記憶喪失で目覚めて以来、アレルは不思議なものばかり見ている。少なくともこの国は自分の知っている国とは随分違うようだ。見たこともない機械があり、家具も服のデザインもアレルの知っているものとは違う。そして風呂。
「あーさっぱりしたー! あんな気持ちいいお風呂初めてだよ! もし俺が記憶喪失じゃなくったってあんなのは体験したこと無いよ」
「フフ、気に入ってもらえてよかったわ」
 アレルはジェーンが買った子供用のパジャマを着て、寝室でくつろぎ始めた。ジェーンの部屋のベッドは羽毛布団でふかふかして心地よい。アレルは子供心にベッドの上で転がったり飛んだり跳ねたりして遊んだ。そのうちあまり度が過ぎてジェーンに注意されてしまったのだが。
「ジェーンおばさん、なんだか、ここ、別世界みたいだよ。全てが、なんだか珍しいものだらけなんだ。このベッドも下手な王様が使ってるものよりも寝心地よさそう」
「そうかもしれないわね」
「え? 本当にそうなの?」
「……そうねえ。あなたは世界の秘密の一つを知ってしまった、ってとこかしら」
「……ふ~ん、鎖国状態にある国の実態――つまり極秘情報ってこと?」
「さっきから思ってたけど難しい言葉知ってるわね」
「別に難しくないよ」
「あなた見たところまだ六、七歳でしょう? まだそんなに難しい言葉は知らないはずよ」
「じゃあきっと本好きだったんだよ」
「そうねえ」
 アレルは窓から夜空を眺めた。空は満天の星空である。
「ここも星がよく見えるなあ。さすがに砂漠で見た時にはかなわないけど」
「記憶を取り戻したの?」
「ううん、相変わらず何も思い出せないよ。だけど砂漠の空気は覚えてる。砂漠の空はもっと雲もなくて、星がいっぱい、はっきりと見えたよ。それだけは覚えてる」
「あなたの記憶を取り戻すには砂漠地帯まで連れていった方がいいのかしら? でもこの国以外はみんな治安が悪いし……」
「他の国にはどうやっていくの?」
「まだ詳しくは言えないけど、行く方法はあるわ」
 二人はしばらくの間夜空を眺めてまどろんでいた。
「アレル君、そろそろ寝ましょう」
「うん」
 ジェーンは自分に出来る限り愛情深くアレルに接した。夕食の時も入浴の時も、こうして一緒に眠っている時も、まるで実の母親が子供に接するように、アレルの心中にあるであろう心細さと不安さを優しい愛情で包み込むようにしてしっかりと抱きしめた。アレルはそんなジェーンに抱かれながら、無邪気に眠りについた。

 次の朝、町長の使いがやってきた。用件はもちろんアレルの処遇についての話である。
「アレル君、おばさんは町長さんとお話があるからこれからお出かけしてくるけど、それまでいい子にしてるのよ」
「庭で遊んでもいい?」
「いいけど、怪我したりしないように気を付けるのよ」
「は~い」
 ジェーンが出かけた後、アレルはさっそく庭に出て遊び始めた。花壇の花をいじったり植木や観葉植物を見たり、小鳥を呼び寄せて無邪気に戯れたりしていた。
 そんなアレルを少し離れたところから覗いている影があった。
「あの子がジェーンさんが拾った子供かあ……可愛いな~」
 アレルは視線を感じて振り向いた。
「しまった! 見つかったぞ、逃げろ~!!」
 ドドドドド…という騒々しい足音を立てて謎の男は去っていった。
「……何だったんだ? 今のは。人間にしては随分大きな影だったけど……」
 このナルディア王国には人間以外の種族も住んでいることをアレルが知るのは後のことである。

 ジェーンが町長の館に着くと、すぐ応接間へ案内された。そこには町長の他にもう一人、見なれない美男子が薔薇をくわえて待っていた。
「やあ、ジェーンさん、お久しぶりで。まあ、とにかくお座りなさい。今、お茶を出しますから」
「そちらの方は誰ですの?」
「やあ、今日も綺麗だね、ハニー」
「……ヴォレモス様! 真面目な話をするんですから変にカッコつけるのはやめて下さい!」
 町長が美男子に向かって抗議する。名前を聞いてジェーンは唖然とした。
「ヴォレモス様……?」
「そう! その気になればどんな美男子にも、どんなマッチョなプロレスラーにも変身できる、変化自在の戦の神ヴォレモスとはこの俺様のことだー!」
 ナルディアには時々、天界の神々が降りてくる。その中でも一際変わり者なのがこの戦の神ヴォレモスである。神々が人間の前に姿を現すことは、他の大陸ではない。だがこのナルディア王国だけは別であった。天界の中でも1番の変人である戦の神ヴォレモスは様々な体格の男に変身した後、元の美男子の姿に戻った。
「ヴォレモス様、今日の用件はあのアレルという子供のことですわよね?」
「もっちろん!」
「なら余計その気障な恰好は余計ですわ」
「ガーン! そりゃないぜ~」
「真面目な用件ならちゃんとした真面目な格好して下さいっ!」
「へいへい。ま~ったくもう天界の連中も下界の連中も細かいことにうるさいなあ~」
「あなたが変人なだけです! ヴォレモス神!」
「オーケー。んじゃま、話を始めようか」
「まず、あの子はどうやってこの国へ入れたのです?」
「それはだな~神の見えざる手によってだな~運命の歯車は回り始めた……そう……全てが運命」
「誤魔化さないで下さい。あなたは神なんだから知っているのでしょう?」
「もちろん全て知っているさ。だけどあの子の存在は天界でもトップシークレットなのさ。残念だが下界の者にあの子が何者かは教えられない」
「それでは差支えない部分だけお教え願えますか? あの子はどうやってこの国へ入れたのですか?」
「う~ん、それはだなあ、簡単に言うとあの子が落っこちた場所にたまたま昔使われていた転移装置があって、その装置の行く先がここだったってことで……いやはや。世界最強の聖剣の勇者は生まれた時から波乱万丈の運命だのう」
「聖剣の勇者?」
「そう! 今、世界が危機に瀕しているのは君も知っているだろう? そしてその世界を救う為に選ばれた数多くの勇者達。あの子もその中の一人なのだ!!」
「でも、まだ子供ですわ」
「子供だが絶大な力を持っている。他の勇者が束になってかかってもかなわない程の力をな」
「なんですって!?」
「あの子はとにかく特別な存在なのだ。そして全ての勇者の中でもっとも過酷な試練が待っている」
「それなら子供の時くらいしっかりと私達大人が守ってあげないと!」
「……ジェーンさん、これはあの子にとって非常に残酷なことだが、旅の準備ができ次第、すぐにでもここナルディアを出ていってもらう。そして世界各地を周り、それぞれの地域に平和を取り戻してもらうのだ」
「なっ……なんですって!?」
 ジェーンはあまりのことに叫び声をあげた。
「ジェーンさん、あの子はそれくらい特別な存在なんだよ。子供の時から既に大人から守られることも許されない。そんな暇があったら世界救済の旅に出て一人でも多くの人々を救う。それが、神があの子に与えられた『使命』だ」
「そんな……まだ六、七歳ですよ? あんな小さな子に、保護者もつけずに危険な外界へ一人放りだすというのですか! あんまりだわ! 町長さん! あなたも何か言って下さい!」
「そうですなあ……それくらいの年齢だと我が国では義務教育を受ける必要がありますな」
「あの子はナルディア人じゃないからそんなの関係ないっつーの!」
「しかし、お言葉ですがヴォレモス様、外界の国でも王侯貴族なら教育を受けていますよ」
「あの子にはそんなもんいらん! 何せ記憶が――」
「記憶が、何です? ヴォレモス様?」
「おっと口が滑ったぜ。すまんがこれ以上は言えない」
「それでは私があの子の保護者として共に旅立ちます!」
「ジェーンさん、それは駄目だ! 危険過ぎる!!」
「あんな小さな子を一人で旅に出すというのですか! そんなことできるわけがないじゃないですか! 私もあの子の旅に同行します!」
「駄目だ! これは『神』としての命令だ! ジェーンさん、あなたはナルディア人としてここから出ることを禁ずる!」
「ヴォレモス様! ……それではナルディアで誰か手練の者を……」
「それも駄目だ! あくまでもあの子は一人で旅をし、外界の者を仲間に加えて行動するのだ」
「そ、そんな……!」
「安心したまえ。旅先であの子はちゃんとした保護者に恵まれる。謹厳実直、誠実で生真面目な、きちんとした見識のある、良識のある大人が傍についていることになっている。その点は心配するな」
「その言葉、本当でしょうね? 本当に真実を語っているのでしょうね?」
 ジェーンの迫力にヴォレモスはたじたじとなる。
「ほ、本当に大丈夫だ! それに危険な時はあの子の『記憶』がなんとかしてくれるさ!」
「それで、まずはあの子は世界のどこに行くことになっているのです?」
「それはあの子自身に選ばせたまえ」
「あの子の記憶が戻りそうな場所は? あの子が生まれた場所は? ご両親は?」
「ごめんよ。すまないが全部答えられないんだ。ジェーンさん、あなたにできることは旅の準備を整えてやってアレル君を旅立たせることだ」



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