2006年10月20日、春日井市文化財友の会のバス旅行で、初めて奈良県明日香村を
訪れた。午前8時過ぎ、JR春日井駅前を東鉄バスで出発、東名阪、名阪自動車道を走って奈良に向かう。最初の
目的地、明日香村の飛鳥資料館に到着したのは午前10時50分ごろ。ほぼ予定通りである。
ボランティアガイドが合流、資料館の地形模型の前で「唐の都・西安を模した藤原京に移る前、飛鳥に都が
あった。藤原京はわずか16年で廃棄されたのに、飛鳥には100年もの間、都があった」と説明する。
資料館内に飾られた噴水として利用された石人像は、鼻がでかく、目が大きい。「胡人の風貌」という。
なるほど。ほかに、教科書にも載る山田寺の本尊だった仏頭のレプリカ、倒れた状態で出土した山田寺東回廊の
復元模型などを見学した。
昼食の後、酒船石遺跡を見学。小判形石造物、亀形石造物などで構成されるこの遺跡は小高い丘陵にあり、
導水構造と立地から祭祀空間と想定されている。愛知県東郷小の児童ら修学旅行生も多く見られた。
続いて訪れたのは飛鳥寺・入鹿首塚。飛鳥寺には、日本最古の大仏がある。推古天皇17(609)年、
鞍作鳥作という。平安・鎌倉期の火災で、顔にもかなりの傷が残る。日本的な山田寺の仏頭に比べ、外国人的な
風貌である。首塚は鎌倉期に建てられ、入鹿の首が飛んできて落ちたところという。入鹿の涙か、
雨がぱらつきだした。
4ヵ所目の橘寺は、聖徳太子の生まれたところといわれる。五重塔跡が見どころ。花崗岩に直径約90cm、
深さ約10cmの柱穴、その穴の三方に半円形の添え柱穴が掘ってある。この柱穴から推定すると、高さは
約38mあったという。また、同寺にある二面石は、善悪二相を表しているというが、
悪相の方はよく分からなかった。
最後の見学地の高松塚古墳は、駐車場から結構歩きでがある。壁画にカビが生えたため、剥ぎ取り、保存する
作業が進められていた。隣接の壁画館に、鎌倉時代の盗掘口から石室内が見られる仕組みが設けられている。
さらに、出土当時の壁画の様子、汚れを取った様を見ることが出来る。壁画は、平山郁夫画伯が忠実に模写した
ものという。
終日、時に薄日がさす曇天だったが、雨はぱらついただけで、すべての見学を終え、笑顔で手を振る
ボランティアガイドに見送られ、帰途についた。春日井駅前には、予定通り午後7時半に到着した。
私は、古代史は好きだが、今まで飛鳥を訪れなかったのは権力者の歴史に、今ひとつ関心がないためであろう。
中大兄皇子、中臣鎌足がクーデターで蘇我入鹿を殺す。持統は、天武の子を次々と抹殺する。飛鳥は天皇家の
血塗られた殺戮の舞台でもある。
桜井市から曲がりくねった山道を明日香村に入っていくと、坂道が多い。盆地といっても実に狭い。端から端が
一目で見渡せる。この日は、靄もかかり、平野部に育った私は、息が詰まりそう気分になることがあった。
ボランティアガイドによると、ここに百年もの間、都があった、という。住人の名前を見ると、7、8割は
渡来人だとも言う。一体どんな精神構造を持った人たちが住んでいたのだろう。そんな思いにとらわれた。
参加者の一人は、「何故こんな狭いところに都を造ったのだろう」と不思議がる。私もそう思う。要害の地で
あるためか、それとも豊富な湧き水かあるためかぐらいしか思い当たらない。そういえば、「渡来した天孫族の
故郷に似た風景」と考える歴史家もいた。
【写真は、古代の祭祀遺跡と見られる酒船石遺跡=明日香村で】