World > Africa > Cameroon | ||||||||||||||||
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Artist | ||||||||||||||||
MANU DIBANGO |
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Title | ||||||||||||||||
SOUL MAKOSSA |
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Review |
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マヌ・ディバンゴは、すでに76年発売のアルバム『マヌ76』でレビュー済み。しかし、あれはよくない。マヌの音楽のつかみどころのなさを批判してはいても、そのつかみどころのなさがどこから来るのか、まったく論じられていないからだ。 最近では“アフロ・レア・グルーヴ”といわれるマヌの音楽だが、どちらかといえば苦手な部類に属する。それをいいことに、きちんと調べるどころか、まともに聴きもしないでいい加減にレビューをしてしまった。反省しきりである。 そこで、1アーティスト1アルバムのルールに反するけれども、わたしなりにマヌ・ディバンゴを再考してみようと思う。 いまから10年ぐらい前、音楽評論家の湯浅学さんは、「ミュージック・マガジン」でアルバム『アフロヴィジョン』をレビューしたさいにマヌを“タコ”と称した。この日本人ならではのあまりにわかりやすいたとえに、かえって意表を突かれ「一本とられた」思いをしたものだ。 タコといえば明石を想像するひとが多いと思うが、わたしが住む愛知県にある日間賀島はタコの島といわれるぐらいタコ漁がさかんなところ。わたしはこの島で採れた新鮮なタコを使って「タコの丸茹で」を作ることがある。8本の足がくるりとバランスよく巻き上がり、寸胴鍋の中央部からポッカリと浮かび上がる頭頂部(ホントは胴体だが)は赤というより赤みがかった黒というのが正しい。茹でるさいに「たまり」(大豆のみから作る東海地方のしょうゆ)をひと差しすることで、赤黒さにいっそうの深みを与えている。鍋から上げたばかりの茹でたてのタコは、海の香りを強烈に放ちながらモウモウと湯気を立てている。この景色がまさにマヌ・ディバンゴなのだ。イメージできないというひとは日間賀島(観光協会 http://www.himaka.com/)へ行こう(「タコの丸茹で」はホントにうまい。冬は遠州灘のトラフグ料理もおすすめ)。 さて、このカメルーン産のタコが、ドクトゥール・ニコやタブ・レイ・ロシュローを輩出したグラン・カレことジョゼフ・カバセル率いるコンゴ〜レオポルドヴィル(のちのザイール)の名門オルケストル、アフリカン・ジャズに参加していたことは知る人ぞ知るエピソード。 きっかけは、60年にブリュッセルでおこなわれたベルギー領コンゴ独立のための円卓会議にアフリカン・ジャズが同行してきたこと。これがヨーロッパでアフリカ産のポピュラー音楽が本格的に紹介されたほとんどはじめてのケースだったという。 医者か弁護士になる目的で15歳のときにパリへ留学して以来、ヨーロッパで生活してきたマヌは、当時プロのミュージシャンとしてブリュッセルにいた。クラシックやジャズの素養を身につけていても、アフリカの音楽についてはなにも知らなかったたマヌにとって、アフリカン・ジャズとの出会いはショッキングだったようだ。 マヌがメンバーに加わったのは、アフリカン・ジャズがふたたびブリュッセルにやって来た61年6月のレコーディングから。わずか2週間であったが、この間にかれらはなんと40〜50曲という驚異的なペースでレコーディングをこなした。ニコの兄ドゥショーが書いた大ヒット・ナンバー'AFRICAN JAZZ MOKILI MOBIMBA'(のちに'AFRICA MOKILI MOBIMBA' 「アフリカから世界へ」と改称)もこのときにレコーディングされたらしい。 アフリカン・ジャズにあってマヌのエトランジェ(よそ者)ぶりがよく出ているのが、"MERVEILLES DU PASSE VOL.1"(AFRICAN/SONODISC CD 36503)収録のロシュローが書いたナンバー'BONBON SUCRE'。この曲には当時のルンバ・コンゴレーズではきわめてめずらしいピアノが入っているが、そのピアノを弾いているのがマヌ本人。また、同CD収録のティノ・バローザが書いた'MAYELE MABE' においても、コンゴのプレイヤーにはマネできそうにないジャジーなサックス・ソロを聞かせてくれている。 このマラソン・セッション後、マヌはカバセルの誘いでコンゴへ渡る。マヌは一般に63年までアフリカン・ジャズに在籍したとされるが、コンゴには滞在したもののグループは案外と早い時期に脱退していたのではないか。というのも、62年にアフリカン・ソウルといういかにもマヌらしいバンド名で、'TWIST A LEO' というこれまたマヌらしいタイトルのヒットを放っているからだ。しかし63年、コンゴを後にしていったん故郷カメルーンへ帰り、65年からふたたびパリに拠点を移している(混迷するコンゴの政情と無関係ではなかったろう)。 あるとき、マヌはメンバーに見捨てられパリに来ていたカバセルとばったり再会。そこで、カバセルを中心に、コンゴ〜ブラザヴィルの名門、オルケストル・バントゥを辞めてパリにいたサックス奏者エッスー、O.K.ジャズのシンガーをつとめたムジョス、クァミー、エド、それにオルケスタ・アメリカ出身のキューバ人フルート奏者ゴンサーロ・フェルナンデスらとアフリカン・チームを結成する。この豪華なメンバーによる歌と演奏は、現在、GRAND KALLE & L'AFRICAN TEAM として"1967・1968・1970"(SONODISC CD 36543)と"ESSOUS/KWAMY/MUJOS/EDO/CASINO..."(AFRICAN/SONODISC CD 36570)の2枚がCDリリースされている。 その中味はというと、エンリケ・ホリンやオルケスタ・アラゴーンに代表されるヴァイオリンやフルートを加えたチャランガ編成によるダンソーンやチャチャチャの流れを汲む優雅なルンバ・コンゴレーズが中心。しかし、当時のコンゴのミュージック・シーンからして、このサウンドはもうあきらかに時代遅れ。ただ、コンゴで独自に進化を遂げたルンバがパリで本物のキューバ音楽と出会った意義は大きい。90年代になってセネガルのアフリカンドあたりから、アフリカ音楽とキューバ音楽のミュージシャンが共演する機会は多くなったが、カバセルはこれに先立つこと20数年以上も前に早くも実現させていた。 アフリカン・チームにマヌがどの程度かかわっていたかはわからない。ただ、メリハリが効いたサックスやピアノのプレイ、ヴァイオリンを使った緻密なアレンジなどに、ジャズやクラシック音楽を学んだマヌの痕跡はたしかにうかがえる。 もう1枚、'SOUL MAKOSSA' でブレイクする以前のマヌが聴ける貴重なアルバムが、コンゴ〜ブラザヴィル出身のシンガー、フランクリン・ブカカ Franklin Boukaka のソロ・アルバム"FRANKLIN BOUKAKA A PARIS"(SONAFRIC/SONODISC CD50048)である。70年に発売されたこのアルバムで、マヌは全面的にサウンド・プロデュースを任せられた。 ブカカの甘美な歌声を別にすれば、ルンバ・コンゴレーズのにおいはまったくといっていいほど感じられない。マヌ本人と思われるピアノを伴奏の中心にすえたアコースティックな肌ざわりのする上品な洋風ポップスのおもむきがある。当時、R&Bのキング・カーティスに傾倒していたというマヌ自身のサックスを別にすれば、ソウル〜ファンク色はあまりないものの、多重録音を駆使してクールで緻密に構成されていく独自の音世界はすでに完成の域といっていい。 ところで、コンゴ〜ブラザヴィル(いわゆるザイールじゃないほう)では、69年、軍部左派のングアビ少佐が政権を掌握し大統領に就任した。72年2月、そのあまりに性急な社会主義政策に不満を持った軍の一部分子がクーデターを起こすもあえなく鎮圧。このさわぎでブカカは大統領軍によって殺害されてしまった。このショッキングな出来事を知らなければ、健康的で引っかかるところがない平凡なアルバムと見過ごしてしまっただろう。 しかし、この“平凡”こそがマヌの音楽を解くキーワードなのだ。わたしがいう“平凡”とは、“読め読め”“安直”“予定調和”ということ。これにさらに“底の浅さ”を加えるべきかもしれない。“底の浅さ”は、マヌのパーソナリティ形成にアフリカの生活文化が深くかかわってこなかったところから来ている。大ヒット・ナンバー'SOUL MAKOSSA' がカメルーンの伝統的なリズムから派生したダンス音楽“マコッサ”と関係ないことはマヌ本人も認めるところ。そんな“底の浅さ”が、ジャズであれ、ラテンであれ、ファンクであれ、ロックであれ、ジュジュであれ、レゲエであれ、ハウスであれ、何にでも抵抗なく進んでいける“無節操”を可能にしている。 あらゆるジャンルの音楽の要素が、マヌのなかで“記号”として並列的に配置されている図が頭に浮かぶ。タコの脳は時代を敏感に感知すると、これにふさわしい記号をいくつか取り出してきて、それらを足したり引いたりしながら知的に組み上げていく。こうしてまさに、原田尊志さんのことばを借りれば「周到なスタジオ・ワークからつくり上げられたクールで、テクニカルなビート感」が生まれる。 ミュージシャンとしてだけでなくプロデューサー的な資質にも秀でていたマヌは70歳(1934年生まれ)を過ぎた現在もバリバリの現役として第一線で活動している。しかし、一般には'SOUL MAKOSSA' がブレイクしてアフロ・ファンク路線をつき進んでいた70年代なかば過ぎまでがベストといわれている。 94年にボンバからこの時期の音源ばかりを集めたCDが5枚一気に復刻された。ラインナップはつぎのとおり。 (1)『ソウル・マコッサ』"SOUL MAKOSSA" 1971/1972(本盤) (2)『スーパー・クンバ』"SUPER KUMBA" 1973/1974(ボンバ BOM2059) (3)『アフリカデリック』"AFRICADELIC" 1975(同 BOM311) (4)『マヌ76』"MANU 76" 1976(同 BOM312) (5)『アフロヴィジョン』"AFROVISION" 1976(同 BOM313) (1) は、"O BOSO" のタイトルで72年に発売されたオリジナル・アルバム7曲に'SOUL MAKOSSA' をはじめとする71、72年のシングル8曲を加えた15曲構成。(2) は、'SOUL MAKOSSA' の大ヒットを受けて73年に発売されたアルバム"MAKOSSA MAN" から6曲、翌74年の"SUPER KUMBA" から6曲にシングル1曲を加えた全13曲構成。(3) から(5) は、オリジナル・アルバムを忠実に復刻。そのためいずれも収録時間は30分台と短い。70年代のマヌの演奏は数多く復刻されているけれども、これほどまとまって体系的にリリースされたのはボンバ盤を除いてほかにない。現在すべて廃盤というのが惜しまれる。 上の5枚は、わたしのようないわゆるアフリカのポピュラー音楽好きよりも、ファンクやソウル・ジャズが好きなひとたちから人気があるみたいで、試しにヤフオクで検索してみたら“ワールド”でなく、“R&B、ソウル”と“ジャズ”のコーナーでみつかった。 『マヌ76』と『アフロヴィジョン』はなかでも最高傑作とされているが、ファンのあいだではもともと映画のサウンド・トラックとしてつくられたインスト・アルバム『アフリカデリック』の評判が高いようだ。なるほどいわれてみれば、5枚のなかではもっともジャズ・ファンクっぽいし、ファズ・ギターやオルガンからはサイケな香りが立ちのぼり現代性がもっとも感じられる。反面、ただでさえ稀薄なネイティブ・アフリカの要素がいっそう薄まっているのが気になる。 『スーパー・クンバ』は、'SOUL MAKOSSA' のスタイルを踏襲しながらも、手を代え品を代え、よりポップに仕上げられた印象を受ける。アイデアは多彩ながら“平凡”がもっとも実感できるアルバムといえよう。 今回はじめて、これら5枚を集中して聴き込んでみた。それまではどれも似たり寄ったりと思っていたのが、こうしてみるとアルバムごとの個性が感じられそれはそれで楽しむことができた。そんななか、個人的にもっともしっくりきたのが本盤。われながら驚いたのは、おもしろいと感じたナンバーはすべて大ヒット曲'SOUL MAKOSSA' 以前の71年にレコーディングされたものばかりだったこと。これらは、ソウル〜ファンク系もあるが、それ以上にキューバ系ラテン音楽の影響がつよく感じられるのが特徴。アフロ・ファンクとしてのマヌはいろんなところで語られているだろうから、ここではマヌのラテン音楽に絞って論じてみようと思う。 マヌのラテン・サウンドのベースには、黒っぽいソン・モントゥーノやグァグァンコーではなく、ヨーロッパ色がよりつよいダンソーンの流れがある。だから、ことラテンにかんしては“ファンキー”のイメージとはうらはらに、思わず口ずさみたくなる陽気で人なつっこいリフレイン、リリカルなフルートやヴァイオリンの優雅な旋律がよく使われている。 'AFRIKANI' は、そんなダンソーン系の陽気な感覚がよくでた隠れた名演。通常のチャチャチャよりテンポはかなり速めだが、フルート、ヴァイオリン、サックス、ピアノ、ギター、パーカッションなどのアンサンブルが絶妙で、密度の濃いアレンジは本家本元の上を行っている。このウキウキ心躍るムード、むしろアフリカン・ジャズの'AFRICA MOKILI MOBIMBA' に近いかもしれない。 'AFRIKANI' とならぶラテン・ナンバーの傑作が'NGOLOWAKE'。ゆったりしたノリがソンのようにも聞こえる。といってもリズムが途中タンゴを刻んだりして、パーカッションにメリハリはあってもキューバ音楽特有の“タメ”が感じられない。そのせいか、ラテン的なセンティメントを欠いてしまっている。このクールな感覚がマヌ風なのだろう。 マヌの知的な構成美がよく発揮されたラテン風ナンバーが'LILY'。コーラスの印象的なリフレインにフルート、サックス、ヴァイオリンが重なって、のんびりしたムードのなか、歌と演奏はつづくが、後半部にはいると突如、ファンク〜ソウル・モードに早変わり。JB風シャウトも登場してきて煽るわ、煽る。しかし、ここでもどこか醒めた感じは隠せない。 このあともマヌはサルサのファニア・オール・スターズとの共演、80年発売の"GONE CLEAR" と"AMBASSADOR" ではレゲエにチャレンジ、90年前後には汎カリブ的アプローチ、最近はキューバのクァルテート・パトリアと共演というように、ラテン・アメリカ系の音楽にはたえず関心をむけてきた。しかし、今回の検証作業をつうじて、マヌのラテン趣味の原点にあるのは、カリブ海の音楽というよりも、やはりルンバ・コンゴレーズなのだなと実感してしまった。マヌの音楽はアフリカらしくないといわれるけれども、しっぽり感を欠いたラテン音楽消化の作法はいかにもアフリカ的といえそう。 最後に、『マヌ76』をレビューしたさい、「ソウル・マコッサ」は、イタリア映画音楽の巨匠、というよりダバダバ系モンド・ミュージックの巨匠、アルマンド・トロヴァヨーリが作曲したよがり系セクシー・ソウル風ナンバー「セッソ・マット(色情狂)」のパクリと断じてしまった。映画"SESSO MATTO" の公開が73年、「ソウル・マコッサ」がフランスでヒットしたのが72年だったことを考えあわせると、パクったのはトロヴァヨーリのほうととるのが正解だろう。 それにしても、マヌのザラザラしたウィスパー・ヴォイスをセクシーなよがり声、笑い声に変えてしまったトロヴァヨーリの発想力には脱帽するほかない。 |
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(9.4.02) |
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