山と旅のつれづれ



巨樹巡礼第一部

主として中部地方で出会った巨樹についての雑文です。
自分の足で観賞した上で文章を付け加えています。
収録データを競うものではありません。あくまで気楽な雑文集です。


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12編、収録終了。第二部へお進みください。







   石徹白の大杉

白っぽい樹肌は表皮(杉皮)が削げ落ち乾燥していて生命を終えている。
部分的に生きていて根と枝葉の間をやりとりしている。
朽ちた部分と乾燥してしまった部分を丹念に取り除いていったら
数本の、文字通りの分身による杉の木立が出現するのではないかと

そんな、突拍子もない空想をしながら缶ビールの蓋を慎重に開けた。
なにせ、標高の高い所は気圧が低いせいで、不用意に乱暴に開けると、
大事な大事なおビールが意に反して「ビールかけ」になってしまう。
グイーっとやるために持ってきたのだからそんなもったいないことは出来ん。
何で、こんなこと書くのだろ。

  巨樹を尋ね、その自然の営みの感動に浸る小さな旅の記録です。

 岐阜県白鳥町石徹白地区。内陸部の隔離されたような、小さな盆地だ。九頭竜川の有力な支流、石徹白川に沿っ て上流へ曲がりくね
った狭い道路を対向車に細心の注意を払いながら北上した先。また、もう一方からは白鳥町国 道156号線を分けて、これまたつづら折
の長い峠道を辿った先に静かに佇む集落、石徹白(いとしろ)。畑地と温室 群の中に民家が点在する、典型的な高冷地野菜生産農地
の風景が、田舎好きだが無責任な旅人の私には理想的 な生活環境に思える。

 そんな集落のさらに奥まった位置に、杉の大木群に囲まれてひっそりと佇む神社、白山中居神社。数ある白山神 社の中核として、人
里から離れた場所にありながら、落ち着いた風情で歴史を刻んでいる。神社を訪れるとき、いつ も、感じることだが、神社と大きな杉の
木立の取り合わせは、本当によく似合う。

 信仰心を持たないと信じている私でも、神社やお寺の境内にたたずむとき、そこに、何ともいえない落ち着いた気 持ちになっている自
分に気がつく。このことは、意識の中では無信仰であっても、日本人の精神に連綿と受け継いで きたゆるやかで大らかな一種の信仰
心とでも云えるような、そんな心が生きているからではないかと考えてみたりし ている。

  さて、紅葉の美しい境内を一巡の後、更に渓谷を車で辿ること数キロ、広くはないが整備の行き届いた駐車場に車 を休めると、そこ
は、霊峰白山の登山口だ。白山の主峰「御前が峰」までは、前山をいくつも越えなければならず、 日帰りではとても往復できそうにない
ほど遠い遠い登山道だが、文字通り白山信仰の本山に導く究極の道であり、 多くの信仰登山や趣味スポーツの山歩きに利用されてい
るのか、踏み跡はしっかりしており、何時でも誰でも利用で きる無人の非難小屋が登山の途中の基地として開放されている。

 駐車場から、いきなり急な石段を数十段、息をきらせてたどりついた登山道脇の小さな台地状の広場に、本州では 最大といわれる巨
杉「石徹白の大杉」が、まことに痛々しいご老体で迎えてくれていた。生命力に満ち満ちた巨樹に 出会うとその日そこまでの行動がさわ
やかなひかりに包まれる満ち足りた気持ちに浸るが、悠久の歴史を刻んだ満 身創痍の壮絶な巨体に接するとき、私は限りなく神々しさ
に包まれているような気持ちになる。

 精神論はさておき、巨樹の殆どが樹幹に大きなうろ(空洞)を持っているが、この樹は夏みかんの皮ほどの外側部 分しか生きておら
ず、それも、所どころに繊維に沿った縦の腐食部分があり、はらわたを覗くことさえできるほど疲弊 している。
植物のなかでも特に大木は、芯の大部分が朽ち果ててしまっても、外側が生きていれば根と茎葉とのやりとりは可 能で生命を維持し
ている。しかし、この大杉のように、ここまで「部分死」が進むと樹齢千八百年という表示が空し い。現在生きている部分はせいぜい数
百年をさかのぼる程度のものだろう。

 立ち木の生長は外側へ外側へと一年に一輪づつ新たな衣をまとっていく、そうしながら、この、生命の発生した最 初の部分からは、新
たに纏った外側部分よりも早い速度で朽ち果て、失われてきている。だから、1800年を生き抜 いたという人間たちの考え方は正しくな
いような気がする。

 素人の私のいい加減な解釈だが、幹周りが十数メートルにもなる巨樹たちは、その巨体をまるごと維持するより は、不要になり、重荷
になってしまった部分を朽ち果てさせ、切り捨てることでむしろ、生命維持を図っているのでは ないかと思えてならない。それが自然の
摂理というものなのだろう。 この樹は外側も随所に枯死してしまった部分が あり,その部位は白く乾燥していて、見るからに痛々しい風
情だが、悠久の年月を生き続けたその残骸は形として は、おいそれと大地に還って消えうせることなく、巨木の存在を主張している。 
 そんな佇まいが、いやが上にも神々し さをにじませている。









二つ森山の大楢の樹

山中にほとんど人知れず堂々とたたずむ
生き生きとしたその木肌は象の皮膚を連想する。


 岐阜県福岡町、白川町、蛭川村の境界付近。
 標高約1200メートルの二つ森山。なだらかな裾野がなびくようにのびやかに広がる東美濃の 山々のひとつ。
 その一角にそびえるこの山の山頂に近い斜面に雑木に囲まれながらひっそりとその巨体を隠す ように生き続けている。
 巨樹はその多くがいわゆるご神木化されており、周辺は何となく或いは明らかに神域の雰囲気に なっているところが多い中で、この
楢の樹は人間にほとんど無視されているように私は思う。

 私がこの巨樹の存在を知ったのも、事前に情報を得て探し求めた訳ではなく、二つ森山の登山 中に発見している。
 一応、天然記念物にはなっているがほとんど目立った保護などはされていない様子だ。
 ただ、いわゆる周辺開発がされていない分、生息条件も荒らされていないと思われる。

 楢の樹は普通は細い「雑木」と言われるものが多いと私は感じているがこの樹は凄い。
 大きいだけではなく、勢いに満ち満ちていて枯死していると思われる部分がまったく見られない、 ふてぶてしいほど生命力に溢れてい
る。

 こんなに奥まったところに、そおっとおいて置く?のはもったいないほどだ。
 登山者以外に一般にほとんど知られない、価値ある秘密の場所が時にはあってもいいかも。
 登山中にこの樹をみつけたとき、カメラを持っていなくて後悔した。

 後日、改めて「大楢さん」をカメラに収める目的で車で出発した。そして、しばらくしてはたと気がつ いた。
クルマにカメラを積んでいないではないか、これでは一人漫才だ、カメラマニアとは言えない私は こんな失敗をよくやる。
これからはカメラ連れで歩こう。 なに、時間はあるのだ、何度でも出直してやる。








大阪府豊能郡能勢町、野間の大けやき

道路に近い集落の中、強烈な迫力で迫ってくる。
この日2003年11月17日、周囲の山々は山頂部はともかく裾野はようやく紅葉が
始まったばかりだというのにこの大けやきはたった一枚の葉っぱも見られない。
枯死寸前の雰囲気だ。落葉樹なので冬はこの状態が普通だが健康であれば
この季節、まだ枝葉は名残の賑わいが見られる筈だ。
数年先の奇跡の回復を期待したい。


 長男の住宅新築予定地の地鎮祭に立ち会うことになって兵庫県の内陸部まで出かけることにな った。
 おまじない儀式だし、いちいち出かけるほどのことではないと思うが、よくよく考えてみれば住宅を 建てるなど人生の一大行事だ。そ
れに、おまじないとは言ってもやるかやらないかを考えるならや っておいたほうが無難だろう。

 20年ほど前に、我が家の仕事場の改築工事のとき、工事関係者が重い木工機械の電源を抜き 忘れたまま移動中に誤って足の一部
がスイッチを押し、動いたプーリーに親指を切断されてしまっ た事故の記憶がよみがえった。
大地の神様の怒りを誘ったとして、大慌てで改築のための地鎮祭を執り行うことになってしまっ た。
 幸い、親指の関節が残っていて日常生活上の機能は不自由ながらも維持しているとのことだ が、こういうことがあるとおまじないでも
無視できない気持ちになる。

 さて、その帰り道、すっ飛んで帰ってくるのももったいないと、一泊しながら立ち寄ったのが能勢 の町。
 兵庫県、大阪府、京都府の接点。この地方は低くも高くもない数百メートルの山々がひしめいてい て生活道路を極端に迂回させてい
て地理不案内な旅人を悩ませる。道を一本間違えると気がつ けば山の反対側にいる、幸い古いカーナビでも何とか役に立ってはいる
が。
 その道すがら、「能勢町野間の大けや木」に突然出会った。
 この巨樹の存在は何となく知りえてはいたが、目の前に現れたそのあまりの巨体に言葉を失って しまった。
 ただ、惜しむらくは生命をほとんど終えているのではないかと思われることだ。
 樹齢1000年余りというが、樹勢が衰えていて大掛かりな回復治療中であり、往時の勢いを取り戻 しつつある・・との説明版にかえって
空しさが漂っている。







 瀬戸内、大三島、大山祇神社の楠木


大きくみずみずしいほどに広げた枝葉とは裏腹に満身創痍の樹幹。
株元の保護が全くなされず無慈悲に踏み固められている。
神様早く気がついて下さい。私には楠木の悲鳴が聞こえます。


 大久野島旅行の途中に立ち寄った神社で見つけた巨樹。
 西瀬戸自動車道「しまなみ海道」の島々のひとつ、大三島にある大山祇神社の境内にある「楠」。
この巨樹もやはり痛々しい限りだ。
 複雑に開いたウロは樹脂で埋めるなどの治療はほとんどなされていない。それでも常緑の葉は 意外なほど元気に展開している。そ
のミスマッチがかえって見るものの心を打つ。

 ただ、私は神社など多くの人々が集まる境内でご神木と崇められながら観光客や参拝客に足元 を踏みつけられている現状を何とか
ならないものかとはがゆい思いをしている。
 植物は一般に枝葉の広がりと同じくらいに地中に根を広げていると言われているので、その範 囲は保護してやるべきなのだ。ところ
が神社の巨樹たちは、その多くがそうした保護がなされてい ない。

 それほど広くもないこの島だが神社の背後は自然林に覆われていて、楠木の大木を何本か見る ことができる。
 暖地性の照葉樹で潮風に強い、或いは適してしるのかも知れない。








中山道大湫宿,神明神社の大杉

大杉にへばり付くように建てられた社殿。
根元まで石垣が迫り、樹が生き物であることを忘れられている。


 岐阜県瑞浪市、旧街道、中仙道の宿場「大湫宿」。
 この宿場町は奈良井、妻籠、馬籠などの観光地として復元され賑わっている地域とは異なり、現 在に残っているものをそおっと大事
に保存している感じだ、現代観光地的な「宿場」としての賑わ いはないが昔日の面影はかえって深く察しられるような気がする。
 そんな旧街道沿いの小さな小さな神社「神明神社」の大きな大きな杉の木。

 私は、神社の境内にある巨木を目のあたりにするとき、ほとんど例外なく思うのだがここでも根元 は痛めつけられている。
特に、ここの神社は1300年と推定される杉の巨樹の「ご利益」?にあやかって寄り添うように建て られた感じがする、神社の歴史が数
百年としてもそのころ既に大木であったであろうことは容易に 想像できる。おまけに参拝客がこの樹に触ることでご利益ありと受け取れ
る添え書きまで存在し ている。

 生き物に対する思いやりがちぐはぐになっていることに早く気がついてほしいものだ。
神社の重い石の柵が何とこの大杉を左右から挟みこむように設置されている。
石の柵の土台を根株が支えているかっこうだ。

 私に言わせれば狂気の沙汰だ、自然保護意識の高まりの中で誕生した「樹木医」制度、その樹 木医によれば桜の季節、花の下で宴
会などもっての外とはき捨てる人もいるくらいだ。
この付近は旧街道中仙道の石畳が続く峠道が戦後になって発見されたという。

 皇女和宮降嫁の折、嘆きの心境を詠んだという「うた」が峠に設置されているが、都への惜別を思 うには、何とも味気ない峠だ。
 遥かかなたを望見するというより、目の前の集落が見渡せる程度の丘のようなものだ。しかし、そ んな旧街道でも手入れをしなけれ
ば《発見》につながるほど草深く埋もれてしまうということか。


中仙道の琵琶峠、雑草に覆われ戦後まで埋もれていたという昔日のままの石畳。
皇女和宮の歌碑、「住馴れし都路出でてけふいくひ いそぐもつらき東路のたび」
左は奥の田一里塚。こんな素朴な一里塚が大杉のある神社の前後に
一里おきに少なくとも三箇所現存している。








  稲武町の子持ち桂


 意外に知られていないが愛知県と長野県は県境を接している。 その県境の緑あふれる山里、愛知県北設楽郡稲武町大野瀬。
 ドライブ中に「子持ち桂」の小さく目立たない案内板が目にとまった。
 私は目立たない案内板でも植物に関するものであれば目ざとく注目する能力?を多分備えてい る、時として何でもない所でそれを見
つけて急ブレーキをかけて隣のかみさんをびっくりさせること がある。

 さて、その「子持ち桂」少々足場のあぶない沢すじを数百メートル分け入った急斜面にあった、。ひっそりと本当にひっそりと、その余り
にも特異な姿態に驚愕していた。
 子持ち・・・と言うので樹が人間の親子を連想するような姿形をしているのかと想像しがちだが、そ うではない。
 主幹の最大計は二メートルに近いというが、その親木はすでに完全に枯死していて殆ど形を留め ていないが根株が健在でその根元
から次々と『子』を発生させその数50本に達していると言う、 全部まとめて巨大な株立ちになっていて直径は5、6メールを超えると思わ
れる。

 私はこのシリーズの最初のページ「石徹白の杉」の中で木の朽ち果てた部分を丹念に取り除い ていったら数本の杉の文字通りの分
身の森が出現するのではないかと、突拍子もないことを連想 していたと書いたが、その突拍子もないことが目の前で現実に起きている
と思った。
 これほどの数の、子株が仲良く整然と天にむかって生育するのは珍しいことだと思うが、カツラの大木の特徴かもしれない。

 樹高40メートルにも達して文字通り、たった一株で森を作っている。
 落葉樹なのでこの季節(2004年1月)は冬枯れの状態だが、若葉の季節には躍動する生命力にお 目にかかりたいと思っている。
木材として材質が均質で彫刻などに利用される価値のある木であることも書き添えておこう。


宇宙の何処かからやってきたスーパー巨人が星くずを履き集めるために使った
巨大な竹箒をここに逆さにして突き刺したのだ !!そうだそうだ、きっとそうだ。
そんな伝説が書き添えてあったとしても、思わずうなずいてしまいそうな
自然の造形美です。







沖縄県久米島、宇根の大ソテツ

株でこのボリューム、株元はサボテンのような小枝がびっしりと発生している。
ソテツは本州にも見られるが冬の季節は寒さから保護するために、
葉を切り落とし、しっかりとこも巻きにするが沖縄では年中生き生きしている。

 沖縄本島から西へおよそ100キロ、大きな戦災にも会わなかったのどかな島「久米島」。喜久村 さんという個人の屋敷の中に守られて
息づく樹齢二百数十年のソテツ。南西諸島はソテツは何処 にでもあるがその多くは二メートル程度の潅木だ。そんな中で六メートルは
れっきとした巨樹と言 える。
 長さ四センチほどの丸く大きな朱色の種を放射状の茎葉の中心部にまるで皿に盛り付けたよう に出来る。有毒であり飢饉のとき毒
抜きをして食料にしたという、しかし、毒抜きが不完全で死に 至る悲劇もあったという。現在では食用にすることは無い。

十数年前だか韓国ソウルオリンピックのとき、競技場周辺の街路を飾る樹木として大量に輸出さ れ、一部地域では激減したという新聞
記事を記憶している。
 株ごとの輸出では植物検疫を通過するのに何十日もの時間がかかるため、根を切り落として出 荷したという。
根株が無くてもオリンピック期間中は景観保持に役立つというのか、或いは地面に挿しておけば 発根するほど生命力が強いのか、私
には分からないが島の風物をそんな形で失ってきたことに、 やりきれない思いがする。








                                       沖縄県久米島、五枝の松
 
 沖縄本島から西へおよそ百キロ、久米島の中央部。
 リュウキュウ松の古木、巨大な盆栽だ、もっとも盆栽というのは自然界の植物が永年の風雪に耐 えて生き抜き形作られた芸術品の
ような姿かたちを小さな植木鉢の中に再現しようと言う発想が 基本にあるのだから、自然界の古木が盆栽のようだというのは正しくな
いとは思うが、それにして も本当に見事な枝ぶりに感嘆する。

 戦後、米占領軍が戦火で荒れた島の緑を復活させようと、アメリカから持ってきた松の木か種を 蒔いたと数年前に沖縄を旅行中タク
シーのドライバーから聞いたことがある。やがて成長したアメ リカを故郷に持つ松たちはその多くが台風になぎ倒され多くは残っていな
いという。根の張りが浅 く土地の風土に合わないのだろう。島育ちのリュウキュウ松は一定の高さに達してからは横へ枝 を広げていて
明らかに本土の赤松や黒松とは異なる姿かたちをしている・・と思う。


{久松の五枝の松は下枝を枕にしているが、愛しい彼女は私の腕を枕にして寝るのである}
と言う意味なのだそうです。
本土との経済格差、所得格差に苦しむ沖縄だが厳しい冬のない
気候風土の中で人々の生活はのんびりしていたのだろう。
男女間のこんな、なまめかしい大らかな表現が詩歌の中によく眼につく。







月瀬の大杉



 長野県下伊那郡根羽村月瀬、此処も「子持ち桂」とほとんど同地域だが、県境を挟んで愛知県 ではなく長野県の最南部に位置してい
る。 調査によって長野県内で最大樹とされている。

 樹齢1800年、昭和11年に天然記念物に指定されたときの推定樹齢といわれている。およそ巨 木というのは正確な樹齢は測定しよう
がないとしてもそれに近い数十年単位の樹齢を考察すると き、専門家はどんな基準のもとに測定或いは推定しているのか知りたい気
がする。屋久島の縄文 杉にしても7200年と途方もない長寿と言われていたものが最近では2200年で合体木ではないか といわれるよう
になっている。

 生命を終えた木は朽ち果てていても科学的に測定することで、信じられないほど正確な樹齢を 確定できると言うが、なにせ生きた木
は解剖するわけには行かないので推定しかしょうがないだ ろうと思う。
 この樹は合体木という表示は見られないが、見た所私は合体木であろうと思えてならない。

 並んで成長した樹がやがてお互いを包み込むように合体して一本の木になって成長する、同種の 木ならありうることなのでそんな気
がする。
 1844年江戸城焼失の折、復興用材として伐採されそうになったという。また明治41年「1908年」 村内の神社統合の際、売却決議がな
され伐採の危機に晒された事があるというが地元の熱意に よって保護され現在に至っている。

 神社統合の前歴があったのであれば、ここには神社は無いはずだが小さな神社は存在してい る。統合しても何らかの形で残してお
きたいと願う地元住民の民意というか熱意を感じる。
 植物学的には大した保護もされていないが、幸いにもこの巨樹は痛々しさをあまり感じさせること もなく、堂々と聳え立っている。
 目通り「地上から1.5メートル」の胴回り14メートル。
 屋久島の巨樹と比較してもひけをとらない。


この堂々たる風格。白く光って見えるが写し方に問題があるのだろう。
実際の木肌は巨樹らしからず生き生きとしている。
右側に斜めに伸びた部分はしだいに抱きこまれていった別の樹だろう。
本州や四国などの巨樹は湿潤な屋久島のそれと違って樹上に
着生樹が非常に少ない。







清 田 の 大 楠
 

  蒲郡市郊外、蒲郡北部小学校の北にある。
  でかい、本当にあきれるほど大きい。その上生き生きとしている。
 これほどの巨樹になると死滅した部分が非常に多く目立つのが普通なのに、それに朽ち果てた 部分や、時には満身創痍とも言える
樹幹がかえって巨樹の存在感を強調していると言っても言い すぎではないと思う。
 ところが、この楠木はおそろしく樹勢が旺盛なのだ。

 成長が早く寿命も長くて巨樹になる樹が多いことで知られるこの樹種は全国レベルで環境庁の機 関がランク付けをしているらしく、長
年、九州の「蒲生の大楠」を日本一としてきていた。ところが二 三年前の調査によって蒲生の大楠をしのぐ最大樹であることが裏付け
られている。

 しかし、植物というのは工業製品と違ってすがたかたちは千差万別だ。一般に「根回り」と「目通 し」で表示されているが断面が丸いか
長いかによっても視覚に訴える感覚は大きく違ってくる。私 は数字の上での大きさは巨樹に関しては余り意味がないと思っている。大
きいものはおおきいの だ。

そこには、私の個人的な感覚かも知れないが、神の存在のような荘厳な雰囲気が漂っていること が何とも言えない魅力だと思ってい
る。 くすのきが各地に残っていることは私は理由があると思っている。昔、防虫剤「樟脳」はこの樹か ら抽出していた。あの特有の刺激
臭が建築材としては嫌われていたと思われる。そんな訳で一部 の仏像などの彫刻材として使っていたらしいことを文献に見ている。そん
な解釈は私の偏見かも 知れないが。

 この、清田の大楠は愛知県蒲郡市郊外でミカンのブランド蒲郡みかんの温室がところ狭しと建ち 並ぶ集落の中に、農家の納屋に囲
まれるように、まるで隠し物のような扱いを受けている。
 昔、農家の庭先に二本の柿木が夏の強烈な日差しを遮る役目を担って育てられていた。あの風 景に似ている。それが伐ればおそら
く畳10枚は敷き詰められるほどの巨大さだ。

常緑樹で大きく広げた枝葉は風にあおられ、この季節は寒々しさを強調しているようだが、やが て来る若葉の季節になればさわやか
な葉擦れの音を奏でることだろう。








 日吉神社境内のクスノキ(楠)

樹齢500年と言われていて、元気に見えるが既に樹幹には大きな空洞を開けている。
巨樹は殆ど例外はないほどにウロがあるが外観上見えるか見えないかで
印象が違ってくる。この空洞は巨樹としてはまだ若いだけに大山祇神社のクスノキ
と比較すれば若々しい?・・と思う。

 まさに、灯台元暗し。私の住所地愛知県小牧市郊外、日吉神社の境内にある。
ものごころ付いてから五十数年にもなると言うのに、しかも故郷を遠く離れて暮らした経験もない のに、確かに何度か住み替えは経験
したものの、一貫してこの地域に生活していながらこの楠木 の存在については、まったく気がつかなかった。

 興味のある事柄については、誰しも自然に不思議なほど情報を入手しているはずなのに、しか も、巨樹、大樹ともなればいやでも物
理的に目に付く大きな存在なのに、この大樹がわが町「小 牧」で悠然と枝葉を広げていながら私は半世紀もの年月に渡ってお目にか
かることがなかった。
 思うに、人は遠くばかりを見ている、遠くへ行くほど旅をした気分になる。

 これを機会に巨樹に限らず距離的に近い地域への旅を見直してみたいと思う。
 楠木は関東以西の太平洋側の地域に広く分布しているが、このクスノキは樹齢が約500年と言わ れていて各地に存在している同種の
巨樹と比較すれば若い。
 広葉樹のクスノキはまっすぐ成長する針葉樹と違って枝を四方に大きく広げる、広葉樹の大木を 比較していて気がつくことがある。
 500年も1500年樹も高さ、枝の張りはそれほど差がない、決定 的な違いは主幹の横張りだ。

 これほどの巨体を地球の引力に逆らって上へ上へとは行かないのだろう。
それで横太りの太鼓腹になる、そしてその現象こそが見るものにとって魅力なのだ。でも、この巨 樹はすらりとした姿態が美しい。








杉 本 貞 観 杉 (神明杉)

大きくふんばった株元は明らかに別の木を抱き込みつつある。
杉の合体樹は時折見かけるが、不思議なほど仲良く共存している。
右は反対側の巨大な空洞。別の杉皮を貼り付けて保護している。
空洞の内側にもやがて表皮(杉皮)が形成され成長を続けていることがあり、不思議な年輪が
形成される。扇状に切ったバームクーヘンの外側に饅頭の皮のように新たな
年輪が出来ていて驚嘆したことを、別のところで伐採の跡の切り株にみている。

 貞観(860年代)の時代に根を下ろした、との説明版があるので樹齢はおよそ1200年ということに なる。愛知県下最大の杉というが
「最大」の表示はあちこちにあるのであまり信用できない。それ にこの種の比較は大した意味を持たない。
 愛知県西加茂郡旭町、杉本神明神社の入り口の鳥居にへばりついている、というより鳥居や石 灯籠、それに石垣までがこの巨大な
杉の木にへばりついている。

 山あいの、のどかな集落の中で地元では巨大さゆえに目に入らぬ、とばかりに生活圏に溶け込 んでいる感じだ。
 一般に杉の木は真っ直ぐ天に向かって成長するが、各地に見る杉の巨樹ともなるとどういう訳か 複雑に枝が展開していて、一見広葉
樹のようないわゆる杉らしくない杉が多い、多分神社やお寺 など古代の巨大建築物の材料になり難い不良材だったのだろう、そんな
「見捨てられた過去」が 幸いしてその多くが現在は天然記念物として、またご神木などとして崇められている。

 そんな中でこの大木は杉の古木としては優等生的な姿かたちを見せているが、根株には巨大な 空洞があり足元はアスファルトで固
められた道路になっていながら一見元気に聳え立っている。