ミドケニア帝国のエルヴィーラ皇后に会って以来、アレルは毎日のように皇后の元に通い始めた。皇帝ヴァルドロスは、アレルが妃に懐いていると聞いて嬉しそうだった。アレルは皇帝のヴァルドロスではなく、皇后のエルヴィーラと一緒に遊ぶようになったが、ヴァルドロスはそれならそれで良いと思い、ほぼ元通りに政務に励み始めた。帝国の重臣達は、一時はどうなることかと思ったが、君主が危ない趣味に走るという可能性は低くなったようなので安心した。アレルは記憶喪失の子供である。大人から見ればさぞかし母親が恋しいであろうと思う。なので、慈愛に満ちたエルヴィーラ皇后に懐いているのはごく自然のことに思われた。
アレルはエルヴィーラ皇后が好きであった。それに、優しく美しい女性なのにどこか寂しげな表情をする皇后を見ていると放っておけなかった。
「皇后様、どうしていつもそんなに寂しそうな顔をしているの? 陛下のことが原因なら俺が言ってやるよ」
「まあ、いいのよ、アレルくん。陛下は昔からああだから」
「女好きで浮気性だってこと? 皇后様はもっと怒ったっていいと思う」
「殿方とは皆そういうものだと教えられてきたもの」
「そんな……! そんなことないよ! そもそも結婚っていうのは……いや、それは子供の俺がとやかく言うことじゃないけどさ、皇后様の一体どこが不満なのさ! とても綺麗で優しいし、ちゃんと子供だっているのに」
「陛下は一人の女性では満足できないのよ。わたくしとの間には既に何人か子をもうけたわ。長男のリュシアンは皇太子になったし、わたくしは皇后としての最低限の務めは果たしたの。お世継ぎを生んだんですから。アレル君、勘違いしないで。わたくしと陛下は仲が悪いわけではないのよ」
「で、でも……」
 夫婦の仲は冷え切っているようにしか見えない。仲が良い悪いではなく、疎遠になっているのだ。アレルは納得がいかなかったが、そうはいっても夫婦間の事情は他人がとやかく口をはさむことではない。特にアレルはまだ子供であった。
「それよりアレルくん、あなた記憶喪失なんですって?」
「うん、そうだよ。俺が旅してるのは記憶を取り戻す為でもあるんだ」
「そう、大変ね。ご両親はさぞかし心配してるでしょう」
 アレルの心に痛みが走った。
「まだこんなに小さいのに記憶喪失で、さぞかし心細いでしょう。それなのにもう勇者としての神託を受けているなんて。無理しなくてもいいのよ。ここにいる間は陛下があなたを守って下さるわ。あなたも普通の子供として振る舞っていいのよ」
「皇后様?」
「あなたくらいの子供はまだまだ親に甘えたい年頃でしょう? わたくしが親代わりになってあげるわ。いっぱい甘えてもいいのよ」
「……陛下と同じこと言うんだな。やっぱり夫婦だ」
「まあ、そうだったの?」
「言っとくけど、俺はしばらくここに滞在するだけでずっといるわけじゃないよ。俺の記憶の手がかりはここでは得られそうにないし」
 そう言いながらもアレルは皇后に懐いていた。恥ずかしがり屋のアレルは皇后と二人きりの時にしか甘えることはしなかったが。エルヴィーラ皇后はアレルの孤独な心を暖かく包み込んでくれる。母親というものはこういうものなのかと思う時もあるが、肝心の自分の母親に関する記憶は全く蘇ってこなかった。幼すぎて覚えてないのだろうか? アレルの推定年齢はおよそ七歳と思われる。それ以前の記憶となると、幼いが故に覚えてないことも多い。早く記憶を取り戻さないと幼少時の記憶は本当に消滅してしまうのではないだろうか。
「そういえば」
「あら、どうしたの?」
「皇后様ってリュシアン殿下以外にも子供いるっていってたよね?」
「リュシアン以外はみんな女の子よ」
「へえ、やっぱり皇后様に似て美人なのかな」
「まあ、アレル君ったら。わたくしの子は息子がリュシアン一人、娘が五人いるわ」
「五人もいるんだ」
「そうよ。そしてもう一人新しく娘ができるの」
「えっ? お腹に赤ちゃんがいるの?」
「違うわ。リュシアンの婚約者よ。シャルリーヌ姫と言って、とても可愛くて綺麗な子。リュシアンも成人したし、そろそろ結婚してもいい頃だわ」
「へえ、そうなんだ……って、待てよ?」
 アレルは最初にこの国に来た時に聞いた話を思い出した。ミドケニア皇家は代々結婚が早い。お世継ぎに困らないようにする為とはいえ、結婚を限界まで早くしているのだ。女子が初潮を迎え次第結婚するという、アレルの常識では考えられない話だった。リュシアンは現在成人したばかり。現時点で婚約者がいながら未婚ということはまだ女子の方が幼いのだろう。
「リュシアン殿下の婚約者、シャルリーヌ姫だっけ? 今は何歳なの?」
「今年で十五歳。そろそろ正式に縁談をまとめたいのだけど」
「もしかしてこのミドケニア皇家としては結婚遅い?」
「そうね。リュシアンは真面目な子だから大丈夫だけれど、宮廷内には口さがない者達もいてちょっと心配なの」
「俺から言わせると成人前に結婚するのは早すぎると思うけど」
「王族や皇族は結婚が早いものよ。リュシアンはもう成人したし、シャルリーヌ姫も年齢的には妃になってもいい頃なの」
「ふうん、そうなんだ」
 アレルはなんとはなしに話を聞いていた。そして漠然と、リュシアンの婚約者とはどのような女性なのか、皇后の他の娘達はどのような女性なのかを想像したりしていた。

 一方、暗黒騎士団では不穏な動きが出ていた。
「あのアレルとかいう小僧……気に食わないな……何が勇者だ……俺達の同胞を殺したくせに……」
「戦艦ギガレスクでの一件、まさか忘れたわけではないだろうな」
「皇帝陛下、皇后陛下共にうまく気に入られやがって」
 主に戦艦ギガレスクで被害を受けた暗黒騎士達はアレルに対して憎悪を抱き始めた。断罪も受けずにそのまま君主に気に入られているところがまた気に食わない。今までは皇帝のお気に入りであることと、以前の被害が甚大であったこととで躊躇していた彼らであった。特に暗黒剣を手にした時のアレルの状態はかなりの恐怖を煽るものだった。しかし今は恐れや躊躇いよりもアレルに対する敵意の方が増していた。通常、暗黒剣というのは人の負の部分に打ち勝つ精神力を必要とする。負の感情を克服してきた彼らもあまりにも憎しみが増幅されると正気を保てなくなる。そのまま膨れ上がった憎悪が暴発寸前にまで至っていた。

「ふん、ちょろいものだな。ほんの少し憎悪を煽っただけであのようになるとは」
 人の心に住まう負の感情を増幅させる術。魔族の一人が暗黒騎士達に仕掛けたものだった。



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