沿革

 

1.はじめに   2.梶田繁政について   3.伽藍の変遷

 

2  梶田繁政について

 

  慈眼寺の歴史を見るうえで、避けて通れないのが梶田繁政である。

そもそも梶田氏は、その昔加治田と称し、現在の岐阜県関市のあたり※に住んでいた、当時の新興勢力であった。織田信長に加担すべく、蜂須賀小六などとともに美濃から尾張に移ってきたものと考えられる。このころは、こういう一旗組みがいたるところにウヨウヨしていたのであろう。これは、繁政の先代直繁の時である。その息子である繁政は、秀吉に仕え後に福島正則の家老になっているが、福島が広島から信州松代に改易されたのを機に尾張へ帰り当地で隠居したとされている。この繁政の代に、加治田を梶田と改めたようである。

繁政はNHKの大河ドラマ「秀吉」にも登場しており、俳優の名前も出ていたが、蜂須賀小六ほど有名でなかったせいか、私にはどれが繁政であるかわからなかった。また、司馬遼太郎の小説「太閤記」の稲葉山城攻めの段にも出てくる。このときは藤吉郎と一緒に稲葉山の裏から登る役回りであった。わりに矮小化された人物像で描かれている。蜂須賀が阿波の殿様になったのに、同僚であった梶田が福島の家老にしかなれなかったのは、やはりこの程度の人物だったのだろうか。

 

  さて、この梶田繁政の位牌と、墓は慈眼寺にある。墓は境内ではなく少し離れたところにあって五輪様と呼ばれている。今は住宅地の真ん中にあるが、以前は水田の中に島のように塚があってそこに五輪塔が立っていた。その碑文にはおよそ上に述べたような事が書いてある。それには、梶田氏は清和源氏の流れをくむ、武田信賢の子孫となっているが、この当時はこういうでっち上げがはやったそうである。かの、徳川家でさえ、新田義貞の末裔と称するためにでっち上げをやったという。

  この五輪塔が建てられたのは、繁政の死後約、200年経った文化10年(1813年)と記されている。ということは、この墓を立てたのは、数代後の子孫という事になるが、これをどう考えるかは、謎である。

 

因みに梶田氏の子孫は現存していて、名古屋市の北区に住んでおられる。その縁が判明したのは、昭和40年頃で、郷土史家の先生が、教師時代に受け持った女生徒が、梶田家に嫁いだことがきっかけになったのである。このときの梶田家の当主は、奇しくも「繁政」というお名前であった。

  位牌は、繁政と、その父直繁のもの2本があって、うらにはやはり碑文と同様のことが記されている。

  この梶田氏と慈眼寺の関係であるが、はっきりいってよくわからない。ただ2人の亡くなったのが江戸時代のはじめの頃であるから、現在の正統である福厳寺末としての慈眼寺から見れば、あまりその記録は残したくなかったのかもしれない。その葬式を慈眼寺でやったとか、祠堂金を寄付したと記録があることから、当時の寺が何らかの支援を受けていた事は考えられる。当地の口伝もそんなニュアンスである。

 

 

 

梶田繁政位牌

 

  慈眼寺位牌堂

 

伝 梶田繁政墓

 「ごりんさま」

下市場町四丁目

 
                  

                      

     

関市ではなくて加茂郡に加治田という地名があることがわかりました。多分ここではないかと思います。(平成15年2月)                                         

 

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