捜索中です」
「ふむ…王子が死んだとなれば反乱軍も希望を失うな」
「しかし陛下! たとえ王子がいなくなっても反乱軍はこの度の大災害を好機と見做すでしょう!」
「心配には及ばぬ。余が魔界の者と契約していることは知っておろう? いざとなれば彼らの力を借りることにする。魔物を使って反乱軍を全滅させるまでだ。何人たりとも余の邪魔をすることはできないのだ」
 そう言うと、皇帝は側近達を後にし、魔界の者と交渉しに行った。

 ヴィランツ皇帝が魔界の住人と対話をする場。ここも昨日の大災害の影響を受けてあちこち亀裂が走っていたが、魔族達はそれには全く意に介さぬようだった。
「魔界の者達よ、話がある。この度の大災害、果たして偶然か? それとも何者かの仕業によるものか?」
「…あのアレルという子供…自然を操る能力を持っている。ヴィランツインペルの大災害は全てあの小僧の仕業。その証拠に被害が甚大なのはここだけだ」
「なんと! …あの子供、一体何者だ?」
「我らにもわからぬ…あのような力を持つ者は初めてだ…あの子供を味方につければ我ら魔族の世にすることも可能だ…」
「ふむ。あれだけの力があればたやすく世界を征服できるな。それで、肝心のアレルはどこにいる?」
 魔界の住人は水晶玉を取り出し手を当てた。そしてアレル、スコット、馬のボルテの姿が映し出される。
「ほう、これはこれは。スコット王子はアレルと共にいるのか。傍にいるのは見たところ相当の駿馬のようだな。どこで手に入れた…? もちろん我が宮殿内か…ふむ」
 皇帝は非常に興味深そうにアレル達を眺めていた。
「しかし解せんな。アレルには確かに薬を盛ったはずだが…」
「…我ら魔族は昨日からあのアレルという子供の様子をここから見ていた。闘技場での戦闘能力はあまりにも驚異的だった故な。昨夜あの子供は眠ってなどいないぞ。そして大災害を起こし、反乱軍の希望であるスコット王子と、皇帝であるおまえに献上されるはずだった、捕らえたばかりの名馬を盗み出してこの国から亡命したのだ。
「…ほう」
 皇帝はしばらく食い入るようにアレルを見つめた後、大声で笑い出した。
「面白い! 我が帝国にこれだけの甚大な被害を与え、反乱軍の王子を連れ出し、駿馬まで盗んでいったか。ハハハハハ! ここまでやられては却って愉快だ!」
「…皇帝よ、おまえではこの子供を捕らえることはできん。既にこの子供は地震により地形を変えた。人間の足では近づけん」
「それではおまえ達魔界の住人に頼むことにしよう。アレルと、あの王子も捕らえて欲しい。頼んだぞ」
 皇帝が去った後、魔界の住人達は興奮冷めやらぬ状態だった。
「…強大な力を持つ者…あの子供を我ら魔族の眷属に…」
「そしてこの世界を我らが魔族のものに…!」

 スコットは照りつく日の光でようやく目を覚ました。日はもうかなり高くなっている。余程ぐっすりと眠っていたのだろう。辺りを見渡すと馬のボルテが草を食んでいた。スコットに気づくとすり寄ってきて顔をなめてくる。アレルの姿はない。
「アレルはどこに行ったんだろう? ボルテ、おまえ、知らないかい?」
 ボルテはただ鳴いただけだった。仕方がないので顔を洗いに行くことにする。確か昨日傷口を洗った川があったはずだ。
 昨日――本当にあったこととは到底信じがたい。しかしこうして冷たい牢屋の中ではなく暖かい日の光に包まれているのを実感すると、やはり本当にあったことなのだと思う。もう自分は自由なのだ。悪夢のような奴隷生活は終わった。後はどうにかして大国サイロニアの協力を得て祖国へ帰り、国を復興させなければ。
 川へ行くとアレルがいた。川魚をたくさん捕まえていた。
「あ! スコット、おはよう。よく眠れたか?」
「おはよう、アレル。起こしてくれてもよかったのに、寝かせてくれたんだね。ありがとう」
「そりゃあ傷だらけの怪我人だからな。それより見ろよ。大漁だぜ。当分飯には困らないな」
「あ、ありがとう」
 二人は遅い朝食の支度を始めた。アレルは野宿に慣れているようで、何事も手際がよかった。
「スコット、怪我の具合はどうだ?」
「まだ痛むけど、毎日薬を塗っていれば大丈夫だよ。ありがとう」
「そうか。ならいい。化膿するようだったらまた別に薬草を探さなきゃいけないからな。早めに言えよ」
「どうしてそんなに優しくしてくれるの?」
「別に普通だけどなあ。おまえ、長いこと奴隷扱いされてきたから他人の気遣いとは無縁だったんじゃないか?」
「うん、それもあるけど」
 スコットはアレルが本当は優しい子なのだと信じたかった。帝国亡命の時はやむを得なかったのだと。それに、謎は多いがまだ小さい子供なのである。
「ボルテがおまえの怪我がひどいからもう少し乗せてってくれるってよ」
「え?」
「実は俺、動物と話ができるんだ」
「…え?」
 スコットは怪訝な顔をした。するとボルテはアレルに近づいていった。アレルは親しみを込めてボルテを撫でた。
「だからボルテと話をつけたんだよ。逃がしてやるかわりに俺達を帝国から亡命するのに乗せてってくれって」
「君は一体いくつ特殊な能力を持っているんだい? 君と出会ってからずっと驚くことばかりだよ」
「うん、まあ、そうだな。俺って人を驚かす為に生まれてきたのかもしれない。とにかくもっと馬が自由に駆け回れるところに着いたらボルテは逃がしてやるからな」
「な、何だって! そんな! せっかく手に入れた名馬なのに!」
「約束だからな。それにおまえだってずっと奴隷でいたんなら自由を奪われる辛さはわかるだろう? ボルテだって同じだよ」
「う、う〜ん、そうだけど…」
 それからしばらくアレルはボルテと何やら親しげに話していたが、スコットには会話の内容はよくわからなかった。それに気づくとアレルは会話をやめてスコットの方を見た。
「なんかやりにくいなあ。おまえも動物と話ができたらよかったのに」
「どうしてそんな能力を持っているの?」
「さあ」
「さあって…前々から思ってたけど君って一体何者なの?」
「俺にもわからない。実は俺さ、記憶喪失なんだ」
「何だって!」
 スコットはこのアレルという子供について一度頭の中で整理してみた。見た目は六、七歳くらいの小さな子供。しかし闘技場であっさり優勝するほどの驚異的な戦闘能力の持ち主。どこからともなく牢屋に忍び込んだり錠前を外したりしたかと思えば自然を操る能力を持っている。暗闇の中でも相当夜目がきく。そして更には動物と話すことができるというのだ。この人間離れしすぎた子供が一体何者なのか。それは本人にもわからないというのだ。多くの謎に包まれた記憶喪失の子供。
「俺は記憶を取り戻す旅をしている。自分が本当に人間なのかどうかもわからないんだ。いろいろ人間離れした能力も持ってるしな」
「えっと…じゃあ自分の名前だけ覚えてたの? 記憶喪失になっても自分の名前だけは憶えてるって、そういう話もよく聞くけど」
「いや、俺の場合は何も覚えてなかった。目覚めた時、着ていた服に『アレル』って刺繍してあったんだ。だからそれが俺の名前だと思ってるんだ」
 アレルは立ち上がった。
「さあてと、そろそろ行くぞ。話ならこれからいくらでもできるからな。ここはヴィランツインペルからまだ近い。早く離れたいんだ」
「そうだね」
 そこまで答えて、スコットはある疑問が頭に湧いてきた。
「…そういえば、アレル…その…あのヴィランツ皇帝に何もされなかった? あの皇帝が君みたいな綺麗な子を放っておくとはとても思えないんだよ。いつもだったら飲み物に薬を入れて眠らせて、その後…」
「それは心配いらない。俺って薬が効かない体質らしくてさ」
「ええっ!?」
「今までだって一緒に旅してた連れが薬盛られて眠っちまったのに俺は平気だったんだ。で、薬を入れた奴はいつもおかしい、そんなはずはないって驚くんだ。だから俺には薬は効かないみたいなんだよ」
「あ…そ、そうなんだ…」
 この子は一体いくつ謎を持っているんだろう。せっかく先程頭で整理したばかりなのに。また新たな謎が一つ加わった。薬が効かない体質。アレルの方も困った顔をした。あまりにも人間離れした特徴がいくつもありすぎる。
「悪いな、驚かしてばかりで」
「いや、その……君が皇帝の毒牙にかからなくてよかったよ」
「何のことだ?」
「知らなくていい! 知らなくていいよ! いいからそのままもっとまともな人達のところへ行こう!」
「そうだな。あの国は退廃しすぎている」
 スコットは慌ててボルテに乗ろうとして危うく落馬するところだった。昨日から何かとアレルに助けられてばかりである。身長からしても明らかに自分の方が年上だというのに情けない。当分あの背徳にまみれた国のことは忘れよう。ヴィランツ皇帝の嗜好については、アレルは幸いにも知らずに済んだようだ。ならそれに越したことはない。今までの悪夢のような日々を頭から振り払い、スコットはアレルと共にボルテに乗った。
「ボルテ、険しい道だけど大丈夫か?」
「僕のことは気にしなくていいよ。それより南ってどっち?」
「こっち」
「道らしい道がないからそのうち方向がおかしくなっちゃうかもしれないよ」
「大丈夫だよ。太陽や星の動きを見ていればわかるし、人間には方位磁針っていうのがあるんだぜ」
「わかったよ。じゃあ行くよ」
 アレル達は南を目指し、旅立った。そんな彼らを追って魔族の影が忍び寄る――



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