伏拝王子からは、明治22年の洪水まで本宮大社があった大斎原が望める。つまり本宮大社の
遥拝所としての性格を持つように思われる。
しかし、説明板によると、創記は不明。御幸時代の記録に、その名が見えず、享保15(1730)年の
『九十九王子記』で水呑王子の次に出てくる。
初代紀州藩主・徳川頼宣が寄進したと伝えられる石祠と並ぶ、笠塔婆の上に宝きょう印塔の塔身と蓋を積み上
げた「和泉式部供養塔」は、延応元(1239)年8月の銘があり、三百町卒塔婆の一つではないかといわれて
いる。
和泉式部にまつわる話として、熊野参詣の折、月経がきて参詣できず、本宮大社を伏し拝んで、「晴れやらぬ
身の浮き雲のたなびきて月の障りとなるぞかなしき」と詠むと、その夜、熊野の神が夢に現れ、「もろともに
塵にまじわる神なれば月の障りも何かくるしき」とのお告げがあり、喜んで参詣したと『風雅集巻20』にある。
ここで、私の空想が広がる。熊野権現は反朝廷の神、つまり朝廷が滅ぼした豪族が祀っていた神で、平安時代は
まだ、その祟りが恐れられていた。それで、その霊を鎮めるため、皇族、貴族が盛んに参拝した。和泉式部の挿話も
そうした背景の中から生まれた。
蛇足だが、ここに到着した時は情けないことだが、かなり疲れていたのであろう。伏拝王子社跡の写真を写した
つもりだったが、賽銭箱しか写っていなかった。和泉式部の供養塔も写すのを忘れた。
【写真は伏拝王子から遥かかなたに大斎原(中央部の光っている所)が望まれる】