沿革

 

1.はじめに   2.梶田繁政について   3.伽藍の変遷

 

1 はじめに

 

   慈眼寺は、曹洞宗に所属し、森の石松で有名な遠州森町の大洞院から分かれた小牧市の福厳寺の末寺にあたります。福厳寺が創建されたのは、応仁の乱の終わった文明10年(1478年)とされ、慈眼寺はその福厳寺5世養拙和尚によって大永6年(1526年)に草創されたことになっている。桶狭間の戦いの約30年前のことです。

  ただ、記録に寺院活動が残っているのは、文化元年(1804年)からです。此処で福厳寺22世義山和尚によって慈眼寺として正式に開山されており、この頃から過去帳の整備もなされています。

  このように、草創と開山の間に約300年の隔たりがあり、この間の記録がまるで残っていない事から考えると、大永6年の草創というのは名目的なものであって、福厳寺と実質的なつながりができたのは、文化年間以後と見るのが素直でしょう。

 

  では、それ以前には寺院の痕跡は無かったかといえばそうでもありません。当時このあたりには天台宗密蔵院(熊野町)傘下の寺堂が多数あって、織田信長の延暦寺焼討(1571年)を契機に、密蔵院の勢力が衰退するとともに、その傘下を離れ比較的新興勢力であった曹洞宗や臨済宗に鞍替えしてしまったと思われます。この記録空白の期間に何らかの寺院活動の存在したことは、秀吉の武将であった梶田繁政(1628年没)の位牌に、慈眼寺や福厳寺の記録にもない「現住泰彭」という銘があり、また文化にわずか先立つ享和年間に慈眼寺の名で,切支丹改めが行われていた記録(福厳寺への報告)があることからもうかがわれます。即ちこの過渡的な時期には、遊行僧を泊めたり、また福厳寺から派遣される留守番僧によって日常の寺院活動が行われていたと想像されます。

  そして、文化年間以後は、正式な慈眼寺住職が存在し、開山の義山和尚から平成の浩道和尚まで8世代をかぞえます。

 

  もう一度明らかにしておくと、正式の住職は義山和尚からはじまるのですが、それは明確に福厳寺末として系列化された後の事であって、その前にも何人かの僧が住持していたと考えるべきでしょう。   

歴代住職として名をとどめるのは、開山義山(1848年没)、2世巨海(1839年没)、3世卓成(1862年没)、4世道宗(1898年没)、5世宗苗(1927年没)、6世黙笑(1941年没)、7世黙定(1996年没)および8世浩道(現住)である。

 

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