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Title

再発見・ニッポンの音/芸[10]
洋楽ポップスの系譜


yougaku pops
Date 1930s - 1940s
Label テイチク TECR20180 (JP)
CD Release 1995
Rating ★★★★★
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Review

 昭和9年(1934)、大阪に創立されたテイチクは、昭和はじめに外国資本で設立された日本コロムビアやビクターなどのレコード会社に追いつこうと、重役兼文芸部長兼作曲家として新進のヒット・メイカー古賀政男を招聘し制作の全権を委ねた。このとき、淡谷のり子の紹介で専属契約したのがディック・ミネである。テイチク文芸部が反対するのを古賀のツルのひと声で昭和9年11月に録音、翌年1月に発売された「ダイナ」「黒い瞳」は空前の大ヒット。このことに味をしめて、以後、テイチクはジャズに力を入れていく。

 古賀はディックの声を高く買っていた。だから「二人は若い」(玉川映二詞・古賀政男曲編)や「人生の並木路」(佐藤惣之助詞・古賀政男曲編)のような日本調の流行歌をうたうのと引き換えに、ディックがやりたいようにさせてくれた。ディックはジャズやポップスなどの外国曲を探してきては、これらにみずから日本語詞を付けてうたった。こうして発表されたカヴァー曲は、戦前だけで優に100曲を超えるという。

 ディックは、ギターやドラムスもよくした。なかでもスティール・ギターはインストのレコードを出すほどの腕前だった。また、編曲にも多く手がけ、さらに、南里文雄(トランペット)、トーマス・ミスマン(サックス)、杉原泰蔵(ピアノ)、中沢寿士(トロンボーン)、大久保徳二郎(サックス)、小泉幸雄(アコーディオン)ら、一流のミュージシャンを引っぱってくるプロデューサー的な役目もこなすというマルチぶり。

 中村とうようさんの企画・選曲・監修による“再発見・ニッポンの音/芸”シリーズ全10タイトルの最終集をかざる本盤は、『洋楽ポップスの系譜』とあるように、昭和10年(1935)からおそらく昭和24年(1949)ごろまでに発売された、ジャズあり、タンゴあり、シャンソンあり、ハワイアンありの外国曲のカヴァー集。戦前、これら外国曲は“ジャズ”または“ジャズ・ソング”と総称されていた。つまり、この場合の“ジャズ”とは音楽スタイルというよりフィーリングをさす。そして、戦前にこのジャズのフィーリングを身に付けていた数少ない日本人のひとりがディック・ミネだった。

 このアルバムでディック本人が歌または演奏で参加しているのは全19曲中6曲だけれども、その他の多くの曲でもなんらかのかたちでディックがかかわっている。そういう意味では“ディック・ミネとその仲間たち”といってもおかしくない。

 ディック・ミネのジャズ・ソングを中心に収録したCDには、『ジャズ・ソングス』(テイチク TECE-25002)『リマスターボイスによるディック・ミネ・メモリアル大全集』(テイチク TECE-38403-4)がある。しかし、本盤の6曲はいずれのアルバムにも未収録。
 「ダイナ」「セントルイス・ブルース」は、南里文雄とホット・ペッパーズのピックアップ・メンバーからなる昭和10年(1935)1月発売のヴァージョン(以後、10年ヴァージョン)ではなく、赤坂溜池のダンス・ホール「フロリダ」出演のために来日していた黒人バンドA.L. キング楽団と共演した翌11年1月発売のヴァージョン(以後、11年ヴァージョン)を収録。

 10年ヴァージョンは南里のトランペットとスティール・ギターをフィーチャーした2ビート調だったが、11年ヴァージョンではアレンジがはるかに緻密になって、より本格的なジャズっぽい仕上がりになっている。
 「ダイナ」は、10年ヴァージョンではすべて日本語だったのにたいし、11年ヴァージョンでは1コーラスめは日本語、2コーラスめは流ちょうな英語でうたわれる。スウィング調のスリリングな演奏にディックのヴォーカルはうまくリズム感をつかんでいる。
 「セントルイス・ブルース」は、ルイ・アームストロングを意識した作りに生まれ変わった。前半をディックが日本語で、後半をA.L. キング楽団の歌手が英語でうたっている。ちなみに10年ヴァージョンとは別の日本語詞が当てられている。

 昭和10年(1935)10月(11月とも)発売の「君いずこ」では、ディック本人が訳詞と編曲を担当。原曲は'SOMEBODY STOLE MY GAL' といい、ビックス・バイダーベックやベニー・グッドマンの楽団の演奏で知られる軽快なナンバー。吉本新喜劇のテーマ曲に使われているといえば、どんな感じかイメージできるでしょう。

 「ジーラ・ジーラ」は、フロリダなど日本のダンス・ホールでよく演奏されたアルゼンティン・タンゴで、昭和10年(1935)9月(10月とも)の発売は淡谷のり子とならんでもっとも古い日本語カヴァーではないか。ディックはこの直後、古賀政男が書いた和製タンゴ「夕べ仄かに」(島田芳文詞・トーマス・ミスマン編)をうたっているし、ほかにも数多くのタンゴ曲をとりあげている。そういえば、昭和14年(1939)発売でディックの代表曲に数えられる傑作「或る雨の午後」(島田磬也詞・大久保徳二郎曲・杉原泰蔵編)も和製タンゴだった。

 つづく「マリネラ」は、ティノ・ロッシがうたったフランス製ルンバで昭和13年(1938)2月発売。クラベスが刻むシンキージョ(キューバ音楽独自の5つ打ち)のリズムにアコーディオンがフィーチャーされるさわやかなナンバー。バックのバンジョー(?)のリズムの刻みかたが、インドネシアのクロンチョン風に聞こえる。

 前にふれたように、ディックはヴォーカルばかりでなくスティール・ギターを演奏したインストものもたくさん発表している。ところがLP時代も含め、インストものはまったく復刻されておらず、おそらく本盤の「アイルランドの娘」が唯一の復刻だろう。
 「アイルランドの娘」のヴォーカル・ヴァージョンは昭和11年(1936)11月発売のヒット曲。インスト・ヴァージョンも演奏の感じからして同時期の録音とみていいだろう。ヴォーカル・ヴァージョンでもディックがうたうのはワン・コーラスのみで、残りはおそらくディック本人のスティール・ギターに、ギター、ウクレレ、ベースからなるハワイアン・スタイルの演奏がしめる。いっぽう、インスト・ヴァージョンのほうはおなじくハワイアン・アレンジながら、ディックのスティール・ギターと吉田末雄のギターの二重奏。シンプルだが心に沁みる演奏だ。

 こうしてみると、ディック・ミネの6曲で戦前のジャズ・ソングの傾向がほぼ尽くされていることがわかる。残りの13曲はそのヴァリエーションといっていい。

 昭和8、9(1933、34)年に、日本人離れしたすらりとしたスタイルでアクロバティックなダンスを披露し大ブレイクした日系三世の川畑文子と、彼女を慕って来日した幼なじみの日系二世のベティ稲田。文子は昭和10年1月にコロムビアからテイチクへ移籍するが同年5月にいったんアメリカへ帰ってしまった。つまりテイチクに残された34曲は、このわずか5ヶ月のあいだにあわただしく吹き込まれたもので、ディックは事実上のプロデューサーとして、じつにその3分の2以上を訳詞・編曲している。
 本盤には「上海リル」「月光価千金」を収録。ともにディックの訳詞・編曲。このうち「上海リル」は文子のテイチク移籍第1弾として発売された。ディック本人もうたっているが別の詞があてられている。ちなみに、自由劇場の舞台劇『上海バンスキング』で、吉田日出子は、文子の歌をヒントにこの2曲をうたった。

 本盤にはもう1曲、文子が参加した曲がある。文子の弟子チェリー・ミヤノがうたった「おお、チェリー」がそれで、文子は間奏部でタップを披露。チェリーの危なっかしい歌より、むしろ文子のタップが主役といった感じだ。

 ベティ稲田は、文子より3歳上で、昭和8年(9年とも)19歳(20歳)のとき日本へやって来た。川畑文子が昭和14年(1939)に芸能生活から引退してしまったのにたいし、ベティは昭和13年(1938)にディック・ミネの満州慰問公演に同行するなど、戦中戦後、日本で芸能活動を続けた。戦後になって、ディックの斡旋でテイチクと契約。おなじ二世のバッキー白片と組んでハワイアンを中心にうたった。
 本盤収録の「ミリヒニ・メレ」はバッキー白片とアロハ・ハワイアンズの伴奏で昭和21年(1946)録音。さすが元フロリダの歌姫。日系アメリカ人歌手のなかでは随一の歌唱力といわれただけのことがある。できれば、ジャズを聴いてみたかった。

 テイチクのポピュラー音楽の特徴は、ジャズとともにハワイアンが充実しているところにある。これはつまり、ディックが無類のハワイ音楽好きだったことが影響している。昭和14年(1939)には、ディックの推ばんにより日本におけるハワイ音楽の草分け、バッキー白片がテイチクの専属プレイヤーになった。

 バッキーは、戦時中、ディックと行動をともにしたが、戦後は独立してアロハ・ハワイアンズを結成した。「フラ・ブギ」はバッキーのオリジナル曲。タイトルのとおり、服部良一笠置シヅ子のコンビで一世風靡していたブギとフラをくっつけたインスト・ナンバーで昭和24年(1949)の発売。といっても、すこしもブギらしくなく、どちらかというとハワイアン調のジャズといったところ。

 本盤のラストをアロハ・ハワイアンズの「ラ・パロマ」でしめるところが、いかにもとうようさんらしい。「ラ・パロマ」は、19世紀にスペインの作曲家イラディエールがキューバ滞在時に流行していたハバネラのリズムをとりいれて書いた曲。世界中で愛好されたことから、とうようさんはこの曲をポピュラー音楽の第1号として事あるごとにとりあげている。解説にあるとおり、リズムはビギン風、ギターとウクレレのアンサンブルはインドネシアのクロンチョン風という不思議な演奏。

 このほかにも戦前、バッキーとならぶスティール・ギターの名手といわれた村上一徳のサザン・クロス・カレジアンスがサッチモに挑んだノリノリのジャズ風ナンバー「タイガー・ラグ」、灰田晴彦・勝彦兄弟のモアナ・グリー・クラブがビクターと専属契約を結ぶ前の昭和9年(1934)にテイチクから発売された名曲「リリウ・エ」など、貴重な和製ハワイアンを収録。

 ディックは、戦時中、国籍の問題で苦労していたベティ稲田やバッキー白片の面倒をよくみた。昭和14年(1939)のディックとベティの満州巡業に同行したアコーディオンの名手、小泉幸雄もかれの世話になった一人。ディックは電気化されたばかりのリッケンバッカーを持って、小泉のアコーディオン、ベティの歌と3人でステージに立った。昭和17年(1942)戦時中に発売された「プレジャンの唄」は、小泉が編曲を担当した憂愁のワルツでディックの知られざる名演(本盤には収録されていない)。
 昭和10年(1940)発売の「ドン・ホセ」は、小泉のアコーディオンと宇川隆三のギターとのデュエット。スペインのパソドブレ調の軽快で歯切れのよい演奏は古さを感じさせない。

 昭和14年(1939)1月に古賀政男がテイチクを去ると、ディックはサックス奏者だった大久保徳二郎を新たなパートナーに指名。このコンビに、上海帰りのピアニスト杉原泰蔵の編曲、流浪の詩人、島田磬也の作詞で発表した「或る雨の午後」「上海ブルース」は大ヒット。
 宝塚出身の女優、轟夕起子がうたった「あの日、あの時」は、大久保作曲、杉原編曲で、「或る雨の午後」「上海ブルース」とおなじ14年1月の発売。外国曲ばかりのなかにあってはいかにも日本的なメロディに聞こえるが、杉原のスウィンギーなピアノを中心にテンポアップしていく構成は当時の日本の流行歌としては画期的だった。戦前の和製ポップスの知られざる傑作である。

 大正12年(1923)の関東大震災によって多くのジャズメンたちが関西に流れてきたことから、震災後の大阪はダンス・ホールのメッカとなった。ところが、大正天皇崩御のさいにも堂々と営業していたことが大阪府警の怒りを買い、昭和2年(1927)末、大阪中のホールは事実上、営業停止に追い込まれてしまった。
 そこでやむなく兵庫や奈良など大阪府に隣接した地区にいくつものダンス・ホールが建つことになった。四ホール連盟オーケストラは、尼崎にあった4件のダンス・ホールから選抜されたオールスターズ。大正末から昭和はじめ、ダンス・ホールではフィリピン人のプレイヤーが中心だった。昭和8年(1933)録音の「ハット・スタッフ」は、ヴィディ、グレゴリオ、レイモンドの有名なコンデ3兄弟を中心とするフィリピン人プレイヤーたちの貴重な記録である。

 マリー・イボンヌはれっきとした日本人で、フロリダのダンサー兼歌手だった上村まり子のこと。テイチクからタンゴやシャンソンのレコードを出すうちに、この芸名を名のるようになった。スペインの歌姫ラケル・メレの持ち歌「おお、セニョリータ」は、古賀政男の編曲で明大マンドリン倶楽部が伴奏している。いかにも古賀らしい「ブンチャ、ブンチャ」というリズムがベタで野暮ったく好きになれない。「愛の言葉を」も古賀の編曲でおなじく昭和10年(1935)発売。ピアノ、ギター、ヴァイオリンなどのひかえめな伴奏でいボンヌが可憐にうたうワルツ調のシャンソン。
 イボンヌはこの翌年、名門出身でアメリカ帰りのハンサムなタップ・ダンサー、中川三郎と電撃結婚した。

 このあいだ、小津安二郎の昭和5年(1930)のサイレント映画「朗らかに歩め」を見たときもそうだったが、昭和初期から昭和15年ぐらいまでの日本は(といっても大都市にかぎられるが)、思っていた以上にモダンだったという印象をもった。とくに昭和11年の二・二六事件、翌年の日中戦争の勃発以降は暗黒の時代のように思っていたが、日本のジャズがもっとも成熟したのは、意外にも昭和10年(1935)から日米開戦直前の16年(1941)までの時期なのだ。
 国粋主義の高まりのなかで、ジャズは享楽・頽廃の象徴として目の敵にされることもあったろう。しかし、本盤がしめすとおり、昭和16年に敵性音楽として禁止されてもなお、姿かたちを変えてギリギリまでしぶとく生き残ったというのはなんだかうれしくなる話である。


(2.7.06)



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by Tatsushi Tsukahara