ある日、アレルは数多くの魔導書の中で特に古いものを発見した。このところずっと魔導書をひたすら読み漁っていたアレルはたちまち夢中になった。
「何だこれは? 己の内面を探る術…? 己の頭の中に意識を投入する術…ありとあらゆる自分を見つけ出す術…」
 それは難解な文章で綴られていたが、どうやら己の内面世界に意識を投入するという術らしい。己の内面世界。そこにはきっと自分の全てが存在するのだろう。失われた記憶も…何か記憶の手がかりが得られるかもしれないと思い、アレルは術の行使を試みた。

 気が付くと、アレルは何もない空間に漂っていた。まるで夢の中を彷徨っているようである。そこには上も下もなく、前へ進んでいるのか後ろへ進んでいるのかもわからなくなってしまうような永遠の回廊が続いていた。その中でアレルはひたすら己の内面を探ろうとした。
 真っ先に現れてきたのはジェーンという女性と古代人の国ナルディアの風景だった。アレルが記憶を失って初めて目覚めた場所。それからヴィランツ帝国へ移り、以前、共に旅をしたルアークとユリアスという男が現れた。アレルをかばって死んだ最期まで、アレルの脳裏に焼き付いている鮮烈な記憶が再現される。それからヴィランツ皇帝が現れ、ベヒーモスが現れ、アレルを再び餌食にしようと襲いかかってきた。
 それはアレルの中の様々な記憶。過去の記憶。次にスコット王子や馬のボルテが現れた。短い間であったが彼らとの旅の道中にあったこと。魔族との戦い。サイロニアの勇者ランド、その仲間のティカ、ローザ、ウィリアム、サイロニア城の人々。モンスターとの戦い。勇者としての神託。

(これは俺の今までの記憶だ。それ以前の記憶は見つけられないだろうか?)
 アレルは空間を漂いながら少しでも己の記憶を探ろうとした。今、自分が持っている記憶の手がかり。森と砂漠のおぼろげなイメージ。唯一聞き覚えがあったザファード大陸の名前。そして記憶を失って目覚めた時に持っていた愛剣エクティオス。
 森。砂漠。森。砂漠。相反する二つのイメージが交互に出現してはまた消える。
 森。生い茂った緑豊かな森。木々の間から差し込む木漏れ日。気持ちのよい風。無邪気な森の動物達。
 砂漠。見渡す限りの砂漠の海。照りつく太陽と熱い空気。下を見れば砂――砂――砂――
 だが、それ以上のものが何も出てこない。もっと探ろうとすると頭が痛くなる。何かが記憶を取り戻すのを拒んでいるのだろうか。アレルはさらに記憶の手がかりを探ろうとした。この空間では思うように行動できない。もどかしさと焦りを感じながらも、がむしゃらに空間を進み続ける。

 気が付くと、前方に人の姿が見えた。その輪郭はおぼろげだが、どうやら大人の男のようである。
「あんたは誰だ?」
「私に構うな。出て行け」
「ここは俺の意識の中のはずだ。俺の中に他人がいるっていうのか?」
「私はおまえそのものだ。他の誰でもない」
「何だって? もう一人の自分ってやつだとでも言うのかい? だったらなんであんたは大人の姿をしてるんだ」
「私のことは気にしなくていい。何も知らなくていい。おまえはおまえで好きなように生きていけばいい」
 何やら謎の人物と対面することになってしまった。この男は一体何者なのか。
「俺が何者なのか知ってるなら教えてくれよ! 俺の失った記憶を全部教えてくれ!」
「…おまえの問いに全て答えてやるわけにはいかない。知らない方がいいこともあるのでな」
「じゃあ、あんたが言ってもいいと思ったことだけ教えろよ。何でもいいから記憶の手がかりを手に入れたいんだ!」

 相手の男の輪郭が少しずつはっきりとしてきた。憂いを含んだ悲しげな瞳、絶望に蝕まれたような表情。だが、その男は非常に美しい容貌をしていた。
「う〜ん、あんたって本当にもう一人の俺なわけ? 外見年齢は違う。言葉使いは違う。髪の色も肌の色も違う。あんた本当にもう一人の俺?」
「そう思いたければそういうことにするがいい」
「あんた見るからに不健康そうだよな。その肌、ほとんど日に当たってないだろ?」
「そうだ。私は生まれた時からずっと闇の中で生きてきた。おまえが暗闇の中でも目が見えるのはその影響だ」
「そうだったのか…って、そんなことだけ教えてもらってもなあ。あんた何者なんだ? もう一人の俺なのかそれとも別人なのか」
「その質問には答えられない。おまえに関することだけ、差し支えない部分だけ答えてやってもいいが…おまえは既に自由を手にし、旅をしている途中なのだろう? そのうちにあの森や砂漠がどうなったか知る時が来る。わざわざ私に尋ねるまでもあるまい」

 謎の男は気になる言い回しをする。アレルの内面世界にいる大人の男。この男がもう一人の自分だとするならアレルは子供ではないのだろうか。とにかく何でもいいから記憶の手がかりを手に入れなければ。この男は何か知っているようだ。
「俺の記憶の中にある森と砂漠は具体的にどこのことを言ってるんだ?」
「それはわからぬ。通常、誰も幼児期から自分がどの大陸のどの地方に住んでいたかまで気にしたりはしないからな」
「あんたは知らないのか? 大人の姿をしているじゃないか」
「今、話をしているのは『おまえの記憶』であって『私の記憶』ではないからな」

 相変わらず気になることばかり言う。アレルのもう一人の自分なのか別人なのか、はっきりしない。言うことは曖昧で肝心なことは教えてくれない。アレルは質問を変えて少しでもこの男から手がかりを引き出そうとした。
「なあ、俺の親は今どこにいるんだ?」
「おまえが言っているのは生みの親のことか? それとも育ての親のことか?」
「え、別なの? そうか…じゃあ、まずは生みの親のことだな」
「それは知らなくていいことだ。必要のない情報だからな。望まれて生まれた子供ではなかった。それだけ聞けば十分であろう?」
 新たな情報である。アレルにとって生みの親と育ての親は別であるらしい。生みの親から望まれた子ではなかったと言われても、アレルは冷静に受け止めた。
「…わかった。じゃあ育ての親は?」
「おまえの母親に当たる人物も、父親に当たる人物も、それぞれ引き離されてしまった。あれからどうなったのかは行って確かめるまでわからない」
「どこかの夫婦に育てられたのか?」
「違う。ある女性が母親代わりにおまえを拾って育てていたが、その女性と引き離された後、おまえは全く別の場所に住んでいる男に拾われたのだ」
「生みの親と育ての親が別で、更に育ての親の父さんと母さんは赤の他人で何の関係もないって? なんかややこしいなあ」
「どのみち我々という存在は普通の人生は送ることができないさだめにあるようだ。今までもずっとそうであったし、これからもどうやらそのようだな」
 この謎の男はかなり具体的にアレルの過去を知っているようだ。アレルは今しがた得た情報を反芻した。
「普通の人生は送ることができない、か。それならそれで別にいいけど。それで俺の父さんと母さんはどこにいるんだ? 森と砂漠に関係があるのか?」
「森を探せば母親と再会できるかもしれない。砂漠を探せば父親に再会できるかもしれない」
「アドバイスどうも。少しは具体的になってきたな。それじゃあザファード大陸の名前に聞き覚えがあったのは?」
 ザファード大陸の名前を聞いた途端に男の様子は急変した。今まではアレルの様子を見ながら慎重に受け答えをしていたのが急に取り乱し、絶望と憎悪にまみれた表情になった。
「あの大陸には絶対に行くな! あそこは偽りに満ちた世界だ! 腐敗した人間社会が成り立っている。あそこの人間が勇者の助けを必要としていても、おまえがそれに応えてやる義理は全くない! 滅び朽ち果てるに任せるがいい!」
(ふ〜ん、ザファード大陸に何かあるわけね。これは何としても行く方法を探さなきゃ)

 謎の男の取り乱しようは尋常ではなかった。アレルは記憶喪失であるが、心の底に限りなく辛い記憶が眠っている。人間を信用できない何か。やりきれない思い。これはこの謎の男と関係があるのだろうか。アレルは思ったことは口に出さずに他のことを聞いた。
「ところで、あんたエクティオスについて何か知ってる?」
 エクティオスとは、アレルの愛剣であるレイピアの名前である。神託を受けた勇者が使う聖剣の一つでアレルを持ち主として認めている。記憶喪失で目覚めた時に持っていた、唯一の持ち物でもある。エクティオスについて知っている者に出会うことができればアレルの出自もわかるのではないか。
「…あれが何故おまえを所有者として認めているのかわからない」
「認められない理由でもあるのか?」
「それはおまえの知るべきことではない。どのみち普通に旅をしていればエクティオスを知っている者と出会うはずなどないのだからな」
「他の聖剣より何かいわくつきなのか…ところでみんな俺のことどこかの王侯貴族の出身じゃないかって言うんだけど」
 次々に質問をしていくアレル。はっきりした答えが得られなくても構わず、少しでも自分に関する情報を手に入れるのだ。自分について疑問に思っていることをどんどん尋ねていく。
「おまえは赤ん坊の頃、森で育ったのだ。どこの王侯貴族も関係ない」
「知ってても教える気はないんだな? ったく、こんな空間じゃなきゃ脅しでもなんでもやってやるところだぜ」
 この特殊な空間ではうまく動けない。そもそも自分の内面世界であるのに、その中にいる相手を脅したり攻撃したりできるものなのかどうか。夢の中で意識があるような妙な状態。
 アレルがどうしたものかと考えていると、謎の男の様子が変わった。今度はアレルのことをまじまじと見つめてくる。
「おまえは私から見ると随分明るくなったな。例え一時的な空しいものでも愛情を受けて育った子供というのはやはり違うな」
「一時的な空しいものって何だよ!」
「…彼らがおまえを愛してくれたのは、おまえが何者なのか全く知らなかったからだ。何も知らなければおまえはただの赤ん坊、ただの幼子。だから普通の人情として愛情を持って育てたのだろう。呪われた存在、迫害を受けている存在、差別されている存在だと知っていれば誰も愛情など注ぐわけがない。差別というものは、その者が差別されているということを知って初めて生まれる偏見だ。差別されていることを知らない人間にとっては全く普通の人間だ」
「俺は人から差別されるような人間ってわけね。まあ、それはそうだろうけど。俺って明らかに普通の子供とは違うところが多いからな」
 謎の男の言うことは深い。本当に差別や迫害を受けたことのある者でなければ言えない言葉だった。
「私はおまえが少しでも幸せになることを望む。幸せなど決して手に入れられないものだとは思う。だが少しでも幸せというものを手にしようと渇望するのが、人が生きるということなのだとも思う」
「自由気ままに生きてりゃいいんじゃねえか? そんなに難しく考えることないよ。なるようになるさ。俺はどうやら人と関わることにいろいろ引っかかりがあるようだけど、別に人と関わらなくたって生きていけるさ。人間一人じゃ生きていけないってよく言うけど、別に人里離れた自然豊かな森で動物達と気楽に暮らしててもいいんじゃないかって思う。それで人と関わりたくなったら街に出て、嫌なこととか散々な目に遭ってうんざりしてきたらまた森に引っ込めばいいんじゃないか? それに別に一つの場所にこだわらなくたっていい。いろんな場所へ行けばいろんな文化があるし、いろんな考え方の人がいる。とにかく人と世界と、広く浅く付き合えばいいんだよ」
「その一方で深く関わることもまた望んでいるのではないか?」
「それはその時だよ。相手の反応を見ながら、その反応に対して自分がどう感じるかとか、そういうことを積み重ねていって、深い仲になりたいやつとだけ仲良くなればいいじゃないか」
「そうか…よかろう。おまえがいつか本当に信頼できる人間と出会えることを祈る」
 そう言うと謎の男は姿を消した。
「え? ちょ、ちょっと待てよ! あんた、もっと話を――」
 後に残されたのは何もない空間だけである。そして目の前が暗転し、気が付くとアレルは魔導書を手にしたまま部屋で倒れていた。
「な、何だったんだ、今のは…?」
 アレルはしばらく茫然としていた。だが、自らの記憶に関して、自分の正体について、いくらか収穫はあった。
 その後、アレルは今しがた起こった出来事について思いを巡らせていた。





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