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Artist

FRANCO ET L'OK JAZZ

Title

1966/1968


1966/1968
Japanese Title 国内未発売
Date 1966 /1968
Label AFRICAN/SONODISC CD 36522(FR)
CD Release 1992
Rating ★★★★☆
Availability


Review

 「革命」が合い言葉だった。軍を背景に政治権力を強めつつあったモブツ大統領は、独立6周年に当たる66年7月1日、植民地時代の呼び名であったレオポルドヴィル、スタンリーヴィルなどをコンゴ風にキンシャサ、キサンガニと改めた。翌年には新憲法が公布され、二大政党制を原則とする第二共和制が発足した。ザイールの呼称がはじめて唱えられたのもこの年である(国名をザイール共和国としたのは71年)。これにともない、モブツはみずから党首となってMPR(革命人民運動)設立を宣言。結局、第二の政党は認可されず、事実上MPRによる一党独裁体制が敷かれることになる。

 O.K.ジャズを辞め、アフリカン・フィエスタアフリカン・フィエスタ・スキサと渡り歩いたヴォーカリスト、クァミーもまた、この時期、「革命」を高らかに掲げたひとりであった。ダカールでのフェスティバルを無事に終えて、ベルギー経由でキンシャサに帰ってきたフランコを待っていたのは、ブラッツォ、ムジョス、ムセキワ、デスーアン、ピッコロ、ジャリの6人ものメンバーの大量離脱であった。かれらはまるごとクァミーが結成した新バンド、オルケストル・レヴォルシオンに移籍してしまった。

 そして、モブツのMPRが正式発足された67年の同じ月に、オルケストル・レヴォルシオンも活動を開始した。かれらはモブツを露骨にヨイショしたその名も'M.P.R.' という曲をレコーディングする。このような背景から、レヴォルシオンの活動の裏でモブツが糸を引いているのではないかとさえ取り沙汰された。真偽は明らかでない。だが、識字率が高いとはいえないコンゴで、民衆を教化するのに音楽がもっとも効果的な手段であった点は疑いえない。
 レヴォルシオンのデビューから数カ月経って、今度はO.K.ジャズの若きシンガー、ボーイバンダがレヴォルシオンに移籍するという事態に見舞われる。O.K.ジャズは事実上、活動不能の状況に追い込まれてしまう。フランコという旧体制にたいするクァミーの「革命」は、ここに一応の成功をみたということになるだろう。

 ところが、「革命」のリーダーである肝心のクァミーとムジョスは、バンドをほったらかして、ブリュッセルへ行ったきりいっこうに帰ってこない。あとに残されたメンバーの不満は募るいっぽう。やむなく新加入のボーイバンダがリーダー役となってバンドを引っぱったが、68年8月についに解散。クァミーの「革命」は、わずか1年半の短命に終わった。

 いっぽう、主要メンバーのあいつぐ脱退でグループ存続の危機に追い込まれたフランコは、コンゴ−ブラザヴィルで敷かれていたフランコとかれの音楽の禁止令(※)が解かれたのを機に、バンドを連れて川を渡り、演奏かたがた、新メンバーのスカウトをおこなった。このとき採用されたのが、10代の若きシンガー、ユールー、ベーシストのビチュウ、コンガ奏者のドゥ・プールだったと、STEWARTの著書"RUMBA ON THE RIVER"にはある。その正確な時期について、本書は言及していないが、前後関係からして66年の後半以降のことであったと推測できる。

※コンゴ共和国初代大統領ユールーを揶揄した歌をうたっているのが発覚したことから


 ところが、もうひとつのタネ本であるEWENSの"CONGO COLOSSUS"では、かれらの加入は65年ということになっている。ドゥ・プールにいたっては言及すらされていない。"CESAR ABOYA YO/TONTON 1964/65"(AFRICAN/SONODISC CD 36588)の解説は、EWENSの記述にしたがった。しかし、冷静に考えれば、いくら大所帯好きのフランコといっても、そうもたくさんベーシストを抱える必要はなかっただろうし、ソングライターにユールーの名まえがあらわれるのは66/67年とクレジットされたアルバム以降であることからして、STEWARTの記述のほうが正しかったような気がする。「たかだか1年ぐらい」といわれるかもしれないが、この1年のズレはとても大きい。

 かくして新生O.K.ジャズはどうにか船出したものの、67年から翌68年なかばにかけて、レコードの売り上げは落ち込むは、クラブへの出演回数は減るはとさんざんだった。ビジネスの面では結成以来のスランプに陥ったO.K.ジャズであったが、音楽のクオリティは以前として高い水準にあった。
 EPANZA MAKITAを中心に、BOMA BANGO、VICLONG、LIKEMBEとさまざまな音源からなるこの編集盤は、音楽とゴシップの両面で、当時のO.K.ジャズを知るのに最適なアルバムである。

 まず、注目すべきは、アフリカン・フィエスタへ移籍したクァミーにフランコが放った最初のキツーイ一発'CHICOTTE' だろう。舞台はベルギー国王レオポルド2世の統治時代、登場するはカバとその背後に隠れた調教師である。いうまでもなく、カバはクァミー、その調教師はアフリカン・フィエスタの面々である。

「おまえは死骸のように腐っていき悪臭を放っていた。おまえはダラダラよだれを流していた。埋葬されたおまえは国にとって重荷以外のなにものでもない!こんな不浄におれは耐えてきたんだ。しかもこんにち、おまえはおれフランコを敵視している。この大うそつきめ!O.K.ジャズでおまえはおれに出会った。いまのおまえがあるのはおれのおかげだ」

 こんな調子で歌詞はすこぶるどぎついが、歌のほうは諭すようにやさしく温厚そのもの。フランコのギターも軽快で明朗だし、サックスのふくよかなブローも快調そのもの。締めの台詞はフランス語で「ああ、世の中はなんて悪意に満ちているのだろう」だって。おめえも同じ穴のムジナだろがっ。

 'CHICOTTE' のレコーディングは、65年の終わりから66年はじめごろと思われ、本盤のなかではもっとも古い部類に属する。アルバム冒頭の'GARE A TOI MARIE' も、音の感じからいってほぼ同時期とみていいだろう。サックスの印象的なリフにのせてフランコのめくるめくギターワークはすこぶる好調。

 フランコとメンバーの掛け合い漫才?ではじまる'LISASO YA KRONEMBOURG' で、リード・ヴォーカルをとるのはフランコ本人。楽曲も歌もギターもいうことないが、なによりもうれしいのはヴェルキスのファンキーなサックスがたっぷりと聴けること。O.K.ジャズ時代のヴェルキスのベスト・プレイのひとつであろう。
 ムジョスが提供した2曲'FINGA MAMA MUNU''TUNA MAGEDA' でもサックスが大活躍。ムジョスは、このあとレヴォルシオンへ移籍しているから66年発表だろうか。(一概にそうと断定できないのは、ムジョスはレヴォルシオン解散後、すぐにO.K.ジャズへ復帰したとも考えられるから)。O.K.ジャズにはエレガントとかめまいクラクラのイメージがあるが、サックスがはいるだけでこうも元気になるものなのか。

 'LISASO YA KRONEMBOURG' とともに、わたしが本盤の目玉と感じているのが、新加入のユールーが書いた'NUMERO YA KINSHASA' というナンバー。タイトルに「キンシャサ」とあることからしてまちがいなく68年の発表曲。なによりもまずメロディ・ラインが流れるような起伏に富んでいて美しい。ユールーとヴィッキーの透明なハーモニーも絶妙だ。後半になるとテンポアップしてセベン・パートに突入する。フランコの鋭く力強いギターと、ヴェルキスのアグレッシブなサックスが文字どおりのバトルを繰り広げ、思わず息を呑んでしまう。

 'MWASI YA BA PATRONS' も見逃せない。さすがにシマロが書いただけあって、曲の構成がしっかりしていて全体に端正な印象を受ける。間奏部と終盤には、フランコとヴェルキスによるスリリングなインタープレイが用意されている。ただし、5分41秒の演奏時間でサックスがようやく出てくるのは3分を過ぎてから。「公園のなかでは自由にしていいけど、外へは決して出ていけませんよ」と母親から諭されているみたいで、ヴェルキスのプレイにいつもの不良性が感じられないのがちょっと不満。

 個人的な好みの関係でヴェルキスが目立っている曲ばかりあげてしまったが、そうはいってもO..K.ジャズはやはりフランコのバンドである。時代が下るにしたがって、ホーン・セクションは、曲の中盤やクライマックス部分で、わずかな時間、決まったフレーズをユニゾンまたはソロで奏でる、いわばフランコのギターの引き立て役にまわされるようになってくる。そんな傾向が見え始めたのもこのころから。

 たとえば、'TIMOTHEE ABANGI MAKAMBO' では、リズム・ギターと“ミ・ソロ”とよばれるミディアム・ギターとが紡ぎ出す反復的なアンサンブルのなかから浮かび上がるフランコのギターは文句なくすばらしいのに、サックスはほとんど用をなしていない。'CHICOTTE' とならぶ66年発表の問題作'QUATRE BOUTONS' もおなじ。5分37秒の演奏時間のうち、大半を歌がしめ、サックスは3分30秒を過ぎてからちらっと顔を出すのみ。もちろんソロはいっさいない。この「4つのボタン」は、歌詞が問題になって、司法省内に検閲委員会が設置されるきっかけを作った。くわしい歌詞の内容は不明だが、おそらくわいせつとされたのだろう。じっさい、68年にO.K.ジャズはこの検閲にひっかかって、2曲が発売禁止に1曲が発売延期になった。

 以上、演奏にしめるサックスの比重からみてきたが、もうひとつ、気になることがある。それは、後年になるほどサックスとともにパーカッションのポジションが後退してきているのではないかということである。
 たとえば'ANNIE NAGAI NALINGA' という曲。ヴェルキスが書いただけあってサックスが目立っているのは当然としても、リズムの中心を担っているのはギターとベースで、パーカッションは隅っこへ追いやられてしまったような印象を受ける。その結果、リズムにメリハリが乏しくなって、クラクラするような陶酔的な感覚が強まってくる。この傾向は70年代前半にピークをむかえる。

 こんなふうにO.K.ジャズの新しい方向が見えてきているいっぽうで、マラカスがツッコミ気味のリズムを刻むハイテンポな'AYOKAKI NABIMAKI' やスローテンポなボレーロ調の'BISO BANSO BASI NA YO' のように、まだラテン系音楽からの影響をつよく感じさせる曲もあって、ヴァリエーションが楽しめる内容となっている。



(9.4.03)



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by Tatsushi Tsukahara