山と旅のつれづれ




巨樹巡礼第六部

主として中部地方で出会った巨樹についての雑文です。
ときとして遠路旅先で出会った巨樹を含みます。

自分の足で観察した上で文章を付け加えています。








  群馬県吾妻郡吾妻町の神代杉

 そもそも、神大杉(一名親子杉とも云う)というはその昔、大和武尊東征のみぎり、お手植えされたと言い伝えられ、以来幾千歳うっそ
うたる神域を近隣に誇りしが寛保二年(1742年)草津への旅人、一夜 をこの大杉の虚にて暖を焚き、その失火により神代杉は半枯れ
の状態になりしとか。その後天明三年(1783年)浅間山噴火による熱泥流は、ふたたびこの神代杉を厄火に包みたり。ときに龍徳寺住
職円 心和尚は、その消失の危機を憂慮し、神代杉を後世に残さんと余燼くすぶる中、己が危険を侵し十メートルの高所より切倒して、
その祈念を果し今の世に往時の面影を残存したるという。

  この神代杉は現 在周囲9.75メートル余りあるが、当時の氏子たち代々に
亘り修復を重ねて、今にその姿を伝えるものなり。また、虚内にある杉は約200年前、何度か植栽に挑みたるがいずれも枯死したた
め、氏子た ち、笹原台地の黒土を馬にて運び混土し、杉苗も長尺ものを切り株より大空に突出して植えるなど、幾多先人の辛苦により
漸くその目的を果し活着したものと言われしが、それより、一名親子杉とも呼ば れ、この、神代杉の名声を天下に広め、今なお誇りを
保ち尊ばれるものである。昭和63年11月
 (現地の解説版より)

 群馬県吾妻郡吾妻町大字矢倉字宮の脇。国道145号線沿いにある。
 何とも奇奇怪怪な樹形で国道に接しているがドライバーからは、近すぎて、それに、異様な樹形が却って樹木としては目立たなくしてし
まっている。
 巨樹のはらわたはほとんどが大きな空洞になっているが、この樹は、上の解説による事故の際には既に空っぽになっていたのだろ
う。
 親木とも言うべき外側は、国道の拡幅工事の際に道路わきに移転している。当然根はない。生きた木ではないので何等問題はない
が、驚嘆すべきはその中に人工的に工夫を重ねて植えられた子木が 移転不能だったのだろう、伐り倒すことによって判明した動かし
がたい樹齢は216年だったという。
 二百数十年も昔にこんな大掛かりな遊び?に興じた村人たちの気心が存在したことにまずは驚く。それに、移転先でもご先祖様の遺
徳を継いで新しい子木を植え育てた現代の村人たちの心意気も感じ られて楽しくなる。

もっとも,現在の子木が既にあまりにも大きいので、植え育てたというよりそこにあった杉の木に二つ割にした親株をかぶせて修復して
あるのかもしれない。
 それにしても、外側のほんの一部分の残存が二百数十年を経てなお木であり続ける保存性の良さには驚嘆する。


神代杉 外側だけの残骸の中に別の杉の木が生きている。
人工的な結果だが、発想が面白い。





 

  白山神社のカツラ

 東海北陸道の白鳥ジャンクションから、僅かな距離で,それでも複雑怪奇に曲がりくねる既存国道よりは、遥かに快適な峠越えの高
速道路を開通区間が短いためか、暫定無料で通過すると、ゴーデンウ イークの初日という季節なのに、路肩は各所が分厚い残雪に覆
われていて東海と北陸を結ぶ地域の雪の多さを見せ付けていた。その先国道158号を九頭竜川の巨大なダム湖に沿って下ると、北
陸の名 峰荒島岳の山裾に開かれた勝原スキー場は、乱立する新規のスキー場に押されてか、営業を終了、つまり、閉鎖していた。

 何年か前、このスキー場のゲレンデを歩いて百名山に数えられる荒島岳の頂に立ったときの達成感と、往復延々八時間の道程に疲
れ果てた記憶が懐かしい。 そのスキー場付近から、霊峰白山の前山、白山三ノ峰のふところに抱かれた鳩ヶ湯鉱泉への道の途中、小
さな白山神社末社境内の沢脇に根を下ろした巨大なカツラは民家のすぐ脇に満身創痍のいで たちで、一株でありながら「林」を形作っ
ていた。

 一体、カツラという木は同じ根株から無数に発生する生長点が競い合って天を目指すという、他の樹種にはほとんど見られない特異
な樹形を形成する。数本や10数本の株立ちなら、潅木では珍しくない と思うが、巨大な株立ちはカツラの特徴のようだ。
 もうひとつの特徴は、今まで見てきた桂の木は決まって深い山の水の発生源である沢沿いにあることだ。
 絶えず流れを持つ地中の水脈に根を張ることがこの木の長寿の条件なのだろう。


白山神社のカツラ。まるで巨大な老婆の髪の毛。
五月の初旬、雪の残る山深いこの地は、未だ冬枯れり佇まいだ。
何時か新緑に包まれた老樹にお目にかかりたいものだ。






  

  天女の衣掛ヤナギ(滋賀県余呉町)

 滋賀県北部余呉町、大きな琵琶湖の北、柴田勝家と羽柴秀吉が対峙した古戦場「賤ヶ岳」の山域を挟んで三方をなだらかな山に囲ま
れて鏡のように佇む周囲7キロの小さな湖「余呉湖」。
 北側のJR北陸本線を「特急しらさぎ」が線路の継ぎ目をたたく音を軽やかに奏でながら通過する風景との組み合わせは、新幹線や
高速道路を見慣れた眼には、のどかな山村風景のやさしさに溢れてい て心地よい。

 そんな湖の周回道路を歩いて2時間、心地よい疲れを癒そうと立ち寄った広場の脇で、巨樹巡りを何時も意識している私を知ってか
知らずか迎えてくれたのがこのヤナギの木だ。
 天女が美しい湖のたもとに降臨して、このヤナギの木の枝に羽衣をかけ、水浴中俗人に見つかり羽衣を盗まれてしまったという。羽
衣がなくては天に帰ることができず、仕方なくその男と夫婦になり、子 供を儲けた。その男の子が都びとの養子となり、京の都で成人し
たのが後の菅原道真だという。

 伝説はほとんどが奇想天外で、うそっぽいところが丸出しでほんとに楽しい。
 事実や史実とは明らかに違う言い伝えは誤解の恐れが全く無い。それがいい。
 樹齢千年。巨樹といっても、ヤナギはヤナギだ。巨大な幹にはならない。
 ただ、ヤナギといえば、枝垂れヤナギ、雲龍ヤナギ、ネコヤナギ、ケショウヤナギなど、しなやかな、或いは、なよなよとしたイメージが
先にたつが、このヤナギはそれらのヤナギとは印象が程遠く、ごつご つとした、松ノ木の木肌にも似て、葉っぱの形もいわゆるヤナギ
葉ではなく、丸い形に近い。

木肌も葉も枝ぶりもおよそヤナギらしくないが、中国系のヤナギという現地の解説には従わざるを得ない。不思議なヤナギではある。
 羽衣伝説は静岡県の三保の松原、羽衣の松が知られているが、似たような伝説が各地にあるのでしょう。ヤナギより老松の風情に満
ちた枝の一角でそよ風になびく羽衣の方が似合うと思うけれど。
 それにしても、この木はほんとにヤナギなのか、もう一度調べて確かめたい気持ちだ。


天女の衣掛ヤナギ。風に揺れるヤナギの風情とは程遠い大木。
伝説とは言え色っぽいイメージの羽衣との組み合わせは不似合いだ。
やっぱり、この場合は松の木のほうがお似合いだとおもう。
しかし、ヤナギとしては巨樹中の巨樹。他には見たことが無い。








 菅山寺のケヤキ(滋賀県余呉町)

 滋賀県余呉町。菅山寺と近江天満宮の参道は静かな住宅地の一角に建つ鳥居をくぐると、幾つかの無住の付随する建物を観賞し
つつ一時間以上、曲がりくねった山道と言うより登山道を徒歩で登り下り して辿った深い森の中にある。
近江天満宮のことは調べていないので分からないが、隣接する菅山寺は前身を含めれば千数百年に及ぶ古刹であることが現地の解
説版で理解できる。
 現存する本堂なども、1692年建立というので、三百年以上の風雪に耐えているが、荒れ果てて、正面は右に最億部は左側に傾き、
屋根の一部が朽ち果てている。その痛々しさが見るものに迫ってく る。

この山奥に機械力の無かった時代の壮大な建造物が3院49坊も存在していたという。そのほとんど最後とも言うべき歴史の証人とし
ての本堂が今や見捨てられ朽ち果てようとしている。
その寺院の粗末な山門の両側に、ここで育てられ、京の都で成人したと伝えられる「菅原道真」が右大臣になったとき、菅山寺の中興
にあたられ植えられたと伝えられる二本のケヤキが朽ち果てかけた 山門をかばうように成長している。まるで仁王像のように左右の二
本とも、どっしりとその根が大地を踏まえている。

 惜しむらくは、その内一本の地上部が寿命を迎えているようで建物同様に痛々しさが伝わってくるのがさみしい限りだ。多くの巨樹た
ちが、樹木医や地域の人々によって保護、延命治療が施されている現 在、この天然記念物は治療の痕が見られないのも、朽ち果てつ
つある寺院の建物とも相まって、何とかならないものかと、歯がゆくなる。

 さいわい、他の一本は現在も堂々と枝を広げていて偉容を誇っている。やがて、無住の寺は朽ちるに任せ一本残った大ケヤキは「菅
山寺跡の大ケヤキ」として時おり訪れるであろう自然や巨樹大木探勝 マニアの間で、書き継がれ語り継がれながら深い山の中でひっ
そりと生き続けることだろう。
 菅原道真の伝説については、上の「天女の衣掛ヤナギ」も参照してください。

菅山寺のケヤキ。巨大な仁王像を思わせる堂々たる樹幹。
中央の山門は手で押しただけで揺れ動くほど朽ち果てが進んでいる。
本堂とともに近い将来に消滅の運命を担っている。







 高知県大豊町、杉の大杉

 四国高知自動車道、大豊町インターチェンジから数キロ、車での探訪に非常に便利な環境に位置している。近辺には大杉小、中学
校。鉄道の大杉駅。道の駅大杉など、大杉を強調した地名、施設名が多く、見過ごすことはまずなさそうな雰囲気だ。
 ほんとうにでかい。地元で強調している「日本一」か、どうかはさておいて、屋久島の縄文杉に匹敵するのではないかと思われるほど
に巨大だ。

樹高も高く、変化に富んだ生き生きとした樹幹と勢いに満ちた枝葉に圧倒される。小さな神社に守られて、というか神社が包み込まれる
ように守られていると云ったほうが当たっている。
 名称も「杉の大杉」というのがまた変っている。一回り小ぶりな、といっても充分に巨大なもう一本の杉と並立していて、多分地中の巨
大な根株は一体化しているとおもわれる。
 付近には、美空ひばりがこの大杉に歌手として大成することを誓ったという顕彰碑があり、大きな枝葉をめでながらのんびりするのも
いい雰囲気だ。

 実は、この大杉を観たくてはるばる400キロをドライブして、3泊4日の旅をしてしまった。一人旅は淋しいので、かみさんを良い意味
で騙してつれてきた。巨樹を観に・・などと云えば苦笑されることが解り切っているので、四国4日間の旅ということにすれば「次いでの目
的」でごまかせる。涙ぐましい小細工を大真面目で計画してきた自分がイジラシイのです。


杉の大杉。アクセスが容易な位置にあるが、株元はしっかりと保護されているのが楽しい。
右は、左後方の人影との対比で巨大さが分かる。入り組んだ樹幹の形状に圧倒される。









   徳島県、加茂の大楠

 JR四国土讃線、阿波加茂駅に近く、市街地や住宅地と田畑が混在するのどかな雰囲気のなかに、専用の駐車場を従えて聳えてい
る。
  「 一樹、森をなす三加茂の大楠」と詠まれている本樹は、クスノキしては典型的な繁茂を遂げ、傘の開けるが如く壮大な樹幹でよく整っ
た樹容を誇り、まさに日本一である。
大正15年内務省告示第五十八号をもって「クス」の代表的巨樹として天然記念物に指定され、昭和34年、文化財保護法により国の天
然記念物に指定された。
 樹齢は千年と推定され、根回り20メートル、目通し周囲13メートル、枝張り東西46メートル、南北40メートル,樹高25メートル。
昭和40年以降、様々な保護対策が施され、現在も旺盛な樹勢である。
   (現地の解説版より)

 「杉の大杉」と同じ、四国の旅でのもうひとつの収穫であり、巨樹をめでることと、その証明を持ち帰ることは私にとって何よりも勝る旅
の土産である。九州から伊豆半島にかけての太平洋側の平地や丘陵地に多いクスノキは成長が早く、巨樹も多いが若い大木も公園な
どに非常に多く見られる。若い大木たちが、すらりとした樹形で枝葉を広げているのに対して、数百年或いは千年以上を生き抜いた巨
樹たちは、その割には樹高が抑えられ、枝葉は横へ樹幹は下膨れや太鼓腹になってまことに個性的に成長する、或いは老成するとい
ったほうがいいかも知れない。

 同じ樹種でありながら一本一本が極めて個性的なところがクスノキの最大の魅力だとおもう。大きさもさることながら、どんなかたちで
目の前に現れてくれるか、というところにクスノキの巨樹観察の魅力がある。
 解説版の「日本一」か、どうかについては、個性に富んだクスノキの樹種の特徴からして分かり難いが、私の知りえた限りでは、従来、
最大樹とされていた九州の「蒲生の大クス」に対して愛知県の「清田の大クス」が計測の結果最大とされたことを地方の新聞記事で知り
えた。
しかし、実際に目の当たりにしてみれば、それはみんな最大樹であり、どれも神がかり的で、まさに「巨樹巡礼」なのです。


加茂の大楠。よくぞここまで正座?していられたものだと驚嘆する樹形だ。
巨樹につきものの痛々しさがまったく見られない、見事な逞しさが多くの巨樹ファンの
記憶の中に刻み込まれていることだろう。
上の写真は側方に、下は前方に人を配したことで巨大さを強調したつもりです。








  下呂市小坂町落合の大トチ

 平成の大合併以前は確か飛騨小坂町だった。現在は下呂市小坂町落合。
人口の少ない山村集落が大合併でだだっ広い自治体に統合されて、間もないこともあって、市町村の概念がつかみにくくてまことに探
しにくくなった。
行けども行けども山と渓流、時おり現れる程度の民家集落、猿やイノシシなど野生動物避けの電流を通した柵、クマ出没の警告板。そ
れらと何々村ではなく、都市をイメージする「何々市」の案内板が多分曲がりなりにも都会人といえるかもしれない私には奇異に感じる。

 国道41号線、下呂温泉街を北上してまもなく分岐する地方道は深山幽谷に抱かれたひなびた温泉「濁河温泉」に通じる渓流沿いの快
適なコースをたどる。
夏のシーズンを終わって静まり返ったキャンプ場のある落合集落は、巨樹の所在を尋ねる人影も見当たらず、何軒かの玄関チャイム
を押したあと応対してくれた初老の男性に親切に導かれて恐縮していたら、遠くから良く来てくださった・・と逆に深々と頭を下げてお礼
をいわれてしまった。

  人口密度が希薄な地域は人恋しくなるのか、むかしもいまも、村人はほんとうに親切だ。
トチの木はトチ餅やトチの実せんべいなど、山村の土産物などでお馴染みのクリに似た実がころがっていることで、その存在が分かる
ことを渓流釣りにはまっていたころに経験している。しかし、これまでのところ大木に出会った経験がない。クスノキやケヤキのように巨
大なトチの木を期待したが、大きさに関する限り巨樹と言えるほどの巨樹ではない。

 しかし、異様に節くれだった樹幹は上の方にまで及
んでいて、ちょつと他の樹種には見られない、おぞましいほどの風雪に耐えた木肌は立派な巨樹の風貌をたたえている。
惜しむらくは、この巨樹の存在を示す案内板が路上には全くないということだ。天然記念物だが、個人の所有物だからかもしれない
が。


下呂市小坂町落合の大トチの木。
巨大ではないが、おそろしく節くれだった樹幹に圧倒される。周辺が笹薮に覆われていて
容易に近づけないせいもあるが、カメラ振れの失敗作です。機会があれば
出直して取り直したいとおもっている。







  下呂市小坂町大洞のクリ

 上述の「落合の大トチ」とほぼ同じ地域にある。
 落合集落の手前から右折して、数軒の小規模な旅館が寄り添う「湯屋温泉」を通過すると、左折して橋を渡り数百メートル。この巨樹
も案内板が無いので、野良仕事の村人や民家を訪ね歩くより方法が無い。実は道路のすぐ下にあるのだが、見渡して目に入るといっ
た期待は持たない方がいい。集落の人に尋ねれば間違いなく教えてもらえることだろう。この巨樹も上述の大トチと同じ個人の所有物
だ。
 クリという木はクリ畑、クリ園、クリ拾いと連想してみても、揺さぶればボタボタと落ちてくる、あの栗の実であり、大木のイメージはな
い。
 もっとも、むかし、線路の枕木はすべて栗の木の角材を使っていたことを思えば大木になり得る木なのだろうと思わざるを得ない。本
来は大径木になる山栗の木は枕木材として伐りつくしてしまったのかも知れない。
 硬く、腐りにくく、水に強い栗の木の枕木はコンクリートに代わられたあと、古材がその古さがもてはやされて、園芸資材や住宅のエク
ステリアとして高値で取引されているという。栗の木或いは栗の木に似た性質の新しい角材をわざわざ人工的に風化着色させた偽装古
材まで売られているくらいだ。

 いまでは極めて希少だとおもわれるこの山栗の巨樹はほんとうにデカイ。
 これなら立派な枕木がとれる・・と思うと同時に枕木に変身してきた栗の大木たちの受難の時代をおもった。


下呂市小坂町大洞のクリ。わたしの頭の中ではクリの木のイメージが覆る巨大な樹幹だ。
右はこの木の裏側。何人もの人が入れるほどのウロがあり、木の生命力の凄さを物語っている。

収録終了。「巨樹巡礼の目次」から第七部へお進みください。