山と旅のつれづれ




巨樹巡礼第二部


主として中部地方で出会った巨樹についての雑文です。

自分の足で観賞した上で文章を付け加えています。
収録データを競うものではありません。あくまで気楽な雑文集です。



以上九編、収録終了。第三部へお進みください。







 愛知県、津島神社 大イチョウの切り株

 津島神社には大きなイチョウの木があるという事は承知していたが、たずねて見て驚いた。
枯死してしまったのか、或いは再生不可能と判断されたのか、いきさつは分からないがこの日 (2004年4月30日)出会ったその大イチョ
ウは地上から一メートル余りのところでばっさり伐られてい た。

 直径が二メートルはあろうかと思われるその切り株は、作業にそうとうに難渋したと思われる伐り跡 をさらけ出して無残に沈黙してい
た。 大径木はその多くが中空になっているが、このイチョウは中心まで一部を除いてしっかり詰まって いるのが印象的で本当に枯死して
いたのかと疑いたくなる、しかし、天然記念物を枯死以外の理由 で処分するようなことはあり得ないことなので、枯死に近い状態になっ
てしまったので倒壊などの危 険を 回避した結果であろうと思う。

 伐採の際おそらく関係者は誰もが、このイチョウの樹の長かった生命の終わりと信じたことだろうと 思われ、「葬送」の意味での伐採だ
ったに違いないと思う。ところがどっこい、この春になって無数と 言っても言い過ぎではないほどに新芽が湧き上がっているではない
か。 イチョウの樹は強烈な剪定をしても萌芽してくることで知られているようだが、この場合はその伐り かたからして剪定ではなく明らかに
伐採処分だ。

 ところが身軽になった結果、地下の根の残存部分は余裕が出たのか残った地上部に一斉に萌芽 を促したようだ、時世が時世だけ
に、さながら「リストラ企業の再生」を連想させる。若返った枝葉に これからどんな成長が見られるか、数年後にはまたお目にかかりた
いものだ。

 この地域(愛知県海部郡祖父江町、一帯)は銀杏の産地で秋には集落一帯が黄色く染まる特有の 景観を見せる、しかし、個性的で美
味な銀杏の実とは裏腹に果肉の耐え難いほどの強烈な悪臭をこ の季節の生産農家はどう処理しているのだろうか、果肉を除去しなけ
れば食料としてのギンナンに な らないのだ。
 住めば都、慣れれば平気なのだろうか。
 農家の有力な収入源であれば気にはならないという事かも知れないが、私は大いに気にしてい る。


白骨のような切り株から湧き上がった無数の新芽。
正真証明の「同床異夢」を繰り返しながら、やがて強いものが
生き残りふたたび枝葉を広げて大木を目指すか。
そんな空想をしながら観察するのも楽しいものです

津島神社に隣接する天王川公園の藤。(オマケ)
大きな池を囲む親水公園として市民に親しまれている。
その一角、広大な藤棚に咲き競う花房に見とれていて見逃し勝ちだが
藤の老樹のふしくれだった樹幹の佇まいには魅力を感じる。








  岐阜県海津町、木曾三川の千本松原

 岐阜県海津郡海津町、愛知県と岐阜県と三重県の接点。木曽川、長良川、揖斐川の三川が広い濃 尾平野を潤し、河口近くで集中し
ていて肥沃な農地をもたらしながらも一方では水害に悩まされた低 湿地水郷地域。
 宝暦の治水(西暦1753年)と言い全国に隠密を張り巡らしていた徳川幕府によって、察知された薩 摩の不穏な動きを封じ込めようと幕
府が薩摩藩に命じた木曾三川の治水工事の際に生まれた松 林、と認識している。

 命令に背けばお取りつぶし、従えば藩財政はひっ迫し体力を失うことになる。
 薩摩藩は僅か一年の歳月と千人に近い藩の土木技術者、武士など動員してこの大工事を成し遂 げている。
 工事の終了を見とどけた薩摩の士たちは、自藩に多大な負担を強いたとして忠誠の証として自刃し ている。
 知る人ぞ知る「宝暦治水の薩摩義士」の悲劇だ。工事に際しては地元の農民に対して非協力的で あるように言い渡されていたと伝え
られている。

 やむなく高い人件費を余儀なくされるという。幕府の思惑どうりにことは進められた。封建体制の 下、260年に及ぶ太平を維持してき
た、その裏側の悲惨を見る思いだ。近年になって地元では薩摩藩に報いようと鹿児島との間に交流があり、また、薩摩義士の物語を
NHKの大河ドラマに取り上げ てもらおうと運動が進められているという。

 明治になってからは治水の先進国オランダから土木技師を呼び寄せ洪水被害を繰り返していた木 曾川、長良川、揖斐川の三川分
流工事の完成により現在の姿になっている。

 さて、この松原。さほどの巨木とは言えないが大きな川を両側に従えてまことに優雅な風情を醸し 出している自動車道路が並行して
はいるものの幅の広い松並木の中はタイムスリップしたような 落ち着いた空気に満ちている。

 「千本松原」と称する名所は各地にあるが、ここのそれはいにしえの悲劇を秘めていて景観ととも に歴史の一端に触れることで印象
深いものがあります。


タイムスリップしたような風情が楽しい松林。
ここには写っていないが、川岸にじっとうずくまる釣り人がのどかな風景に いろどりを添えている。
右は宝暦治水工事犠没者名簿
石碑はまだ新しく、鹿児島との間に姉妹校流が
始まった記念に建立されたものと思われる。








  淡墨桜ー宴のあとに

   所在地 岐阜県本巣市根尾板所、ついこの間まで、本巣郡根尾村でした。
 第三セクター樽見鉄道終点付近
 『身の代と遺す桜は薄住よ、千代にその名を栄盛へ止どむる』

 1500年前、後の継体天皇が幼少のころ迫害を逃れて、山深いこの地に潜んでいて都に復帰する に際して詠まれたという、お手植え
の桜なのだそうです、単なる伝説だろうとは思うけれど、「高名な お坊さんが携えて来た杖を突き刺したところ、根付いた」などと言った
各地によくある伝説よりは説 得力がある。

 小説家宇野千代氏がこの桜の散り初めし時の様子を「淡墨を流したようだ」と形容したことが『淡墨 の桜』の謂れの始まりと聞く。
 冒頭の句の中の「薄住みよ」と「千代にその名を」のくだりが何となくこじつけたようで興味を惹く。
 うす墨とは、私は、薄い墨色であり訃報を知らせるときの書面の文字の色を連想してしまい、あまり 適切な形容ではないと思うのだ
が、素人の私がこんなことを言うのは罰当たりだろうか。『淡墨』につ いて確かめたくて現地では「淡墨の桜」の名称に関する記述説明
を意識して探してみたが何もなか った、そして、何故か安心感を得ていた。

 宇野千代氏の初見の時の一説が碑になっていて、その中にもそう言った記述ではなく、それは枯 死寸前の哀れな実情を嘆くもので
あった、そのことがマスコミなどに次々と伝播し、一躍全国区的な 知名度を得た。
 何はともあれ、それまで一部の専門家はともかく、一般的にはその存在価値をあまり認められて いなかったこの桜の巨樹を世に知ら
しめた功績は大いに認められていて当然なのでしょう。

 永年の風雪と高齢に耐えきれず、枯死寸前の状態だったものを50年ほど前に二百数十本に上る 若木の根を継ぎ足して再生を計っ
たという、信じられないような外科手術或いは臓器移植によって、 見事に、とは言えないが生きながらえてはいる。まことに巨大な桜
だ。昭和34年の伊勢湾台風で甚 大な被害を受けたといい、懸命な治療によって立ち直り今では広大な駐車場を従えた観光地になっ
ている。

 桜という樹種は花のつぼみが膨らみかけた季節に、春を待つ日本人の心をくすぐり、そして、花よ りだんごのざわめきの後には一般
的にはすっかり忘れ去られる運命にある。
 繰り返し、くりかえし、1500年。ほんとうに深いふかい、しわを刻んで山里の高台に集落の守り神の ように鎮座し続けている。
 土地の広い山奥ならではの広大な駐車場も、この日(5月12日)はほとんど利用されず閑散として いるが年間を通せば集客施設として
は成り立っているのだろう、地域おこしとも相まって自治体の広 報活動には役立っているようだ。

 私のような花の無い季節の桜を愛でにくるのもいいものなのです。
 一部の人々が言うような「花がなければただの木だ」ではありません。
 満開の桜見物は勿論、心が晴れ晴れとするものだけれど、売店だらけ人だらけ、車だらけでうんざ りするより、静かなしずかな、本当
に静寂の中で緑の若葉いっぱいの桜を前に満開の風景を頭の中 に描いてみるのも楽しいものです。

 周りの若い樹勢の旺盛な桜の木々に比較して葉っぱに勢いがよくないような感じで少々気にはな るが、それでも今年は花が例年より
多かったと言う。


無残と言わず、気の遠くなるよう年月を生き抜いた証と表現しましょう。
樹木医、その他関係者の並々ならぬ慈しみの賜物でしょう。
若葉に覆われた桜も私は花に劣らぬ桜だと思う。 おそろしくでかい桜だ。







  加子母の大杉

   岐阜県恵那郡加子母村。
 下呂市(旧下呂町)との境界付近、舞台峠に隣接する地域にある。
 峠と言ってもゆるやかな起伏の中、民家が点在する開けた台地の只中に、他の木々をまったく従 えず一本だけが堂々と枝葉を広げ
て存在を主張している。

 非常に安定感のある樹幹が何と言ってもこの杉の木の特徴のように思われる。
 10年ほど前に見たときはこの樹にあやかってか、地蔵堂があったと記憶しているがこの日訪れた ときはそれに加えて周囲が公園化
されており、立派な駐車場も併設されていて当時を思い起こすの に時間を要したほど周辺の環境が変わっていた。

  巨樹に付きものの痛々しさを殆ど感じさせない、見た目には今なお、おお盛な樹勢を誇っている。
 巨樹に関心を持って行動してみて気がつくことだが、私の住所地から日帰り圏に各種の巨樹が割 合に多く見られることだ。関心を持
つと見えていなかったものが見えてくる。本当に楽しいことなので す。しかし、古来の神社仏閣や城郭の建物にふんだんに使われてい
るあの目を奪う大きな梁、それ を支える巨大な角柱や丸柱を目の当たりにするとき巨木、大木が1000年とか数百年の昔は容易に 入
手できたのだろうと想像してみる。その結果が現在に残る、取り残されたような巨樹たちなのだろ うと思えてならない。

 材木として優等生ではなかったのだろう、そのことが幸いして原始の森のほんの一部を現在に伝 えている。
 ここには、源頼朝に影響を与えたと言われる文覚上人の墓が隣接している。
 人違いで人を殺めて罪深さから仏道に身を委ねた武人だが「上人」と慕われても影響力の大きな 豪僧として、吉川英二の小説「親
鸞」の中に語られている。
 この、大杉の株元に葬られたと伝えられていて、その頃既に目立つ大木だったのだろう。
 そんな歴史の一端に触れるとき、人の寿命の短さを思う。


痛々しさをほとんど感じさせない堂々とした非常に安定感のある
佇まいが印象的だ、株元も完璧に保護されていて見ていて楽しい。








  満身創痍・垂井のケヤキ

 岐阜県不破郡垂井町、東海道線垂井駅の西方数百メートル。
 伊吹山を主峰とする石灰岩地帯の伊吹山地、浸透しやすい石灰岩地に地下深く浸透した雨水は 濃尾平野北部の大垣市一帯に豊富
な湧き水として清冽な恵みを噴出している。

 そのひとつ、古来の歴史に彩られた名水「垂井の湧水」を従えるように、この大ケヤキはそびえて いるが、よく見るとぞっとするほどの
満身創痍だ。まるで古代遺跡から出土した大きな瓶などの土器 の破片をつなぎ合わせ、欠損部分を修復して復元した博物館の展示
物を連想してしまう。
 上にも下にも横にも大小の開口部があり、それらの全てを樹脂と思われる修復材で塞いでいる。 あきれたことに、裏側の修復箇所に
は人が十分出入りできる大きさの扉が設置してあって、中に入 ることさえできるのだ。

 その中、つまり、「大ケヤキのはらわた」はあり得ないことだが外回りより大きいのではないかと思 えるほど広い。本当に信じられない
ほど広く、扉を閉めればそこは漆黒の闇になる、僅かにピンホー ルがあるらしく差し込む光はきらめく星そのものなのだ。湿った空気と
すえた様な特有な匂いが充満 している。
 からっぽだが文字通り樹のはらわただ。ここまでして人工的に保護してやる必要があるのだろうか と、はらわたの中にしゃがみ込ん
で考え込んでしまった。遊園地の「疑木」じゃあるまいし、それにし ても、その空間の大きさには驚かされる。

 生きた部分は殆ど夏みかんの皮の部分程度にしかならない。
 ケヤキは木材としては木目が非常に美しくその上材質は固く耐久性に優れた「銘木」だが、立ち木 のまま生命を終えた部分は乾燥せ
ずに外側に包まれたままなので朽ち果てるのが早いのかも知れ ない、或いは、巨体になって生きていく上で重荷になった部分を捨て
去って行く自然現象と言えるの かも知れない。

 放射状に広がっていたはずの大小の枝も損傷が激しかったのだろう、大枝も小枝もばっさりと切 断手術を施されながら、それでも新
しい枝が少ないが再生している、「垂井の湧水」にとってはシン ボル的な存在なのだろう。何としても失いたくないと思う関係者の心意気
はその外科手術の跡から 痛いほど伝わってくる。

 まるで張りぼてのようなこの木を見ていると今更ながらに木の生命力の凄さに驚かされる。
 昔、幕府の直轄林などで伐採を禁じたその法をかいくぐるために、立ち木の周りを薄く削り取って、 枯死するのを待って処分していた
と言う、枯死してしまえばそれはゴミなので伐採には当たらないと いう理屈だ、木は表面に近い部分で地上と地下のやりとりをしてお
り、その部分を遮断すればやが て生命は終わる、そのことは、このケヤキのように中が腐って空っぽでも表面に近い部分が残って お
れば生命が維持されるということに他ならない。

 それにしても、その表面に近い部分でさえこの木は多くが失われている。
 それでも生きているということは、樹の生命力と相まって、まさに、人工的な外科手術のたまものだ ろう。


大掛かりな整形手術。形を整えるのが整形であり、失われてしまった部分を
修復するのは形成なのだそうです。この樹はさながら美容形成手術が施されている。
右は樹幹への入り口。笑っちゃいます。






 

  岐阜市、大智寺のヒノキ

 岐阜市山県北野、武芸川町との境界付近、岐阜市の野外スポーツ施設公園ファミリーパークの南 東600メートルの山すそに佇む古
刹、大智寺の中にそびえている。
 ヒノキはこの国の木造建築の主に構造材として不動の地位が揺るぐことのない優良材だ。しかし、

昔から認められた理想の木材であればあるほどに利用が進み、その結果自然林の中に残された巨 樹と言われる老樹が少ない・・・と
私は考えている。 お寺とか鎮守の森などは事実上保護林になって いるためか巨樹が残されていることが多いが、その場合は杉或い
はクスノキが圧倒的に多くなぜか ヒノキは非常に少ない。

 ふた昔ほど前だと思うが奈良薬師寺五重塔の昭和の再建の際、樹齢1000年のヒノキの主柱を国内 では調達できず、台湾から輸入
している。
 1000年を経たヒノキは木材になっても管理が適切であれば1000年は耐えられるという。この理屈 に従えばヒノキの枯渇は無いことに
なる。 今後数百年は伐採を禁止すれば可能なのだろう。まあ、理屈はともかくとしてこの樹種が木材として優秀なだけに利用され尽してか、
歴史的な巨樹にお目にかかる機会が少ない。

 そんなヒノキの巨樹の存在を知りえて、心ときめく思いで出かけたのがこの大智寺の大ヒノキだ。 惚れ惚れするような模範的なヒノキ
の姿かたちを頭の中に描きながら、家から意外に近い80分のド ライブだ。
 しかし、そのヒノキは各地に残る杉の巨樹と同じく木材としては不良材として見捨てられた結果生き ながらえた、と考えても間違いは
なさそうな風情だった。

 多分幸いにも、木材としては価値が無かったから良かったのだろう。
 樹齢800年と言われ、過去に落雷の直撃を受けて縦に裂けたが、その強靭で自然な修復過程を経て現在のような主幹がねじれたよう
に成長した様だという説明版があるが、根元から先端まで一 貫してねじれているところを見ると、落雷被害に加えて最初からこの木の
個性だと判断したほうが当 たっているような気がする。

 表皮「桧皮」は多くが剥げ落ち、根元の接地部分までが朽ち果てかけていて、この樹もやはり大き な空洞があり、枝は枯死している部
分が多く、仰ぎ見て葉っぱの形でようやくヒノキであることを確認 できる。
 それでも、数少ないヒノキの大樹であることには変わりがないので私は貴重な存在だと思っている。
 この樹の存在が今まで私には分からなかったように、まだまだ何処かに埋もれたヒノキの大樹に会 える日を私は心待ちにしている。


真っ直ぐに成長することでは代表的な樹種だが落雷の影響か
神のいたずらか徹底的にねじれしぼりあげられている。
こうしたヒノキは非常に珍しい、ヒノキらしくないヒノキとして
或いは観賞価値が有るのかも?








 岐阜県中津川市、神坂のヒノキ

  悠久のときを人知れず生き抜いてきた老樹

中央自動車道恵那山トンネル、あの長大なトンネルのほぼ真上の位置にこの巨樹はある。
 岐阜県内の旧中仙道は意外に多くの昔の道が残されている。その中山道の枝道『東山道』。木曾 街道から伊那谷へ抜ける山道は名
にしおう難所だ。街道というより登山道としたほうが当たってい る。木曾山脈(中央アルプス)の最南端に位置する恵那山の北側山ろく
のつづら折れのか細い山道 をあえぎ、あえぎ登った標高1600メートルの神坂峠(みさかとうげ)は奈良、平安の古代の道でもある とい
う。

 狭い峠は遺跡も発掘されていて、生活の道であり、不幸にして行き倒れた旅人の弔いの場でもあ ったようだ。今は狭いながらも自動
車道路になっているが対向車に出会う可能性の高い週末日曜日 などは細心の注意を払っていてもひやひやものだ。
 そんな危険な林道を登りつめた峠の手前から派生した作業道がある。

 姥ナギ、天狗ナギと呼ばれる恵那山中腹の大崩壊地帯の土木管理道だ。当然だが一般車は厳 禁のその道を歩いて30分、悠々たる
東濃盆地の絶景と、この地域の特徴である伸びやかなすそ野 を持つ周囲の山稜に圧倒されながらの適度な山歩きです。
 この巨樹は数年前に恵那山を登山したときに小さな案内看板を発見して以来、記憶の隅に温めて おいた「巨樹巡礼」のカードです。

何しろ、日帰りで九時間を踏破した後では体力に余裕がなく、「宿題」と言うことになっていました。

 木曽ヒノキ、東濃ヒノキといった木造住宅の優良材を産出する大産地であり、さすがにヒノキ林が 多い。
 お目当ての大ヒノキは林道から転げ落ちそうな急坂を木の階段を頼りに行き着いた先に、見た目 には40度はあろうかと思われる急
斜面にその巨体を踏ん張っていた。

 平地なら嫌が上にも目立つ存在だが、急斜面の山肌はこの巨樹の大きく広げた枝葉さえも目立た なくしてしまい、巨大でありながら
も隠れるようにひっそりと佇んでいる。

 大崩壊地帯への作業道からそれほど離れていないのに発見からまだ10年ほどしか経っていない というのも驚きだ。
 現在では周囲も完璧に保護されており中津川市当局によって大事にされていることが容易に分かる 雰囲気だ。周りは急斜面ゆえに
足元は不安定で保護のために木の階段の行き着く先にやぐらが組 んであり、狭いその踊り場から観賞することになる。
 全国的にも数少ないヒノキの巨樹としての存在も貴重だろうと思う。

 巨樹と言ってもヒノキは杉ほどに大径木にならない(と思う)が、このヒノキも杉やクスノキと単純に 比較すれば一回り小ぶりだ。しかし、
枝の一部に枯死している部分があるものの、樹勢は一見した 限りでは今なお旺盛な感じで巨樹にはよくある、人の手による外科手術
の跡は見られないのが楽し い。

 この大ヒノキを観賞できる狭い場所に二人の若者がコーヒーを沸かして大ヒノキを愛でながら ひと時を楽しんでいた。今どき歩かなけ
れば到達しない山の中に入ってこんな優雅な遊びを楽しむ若 者には滅多にお目にかかることがないのが実情なので、思いがけなくい
い気分になったものです。 さわやかな挨拶が返ってきて、場所を占領されても近頃味わったことのない晴れやかな気分で大ヒ ノキに会
い、そして別れをつげて下山しました。

 そう云えば、数年前の秋口、中央アルプス越百山(2600メートル)の麓で60キロ(自己申告による)の荷物を担いで喘 ぎあえぎ登ってき
た、たった独りの大学生らしき若者に出会ったことがあった。中央線須原駅から歩 いて既に川原で一夜の野営をしたうえでの二日目だ
と云う。いよいよ、ここからが登りの本番だが余 りの荷物の多さに空恐ろしい気持ちがした記憶がよみがえった。山小屋とテント場を巡
り歩いて写 生三昧に浸るという写生道具と二人連れ?だった。

 越百山から下山してきた私とは方向が逆なので見守る以外にしようがなかったが、須原駅から出 会った地点まででもかなりの距離に
なるし、その距離を既に踏破してきているので、カラ元気ではな さそうだった。
 あの時の青年はいまごろどんな人生送っているのだろうと、そんな記憶を辿りながら夕暮れの迫る 山道の帰りを急いだ。


神坂(みさか)の大檜。
ヒノキの本場、木曾、東濃地方でシンボル的な存在だと私は勝手に位置づけている。
発見から、まだ十年余りしか経過していないのは驚きだ。
 







  岐阜県加茂郡白川町 大山白山神社の御神木

 「飛騨白川」と言われ合掌住宅の白川郷ではない。国道41号線下呂温泉の南に位置するこの集 落は古くからお茶の栽培地として知
られているが、ブランドとしてのお茶の商品が無かった。生産し た茶葉の殆どが静岡県に送られ静岡茶として流通していたという。いわ
ば下請けに甘んじてきた が、最近は広く見直されてきているようで、「白川茶」として馴染んできているようだ。

 新幹線列車や東名高速道路で車窓から見る静岡県の太平洋に面した明るい茶畑の風景とは対 照的な雰囲気に包まれた、箱庭の
ような山峡の集落、本当に静かで心が洗われる雰囲気の中の小 道を辿った先の林道の終点、大山白山神社。
 車のエンジン音でさえ雰囲気を乱してはとはばかられるほど、牧歌的な茶畑に見とれている間に、 何時の間にか車のGPS情報は標
高800メートルの高知に達していることを示していた。

 白川町のシンボル「白山」の、まさに頂上にこの神社は位置している。 白山神社は各地にあるが、ここの白山神社も巨杉がよく似合
っている。
 風当たりの強い悪条件の山頂一帯に巨杉が群生している風景は珍しいと思う。
 その中の一本、この大杉は特に巨大と言うわけではないが、山頂という条件の中で風雪に逆らい真 っ直ぐに伸びているのが印象的
だ、ここまで大きくなっても典型的な杉の形を維持している。

 昭和34年の伊勢湾台風で甚大な被害を受けたと言われていて、傷跡が癒えたとは言えない痛々 しさを見せ付けている。
風変わりな杉「女夫杉」はこの神社の一角にある。
 大杉をめでながら、頂上の神社に至る長い石段を辿るのも楽しいひと時です。
 あまり知られていないようだが、古い歴史に彩られたその雰囲気と言い印象的な神社です。
天下の名湯下呂温泉への旅の途中、ぜひ寄ってみたい神社です。

大山白山神社の御神木。神社の参道の両側に林立する杉の大木のひとつ。
風当たりの強い山頂付近にこんな名も無い大木が群生している。


白山大山神社の境内の一角にひっそりと慎ましやかに・・
 場所的には慎ましやかにではあるが何とまあ、その姿態のおおらかなことよ。
 直径二メートルはあろうかと思われる大木が二本、寄り添うと言うより抱き合っているではないか、
しかも、中ほどの太い枝は完ぺきにつながってしまっている。どういう過程を経てこんな現象が起き るのか不思議だ。
夫婦と言わずに「女夫」と命名しているところも、なにやら示唆に富んでいる。
この樹に関しては多くを語らないほうが良さそうだ。
 先ずは一見、ご覧あれ!!!







 

  土岐市白山神社のハナノキ

  各地にある白山神社には巨樹大木が多い。神社の歴史が古いという事だろう。
 岐阜県の東濃地域、土岐市中心部に広い社域を持つ白山神社の一角にあるハナノキ、私はこの樹 種については殆どしらない。
 ただ、幼かりし頃ハナノキという地名の田んぼがいくつかあったことを思い起こしている。刈り取り のあとの穂の付いた稲わらや麦わ
らを、はさ掛けして天日で干すのに都合が良いように植えられ成 長した湿地性の高木樹種ではないかと思われる。

  成長したハナノキのある田んぼを何時の間にか「ハナノキ」と通称するようになったのかも知れな い、定かではないが。
 同じような農作業の役に立っている樹種に北陸地方のハンノキ或いはヤチハンノキというのがあり、 北陸地方の田園風景の風物詩
になっていた。過去形で書いたのは農業が機械化されて大きな農機の操作の邪魔になり、その多くが伐採されてしまったことによる。

 この、湿地性の落葉高木は田んぼのあぜ道に沿って等間隔に植えられて、刈り取った稲穂のはさ 掛に都合がいいように整枝され、
地域的に隣接する栃波平野の農家の屋敷林『散居村』風景と共 に旅人には旅情をそそる風物詩だったが少なくなってきていて惜しい
気がする。

 この神社境内のハナノキ、かつては周囲二メートルはあったという、二メートルは巨樹という ほどの大きさではないが、もともと巨大化
する樹種ではないと思うので、このサイズは凄いと思うが 残念ながら老化現象がひどく、ほとんど美容整形手術?で形作られ天然自然
の部分は僅かしか残 っていない瀕死の状態だ。人工的に生きながらえさせられているとは云へ、樹の生命力のしぶとさ を思う。なぜ
か、老人大国ニッポンに想いをはせた。

 春四月には芽吹きに先立って小さいが真紅の花が咲くという。その鮮やかさが『ハナノキ』の由来 ではないかと考えてみる。
 来春は花の季節にぜひ訪れて見たいハナノキの老樹です。
 2009年1月、ついに枯死して二代目の若木と入れ替わっていることを確認している。


見えている部分はほとんどが合成樹脂だ。
精一杯に美容整形してもらってもこの状態、立ってもいられないほどだ。
それでも、春先には真紅の花が見られるという。
その時期を失しないように、記憶に留めておきたいと思っている。