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Artist

JULIO CUEVA(S) Y SU ORQUESTA

Title

DESINTEGRANDO


DESINTEGRANDO
Japanese Title 国内未発売
Date 1944 - 1947
Label TUMBAO TCD-083(EP)
CD Release 1996
Rating ★★★★☆
Availability ◆◆◆


Review

 ルンバが世界的に大流行するきっかけとなったのは、1930年6月3日、ドン・アスピアス楽団がアントニオ・マチーンをヴォーカルに迎えてニューヨークでレコーディングした「南京豆売り」'EL MANISERO' であることは、キューバ音楽ファンなら周知のことがら。だが、この有名楽団に、のちに波瀾万丈の生涯をおくることになるフリオ・クエーバがトランペッターとして参加していたことはあまり知られていない。

 1897年、祖父と父をミュージシャンに持つ音楽一家に生まれたフリオ・クエーバ(またはCUEVAS“クエバス”。最後の'S'はほとんど発音されないので'CUEVA'と表記される場合もある。)は、少年時代から音楽的才能を発揮し、1915年、18歳のときに祖父(父は5歳のとき蒸発)の反対を押し切ってキューバ中部のサンタ・クララに移り住んだ。同地で結婚しミュージシャンとしての名声を高めたかれは、28年、妻をともなってハバナへ移住。「南京豆売り」の作者として知られるモイセース・シモンズのオルケスタを経て、当時キューバで人気絶頂であったドン・アスピアス楽団にトランペッターとして加入。残念ながら「南京豆売り」の歴史的セッションには参加していないが、その後の米国ツアーには同行している。

 アスピアス楽団は、31年3月から8ヶ月間に及ぶ合衆国ツアーで驚異的な成功を収める。いったん帰国ののち、すかさずヨーロッパ・ツアーを敢行し、ここでも熱狂的な称賛を受ける。パリ、ブリュッセルをまわってロンドンを最後にアスピアスは帰国するが、クエーバはその後もパリにとどまり、オスカル・カジェのバンドなどに参加した。ヨーロッパ時代のかれの演奏はつぎのCDなどで聴くことができる。V.A./ "CUBANS IN EUROPE VOLUME 2 :1929 - 1934" (HARLEQUIN HQCD 56(UK))OSCAR CALLE/ "1932 - 1939" (HARLEQUIN HQCD 124(UK))V.A./ 『ルンバの神話 第3集』(オーディブック AB113 [廃盤])

 34年には、かれにちなんで命名されたナイト・クラブ“ラ・クエーバ”のミュージカル・ディレクターを任されるに及んで、かれの音楽キャリアは絶頂期を迎える。その後、クエーバははるばるチュニジア、トリポリ(リビア)、ベイルート、リスボン(ポルトガル)にまで及ぶ長期ツアーを終えると、みずからのオルケスタを解散しスペインへ渡る。

 36年、スペイン共産党へ入党してまもなく、スペイン内戦(スペイン市民戦争)が勃発。マドリードにいたかれは、共和国政府支援のため義勇兵に志願して第46師団の軍楽隊を指揮した。しかし、ナチスの支援を受けたフランコ軍の前に共和国政府軍は敗退。クエーバは、フランスにある強制収容所に収監される。
 78日間に及んだ収容所生活から解放されると、39年、妻をともなって約10年ぶりに祖国キューバの土を踏んだ。しかし、かれの思想的信条のために仕事にありつくことができず、家族は困窮に陥った。

 そんなとき、サンタ・クララに拠点を構えるタバコ会社とラジオ局CMHIのオーナーであったアマード・トリニダードより、かれが所有するオルケスタのミュージカル・ディレクター就任の要請があった。これを二つ返事で受けたクエーバは、グループ名を“オルケスタ・モンテカルロ”と改名し、オルランド・ゲーラ・“カスカリータ”をはじめとする有能なミュージシャンを招聘した。CMHIラジオを通じて流れたかれらの音楽は反響を呼んで、かれらの名はたちまちキューバ中に知れ渡った。気をよくしたトリニダードは、ハバナにあるラジオ局RHCカデナ・アズールを買収。この間、クエーバとカスカリータは、“オルケスタ・エルマノス・プラウ”にも参加し(ORQUESTA HERMANOS "PALAU LA OLA MARINA", TUMBAO TCD-035(CH))、かれらの演奏はラジオ・カデナを通じてキューバ国中に発信された。

 そして、ついに1942年、クエーバは念願であった自分のオルケスタを結成。キューバPSP(人民社会主義者党)が運営するミル・ディエス・ラジオ局と専属契約を結ぶに至る。カスカリータのヴォーカルをメインに据えた、3サックス、2トランペット、ピアノ、ベース、トゥンバドーラ(コンガ)、ボンゴ、ドラムスからなるアンサンブルは華麗さと剛直さを併せ持った最強の布陣。クエーバの社会主義的な思想を少なからず反映した楽曲がレパートリーに含まれていたにもかかわらず、説教臭さは微塵もなくどこまでも陽気でダンサブル。44年には人気投票でナンバー1のオルケスタに選ばれるまでになった。

 本盤は、1944年から47年までの全盛期の音源19曲を収録。そのうちの15曲がカスカリータのリード・ヴォーカルであることから察するに大半が44、45年の録音ではないか。他の4曲は、マヌエル・リセア・“プンティリータ”とレイナルド・バルデース・“エル・ハバオ”が2曲ずつ歌っている。スクラッチ・ノイズが多少気になるが、クエーバの手になるグァラーチャ主体の演奏は、ミゲリート・バルガスの唱法をまねたカスカリータの芝居がかったファンキーなヴォーカルを中心に、ぶ厚いホーン・セクション、熱くタイトなパーカッションがからむおおらかだが密度の濃い内容。音を練り込んで一気に吐き出すような粘りのあるビートが特徴といえる。

 なかでも注目したいのは、サックスのアンサンブル。いわゆる黒っぽいジャズのノリではなくて、グレン・ミラーなどのスイングの流麗でうねるようなアンサンブルはキューバ音楽にはめずらしい。また、'EL ARPA Y LA VAQUITA' などで聞くことができるアルト・サックスのソロも正統派のジャズの流れではなくて、指のすき間から音がポロポロと滑り落ちていくようなフリー・ジャズ的な感覚がある。キューバ音楽のなかでも屈指のサックス・ソロだと思う。

 後年、プロテスト・ソングとして知られるようになる陽気なグァラーチャ'DESINTEGRANDO' 'CASTILLITOS EN EL AIRE' 、ボンゴが大暴れするファンキー・ナンバー'YA T'A' 、カスカリータとドナルド・ダックのようなヴォーカルがユーモラスな掛けあいを演じる'PASITO PALANTE' 、野性的なコンガをフィーチャした'OYE MI BOMBO' など、捨て曲なしの充実した内容といえる。プンチリータとエル・ハバオのヴォーカルも、カスカリータほどのエンターテイナーぶりには欠けるものの、バックを煽りながらグイグイと引っぱっていく力づよさに満ちている。

 しかし、いちばんのお気に入り曲はノンキで陽気なグァラーチャ'SABANIMAR' 。クラリネットのイントロに導かれて、カスカリータがボンゴと対話しながら余裕たっぷりに歌う。途中はさまれるアルト・サックスのソロもなかなかである。この曲は、50年代はじめの録音と思われるORQUESTA DE JULIO CUEVAS / ORQUESTA GIGANTE DE CHEPIN "GRANDES ORQUESTA CUBANAS"(SONORA CUBANA/VIRGIN 8485662(EP),1999)でも再演されている。ここでのヴォーカルはプンチリータ。バリトン・サックスが加わって、サウンドに厚みとファンキーさが増したこちらの演奏も本盤に負けず劣らずすばらしい。

 すばらしいといえば、トゥンバオからもう1枚、43年から45年の演奏14曲に、カスカリータが参加した“オルケスタ・デ・ベボ・バルデース”の2曲を加えた"LA BUTUBA CUBANA"(TUMBAO TCD-083(EP),1994)も捨てがたい。オリジナル中心のTCD-083にくらべて、約半数が他人の曲だが、カスカリータの代表曲ともいえそうなクエーバ作の'CAMISA SIN BOTONES' も収録されていてあなどれない内容。ジャケットもよい。

 これほどまでに充実した音楽を創作しつづけていたにもかかわらず、1952年にアメリカの支援を受けたバティスタがクーデターで政権を奪取するや、クエーバは音楽活動の場を奪われ、翌年、オルケスタを解散せざるをえなくなる。日々、貧困がかれと家族を蝕んでいき、58年には最愛の妻を失い、クエーバは孤独の身にさらされることになった。60年にバティスタ政権が倒れキューバ革命が成就したのちも、75年に死去するまでクエーバは2度と音楽の第一線に返り咲くことはなかった。



(6.16.02)


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by Tatsushi Tsukahara