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Artist

E.K. NYAME

Title

OLD TIMERS E.K.'s BAND(Original)
TRIBUTE TO E.K. NYAME & KWABENA OKAI


ek
Japanese Title 国内未発売
Date ?
Label RDRCD-4145 (?)
CD Release 2000-2001
Rating ★★★★★
Availability ◆◆


Review

 長いあいだ、幻とされてきたガーナ・ギターバンド・ハイライフのイノヴェイター、E. K. ニヤメのフル・アルバムがCD初リリースされた。『ミュージック・マガジン』2003年7月号の輸入盤紹介で、中村とうようさんがとりあげていたので記憶のあるひとも多いはず。いまや、ニューカルチャー系オピニオン誌と化してしまった『ミュージック・マガジン』の読者層にはあまり関係ないだろうが、コアなアフリカ音楽ファンにとって、このリリースは、いまだ入手できていないスターゲイザーズのアルバムとともに、今年最大の事件といっていい。
 
 ニヤメは、50年代、パームワイン・ミュージックや、そのヴァリエーションである“ネイティブ・ブルース”を発展させて、ギターバンド・スタイルのハイライフとして完成させた人物。
 E. T.メンサーなどのダンスバンド・ハイライフは、ジャズ・タッチの、文字どおりの“ハイライフ”で、おもに都市部において人気があった。いっぽう、ニヤメのハイライフは、“ハイライフ”というにはいかにも土くさく、おもに内陸部の田舎や都市部の低所得者層から支持を集めた。
 
 ニヤメの革新は、ギターバンド・ハイライフを創始したというにとどまらず、これを大衆演芸と組み合わせ演じたところにある。ガーナでは、遅くとも1920年ごろには、寸劇やら掛けあい漫才やらダンスなどを披露するアフリカ人によるミンストレル・ショウの劇団が結成されていたという。かれらは内陸部の村々をまわり、訪問地の伝統的な芸能の要素をうまくとりこんで演じたので、人気はガーナ国中におよんだ。
 しかし、そこではまだ、フォックストロットやラグタイムといった西欧のダンス音楽がハルモニウムやジャズ・ドラムなどで演奏されるのがふつうだったらしい。
 
 ニヤメはこれをギターバンドによるハイライフ・スタイルに代えたばかりでなく、英語をやめて現地の言語(おもにトゥイ語)を用いて徹底したアフリカナイズをはかった。そして、51年に結成したアカン・トリオ(トリオといっても、わたしが持っている本の写真には11名いる)は大成功をおさめ、これにあやかって、当時あったギターバンドのほとんどがショウ劇団と一体化したといわれている。
 
 余談だが、わたしが勤めている老人施設に入所しているお年寄りたちに、思い出に残る映画についてアンケートをとってみたときのこと。映画をあまり観たことがないというお年寄りが意外に多く、いちばんの楽しみはときどき村にやって来る旅芸人一座を観劇することだったと聞かされ、目を開かされた思いがある。わたしの勤め先は、名古屋の中心街まで車でせいぜい30分程度、町のなかにも戦前から映画館はあったにもかかわらず、日々の生活に逐われる地方の庶民にとっては映画なんかよりも大衆演劇のほうがずっと身近だったのだ。
 だから、地方にしっかりと根づいていた大衆娯楽のなかにうまい具合にすべりこんで、ハイライフをガーナ国中にひろめたニヤメのやり方は「さすが!」というほかない。
 
 このようにニヤメは、アフリカ化をつよめていくいっぽうで、ギターバンドとしてサウンドのモダン化をはかる。楽器編成にドラム・キット、ボンゴ、ウッド・ベースをとりいれたのはアカン・トリオが最初であった。これによって、サウンドにグッと締まりが生まれた。それまでのパームワイン系のつっこみ気味のビートにキューバ音楽の要素が加わって、どこか戦前キューバのセステート・アバネーロセプテート・ナシオナールのソンを思わせる。
 
 具体的には、即興的要素がつよい派手なボンゴ・プレイ、ワイワイガヤガヤざわついた感じのヴォーカルとコーラス、リズム・キープ中心のニヤメのサクサクしたギターもこころなしかトレス(キューバの複弦3対の小型ギター)を思わせたりする。さらに、クリップ(クラベス)が刻むリズムがガーナ独特の裏打ち3拍ではなく、シンキージョ(キューバ音楽独特の5つ打ちのリズム・パターン)に近いのもそのあらわれといえる。
 ただし、ヴォーカル・ハーモニーの付け方は、キューバ風でなくゴスペルっぽいというか、南アの合唱音楽“ンブーベ”を思わせる。ほかにも、おそらくファイフというガーナのフルート、破壊的でフリーキーなソロを奏でるクラリネットも使われている。
 そのあざやかな手並みは、ジャズやラテンといったモダンなセンスと、講談や浪花節のベタなセンスとをシームレスに融合させ、ラディカルな音楽性をつくってしまった戦前の演芸集団“あきれたぼういず”とどうしても重なってしまう。
 
 そして、脳天を突き抜けるようなカン高いリード・ヴォーカルは、本盤でニヤメの名とならんでクレジットされているコビナ(クァベナ)・オカイKOBINA(KWABENA) OKAI。オカイは、バンドのリード・ヴォーカルのほか、劇のときは女性役を演じるなど、ニヤメのグループには欠かせない人材だった。77年に50歳でニヤメが世を去ったとき、独身だったニヤメの死を悼み、女性用の喪服に身を包んで号泣する妻の役をしたのはオカイだった。
 げすの勘ぐりかもしれないが、ニヤメとオカイの意気の合ったコンビネーションを聴いていると、ふたりはホモセクシャルな関係にあったのかもしれないと思った。
 
 アルバム中盤の'BEHYE MAKOMA MU' から、エレキ・ギター、ドラム・キット、オルガンが使われはじめる。中村氏は本盤をニヤメ初期の録音とされていたが、ギターバンド・ハイライフにエレキ・ギターが使われるようになったのは、1950年代終わり近くからであり、曲の雰囲気と録音状態から推測して、すくなくとも8曲目以降は60年代にはいってからの録音とみてまちがいなかろう。ラストの2曲、ルンバ・ロック風の'ODO YEMU BRA' と、ドラムスのロールがニューオーリンズっぽいブルース調の'OWUO SEE ADE' にいたっては、案外、70年代にはいってからの録音なんじゃないか。
 
 さらにいうと、お世辞にも録音状態がよろしくない前半部分もガーナ独立前後の50年代なかば以降の録音ではないかとさえ思っている。なぜかというと、ジョン・コリンズが生前ニヤメにおこなったインタビューのなかで、ステージで英語をいっさい使わなくなったのは独立前後のことと答えているからだ。
 
 ガーナがイギリスから独立した1957年、初代首相(60年大統領)になったエンクルマは、ニヤメが大のお気に入りで、各州を歴訪するときにはよくニヤメとかれのグループをともなって行ったという。エンクルマの庇護もあって、かれは、デッカ、クィーンフォン、HMVになんと!400以上ものレコードを吹き込んだとあるので、本盤もそれらのなかから採られたと考えるのが妥当な気がする。
 
 音質がよくないのと、オカイのファルセット・ヴォイスが勘にさわったため、当初は9点としていたが、聴けば聴くほど、そこらのパームワイン・ミュージックやギターバンド・ハイライフとはひと味もふた味もちがう、力づよい演奏と構成力の高さに感服してしまった。わたしは、ことハイライフにかんして採点が甘すぎるところがあるので、抑えるように努めてみたものの、こればかりはどうしようもない。すばらしいの一語に尽きる。


(6.26.03)



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by Tatsushi Tsukahara