山と旅のつれづれ


旅のエッセー16



                                         PC絵画


2011年2月スタート。折に触れてゆっくりと更新してゆきます。












紀伊大島見聞記



紀伊大島樫野崎の景観


 大きな紀伊半島の先端、潮岬。いかにも南国的な明るい台地状の潮岬は先端というイメージより季節が良ければのんびりとくつろぎ
たくなるような芝生の丘だ。九州の薩摩半島長崎鼻、四国の足摺岬、室戸岬、伊豆の石廊崎など、断崖が織りなす海岸美とは打って変
わってやさしい風景に平凡だが癒される風景が展開している。

 その先に付随する小さな島、紀伊大島は連絡船に代わってとびきり快適な道路橋で本州最南端の地と結ばれていた。
 岬の一角の沖に浮かぶ岩礁のような無名の島を橋脚にして道路でつながる紀伊大島は半島と一体化していながら、落ち着いた雰囲
気の別天地だ。
 古典民謡、串本節の一節【ここは、串本向かいは大島、仲を取り持つ巡航船】のイメージが湧かなくなってしまつたことは少々惜しま

れるが、時代の流れであり、格段に便利になったことをおもえば、いいことなのだろう。鼻歌交じりで離れ島に到達できるのだから・・。
ここ数年、真冬は温暖な沖縄の本島や離島の旅を繰り返してきた。日本列島自体が島だが、本土は区別するとして、海で隔てられた
離島には、先入観にとらわれた偏屈な旅人の私の主観によるものかも知れないけれど、それぞれに独特の雰囲気が漂っていて旅人た
ちの心を躍らせるものがあり、離島観光の醍醐味だと思っている。

 本土から飛行機で数十分とか、連絡船で数時間のような離島というより孤島といったほうがふさわしい島も、今回のような狭い海峡で
隔たった「すぐそこの島」でさえ、本土とは違う「島」の暮らしがあり、自然の風景があり、多くは景観に恵まれていて、ここ紀伊大島も例
外ではなかった。紀伊半島は今まで何度も訪れていながら、離島観光マニアと言えるかもしれないわたしが、この島を見過ごしてきてし
まったことが、不思議でならない。

 太平洋岸特有の照葉樹林の中を貫く道路、荒波に浸食された断崖絶壁の大景観はとても小さな島の一角とは思えないような大きな
風景を惜しげもなく披露してくれていた。
 小さな大島には、学校もあり、点在する民家や寄り添う小集落、のどかな海岸での人影、日だまりで憩うお年寄りたちの平和な風景な

どなど、過疎に悩む深刻な状況かもしれないとおもいながらも、薄っぺらなロマンチストの旅人である私にはそれら一つひとつが印象的
なひとこまとして記憶されていく。自然を愛でる旅先で絶景はもとより、現地での人を交えた何でもないいきさつが後々まで記憶に残る
不思議を数多く体験している。
そんな一角、島の東端に位置する樫野崎灯台は灯台を管理するための意外なほど大きな官舎が建設ないしは改築中だった。

  いまどきの灯台は、コンピューターによる無人管理が当たり前だとおもっていたら、ここの灯台はよほど重要な位置にあたるのか、灯
台守の世界が現存していることにそこはかとなく温かみを感じる。12月だというのに灯台の周辺にはスイセンが咲き競っていた。はるか
地中海から海流に乗って流れ着いたという海水に強いスイセンの球根は、各地の離島や半島の岬に根を下ろして真冬の海辺の斜面
を彩っていて、灯台などの施設とよく似合っている・・と思う。


12月。早々と見ごろを迎えた灯台付近のスイセン。
霜の降りない太平洋の沿岸は冬の花も気が早い。


  灯台からの帰り道、設備の整った駐車場の一角に一袋100円のミカンの無人販売を見つけて、その安さに見惚れていたら、向かい側
の小さな土産物屋のおばさんが「無農薬だよ、買ってって・・」と明るい声で叫んでいた。ほだされて、そばの空き缶に音がするお金をふ
たつチャリン・・と入れて、二袋を手にしたときはオレンジ色の網袋の中のミカンは美味しそうだったのに、袋から出してみたらアバタだら
けの等外品だった。網袋の色に騙されてしまった。ところが、食べてみたら旨い。外見上の見栄えと中身は別物という見本のようだっ
た。正真正銘の無農薬農法といえば聞こえはいいが、ほったらかしでも実ったから売り物になった・・という感じ。そのほうが美味だ・とい
うような事例は以前にも経験したことがある。たぶん、集落の高齢化人手不足の賜物?なのだろう。うまけりゃいいのだ。
 おばさんに小さな感謝の気持ちをさりげなく伝えて車を走らせた。

 小さな大島に伝わるふたつの史実

 この島には、意外というか思いがけない史実が保存されている。不覚にもそのことについて、全く予備知識を得ていなかった身には、
心地よい新鮮な衝撃に浸っていた。
 ひとつは明治23年、親善訪問したトルコの軍艦エルトゥールル号がその帰路、大島の沖で台風に遭遇して遭難するという歴史に残る
大惨事があり、島の住人総出による救出活動で69名を救出。犠牲者は580名にのぼったという。そのうち収容された239名の水兵の遺
体は今もこの島、樫野崎に埋葬されているという。そこにはトルコ政府による立派な慰霊碑が整然と佇んでいる。明治維新から間もな
い時代の小さな島の住人にとっては、69名にのぼる言葉も通じない生存者を収容し、食料の調達、医療、収容所の確保など、難題に果
敢に挑戦し、介護にあたるという献身的な行為が、記録されている。

 現代のような情報が瞬時に伝わり対策を立てられる時代ではなかった条件のなかで、素朴で平和な島暮らしの島民にとっては、降っ
て湧いたような事態に、それも荒れ狂う暴風雨のなかでの救出活動は並大抵ではなかったであろうことは容易に想像できる。
 快癒した69名の水兵は神戸を経由して無事帰国を果たしたという。
 オスマントルコ末期の時代から、現代のトルコ共和国に至るまでのたぐいまれな親日感情の礎は、この小さな紀伊大島の素朴な住民
による博愛に満ちた出来ごとに端を発しているという。立派な慰霊碑は120年前の悲劇とそれを機会に発生した両国の遠くて近い隣人
関係を強調するように遭難現場の岩礁を背にして悠然と佇んでいた。


トルコ軍艦エルトゥルル号遭難慰霊の碑

ここに239名の水兵が眠っている。


 日米修交の事実

 島の中ほどを貫く幹線道路の片隅に【日米修交記念館→】とある。おもわず「なんじゃこれ!!」と叫んでしまった。ペリーの下田が、何でま
たこの島に記念館なのかといぶかってみたが、こうなると、いきさつを突き止めてみたくなるのが人の常というもの。小さな集落の中の
曲がりくねった車がようやく通れる程度の路地をたどった先に十台ほどが駐車できそうな海の見える広場で行き止まりになってしまっ
た。広場の片隅に日向ぼっこを楽しむ老人たちに尋ねると「すぐそこだよ、こんなとこまで何処から着なさった」と歓迎しながら案内してく
れた。

 その記念館は「日米・・」というテーマから連想する大きな存在とは裏腹に、小ぢんまりとしたコンクリートの建物に過ぎなかった。
 解説によると、ボストンを出港したレイディ・ワシントン号という帆前船はわずか90トンの木造船。カナダのバンクーバー島を経由して
500枚の(一説では900枚)の毛皮などを積んで広東に持ち込み、交易をのぞんだが、多額のわいろを要求され、憤慨して大阪堺港に向
けて航行中、風浪に押し流され紀伊大島に辿りついたという。結果として辿りついたに過ぎないが、大島の飲料水の補給を受け立ち去
ったという。
アメリカの商船が足跡を残したことは事実のようだ。
 何とペリー来航より六十二年も前にこの地に立ち寄っている。ただそれだけのことだが、徳川幕府の全盛時代に木っ葉のような風任

せの船で、太平洋を横断する商取引を目的とした命がけの大航海が行われていた事実におどろく。世界の海を駆け巡った同船は南太
平洋あたりで沈没しているしケンドリック船長は航行中に死亡している。
 詳しくはここに記述するよりも、少々読みにくいかもしれないが、記念館に表示されていた多くの解説の内の一枚の写真にお任せしよ
う。
 シーズンオフの退屈しのぎに思いつきで車を走らせた今回の紀伊大島の旅は、思いがけない収穫に満たされた中身の濃い旅だっ
た。やっぱり旅はおもしろい。










琵琶湖一周歩き旅、


第一回目(木之本駅から長浜駅まで24キロ)


以前に、知人から送られてきた湖北水郷の写真を題材にして描いた
PC絵画です。写真ではありません。
当日(2月26日)は、冬枯れの季節とはいえ、湿地性の高木、たぶん、ヤチハンノキによる
幻想的な風景が湖岸一帯に展開していた。


 いろいろ自由で真面目な遊びに忙しいとはいえ、基本的に「毎日が日曜日」のご身分。
 あれをやった、これを果たした、といった達成感に浸りたくて思いついたのが、琵琶湖岸に沿って踏破するという、時間はかかるが意
欲次第で絶対出来る見通し満点の目標をたてた。

 手始めに一番近い、木ノ本駅から長浜駅までの24キロに何となくご出発です。ほんとに朝になって洗濯物を干していたら抜けるような
青空にほだされてその気になって「何となく・・」お出かけなのです。そんな訳で、木之本駅に着いたのが既に正午少し前というありさま
だ。駅前のスーパーで、390円の弁当ひとつだけ手に持って決まり悪い思いでレジに並んでいたら、どっさり買い物かごに盛り上げた先
客が慮って先に通してくれた。

 ザツク背負って帽子かぶって弁当ひとつ片手に持って並んでいれば、地元の客でないことはお見通しで、近ごろ琵琶湖岸を歩いたり
サイクリングする観光客が多く、そんなことを理解してくれたのかな・・と、勝手に思い込んでみた。
 湖岸を歩くといっても、駅から水辺までの距離が大変だ。ようやくすがすがしい湖岸にたどり着いたときには、既に二時間以上が経過
していた。

 うんざりするけれど、「列車から降り立てばそこは光る湖面だった」というよりも、苦難?の末に展開する雄大な風景のほうが、やっぱ
り感動は大きいものだ。それに、木之本の小さな街をなんなくすり抜けた後は、広く耕地整理の行き届いた近江平野の真っ只中をひと
りさみしく歩くのも楽しいものだ。

 道連れがいるのもいいが、たまには単独行動も悪くはない。実際は、こんな行動に賛同して同行してくれるような相手がいないので、
限りなく「いいわけ」にちかいけれど・・・気遣う相手がいない気楽さは事実だ。
 広い内陸の穀倉地帯は湖東だけではなく湖北地域まで展開しているとは思わなかった。近江地域のホテル旅館などで決まって食卓
を賑すブランド「近江牛のステーキ」の原料?はどこにいるのだろう・・と目を凝らしてみたが、お目にかかれなかった。

 近江平野を旅したり車などで通過するとき、牛の放牧場や飼育舎を見たことも無いのに、ブランド銘柄が生きている。不思議だ。
 二月とはいえ、冬日和のこの日は、沖に浮かぶ竹生島と湖岸の湿地帯、それに、背後にそびえる雪化粧に輝く伊吹山との取り合わ
せが絶妙な風景が展開していた。

 そんな中を自動車道路と付いたり離れたりしながら歩行者、自転車道が完備されていて一服の絵になる景色が惜しげもなく続いてい
る。湖面は禁猟区になっているのか、おびただしい数の鴨類が波間に漂って、たぶん北へ旅立つ準備をしているのだろう。今日は二月
二十六日だ。湖に付随する湿地帯の内湖には白鳥(たぶん小白鳥)の群れが浮かんでいた。雁鴨類のちょこまかとした動きに対して、
おっとりとしており、一瞬、作り物か・・と見間違えるほどだ。そんな動きが白鳥の【気高さ】に通じるものなのかと、素朴に解釈してみた。
デジカメブームで多くのカメラマンたちがシャッターチャンスを逃すまいと構えるなかで、ゆったりと動いている。
 こちらは時間が無いので大急ぎだ。


湖岸から伊吹山の展望。見なれた濃尾平野からとはまったく別の山だ。



 湖に沿った湖北さざなみ街道、湖の辺(うみのべ)の道は、随所に園地、野鳥観察施設などがさりげなく設備されていて、快適な環境に
なっている。時間に余裕があれば、それらをのんびりと利用しながら辿るこができるのに、と惜しまれてならない。
 五時間余りで24キロを踏破して長浜駅でこの日の行程を終えた。
 北陸線といえども、この地域の普通列車は三十分に一本。始発で発車待ちの車両はドアが閉まっていて寒いホームで佇んでいたら、
運転士が車内へどうぞ、と促してくれた。いまどきのJR普通車両は、利用客がボタンを押して開け閉めするシステムになっていることは
知っていたのに日ごろの利用機会が少ないと忘れてしまう。それに気がついた運転士が声をかけてくれた。慣れない旅人に見えたのだ
ろう。JRは親切になった。
 理想的には宿泊しながら連続踏破がいいのだが、71歳は体力、持続力が続かない。
 しばらくは、鋭気を養った上ての再出発だ。









琵琶湖一周歩き旅、第二回目


長浜駅から彦根駅17キロ



戦国の舞台、長浜城


 一週間後になってしまった。いちど長距離を歩いた後は、一日か二日程度の休養であまり日数を置かずにふたたび歩いたほうが、体
が慣れてくるといわれているし、実際、経験的に実感している。ところが、初回以来、早春の寒波が続いて機会がなかった。
 家を出て間もなく、駅の階段を上るときなどに右足の関節に違和感をおぼえた。71歳、高齢への警告か!!と少し緊張したが、動かすに
したがって潤滑油がまわってきたようだ。

 この日は戦国時代の「つわものどもが夢のあと」を辿ることになる。長浜城は、前回すぐ脇を歩いているが、帰りを急ぐあまり、ほとん
ど意識もしないで素通りしてしまった。
 少しは時間的に余裕のあるこの日は長浜城とその園地を散策してから湖畔へ。
 レベルの高いことで有名な「長浜盆梅展」が園内で開催中だった。気持ちが動いたが、この種の展示会に見入ると没頭して時間を忘
れるので、先を急いで、やっぱり後悔してしまった。梅の花が春を告げる三月、この季節でしか観られない催しを二義的に扱って、その
気なれば何時でも歩けるお散歩を優先することもなかったなあ・・と。

 あのときは、「二兎を追うものは一兎をも得ず」の心境で先を急いでしまった。
 寒波は昨日まで、穏やかな天気になるとの予報を当てにして、朝寝坊のわたしとしては早めに出かけてみたものの、吹く風は冷たく、
湖畔は真冬だった。広い水面は空気を冷やすのか、春は名のみの風の寒さや・・。冬鳥ばかりがはしゃいでいる。

 長浜市域から米原市域を通過して彦根市境付近までの湖畔は海岸のような砂浜が続き、水泳場や水辺の林の中の遊歩道も整備さ
れていて、車道やサイクリングロードには、「湖畔を歩けます」という案内板が誘ってくれる楽しい雰囲気だ。ただ、湖からの寒風をさえぎ
るものがまったく無い吹きさらしは、いささか辛い。所々にしつらえられた休憩所のあずまやなどは、当然のことだけれど、ビューポイン
トの湖の景観をさえぎるような構造になっているはずがなく、唯一、トイレの裏側だけが陽だまりに・・・まさか、こんな所で弁当開くわけに
もいかず、天気予報を恨むことしきり・・。


湖畔で見つけた景観。PC絵画です。
撮ってきた写真を題材にして描いています。


  自然の残る浜辺には、おびただしい水鳥たちの群れが見られたが、彦根市域からは、人口密度が高くなり町や集落が岸辺に迫って、
鳥たちが目立って少なくなってきた。
湖に突き出た小さな岬のような地域に寄りそう古い集落の中を道に迷いながら歩くのもそれはそれで趣きがある。いくら迷ってみても、
なにせ、一方は湖、うろちょろしておれば、もとの道に間違いなくたどり着く。
ようやく風も収まってきたころ、彦根の市街地にたどり着いた。
 彦根城を中心とした美しい街だ。お堀の周囲を一周してこの日の行程を終えた。

  彦根駅はJR西日本になるという。東海道線の、この部分は西日本のエリアなのかと、意外な思いがした。そういえば、この路線を現
地では「東海道線」ではなく、「琵琶湖線」としている。東海道線のホームを探しても見当たらない。
 地図やインターネットでも「東海道線」になっていて「琵琶湖線」の表示などはない。こういう案内表示をされるとご当地に慣れない旅人
は、どぎまぎしてほんとうに迷う。

   国鉄がJRになって以来、東海道線の内、米原以西は「琵琶湖線」と改称しているようだ。
  調べてみたら、JR西日本の路線図には「東海道線」が無い。いい加減に統一を徹底してほしいものだ。
  この日の行程は17キロ。寒い中でも気持ちはのんびりしていた。この調子で行こう。
 愛知県の自宅に帰宅してテレビをつけたらNHKの天気予報のお姉さんが、「今日は穏やかな日でした」とのたまう。
  琵琶湖の周辺はこの季節、北陸の冬の気候の影響を受けるのかもしれない。







琵琶湖一周歩き旅 三回目


彦根駅から「休暇村近江八幡」まで。およそ24キロ


整備された湖畔の桜並木。三月三十日現在残念ながらまだつぼみ


 前回から、数日後には出かけるつもりが、東北関東大震災とそれに伴う未曾有の津波被害、加えて原子力発電所の震災による破壊
の凄まじさに身も心も奪われて、気持ちの上でのんびりと湖岸の散歩などと浮かれていられなくなってしまった。

 三陸とか陸中海岸といわれるリアス式海岸の切り立った山々に抱かれた入り江に展開する美しい町並みや集落は数年前に一週間
に渡ったドライブ旅の記憶が今も脳裏に鮮明に刻まれている。そのほとんどが一瞬にして過去の幻影になってしまったむなしさに打ちひ
しがれて、気分が乗らず行動する気が起こらない。気持ちの切り替え・・の積もりで、日本赤十字社に一回程度の旅をしたつもりでイン
ターネットを通じて義援金を振り込み、個人的に少しは気持ちをほぐした積もりになってみた。   旅のエッセイ3 陸中海岸紀行

 考えてみれば、全国民的に萎縮していたのでは、経済に悪影響があるだけだろう。
 そう考えて、サクラの蕾も膨らみ、ちらほらと開花のニュースが伝えられる春日和のこの日(三月三十日)早朝から三回目のお出かけ
です。
 わが町、小牧市からは鉄道の乗り換えが何と五回。距離的には、それほど遠くは無いのだが、およそ二時間三十分前後を要する。
日帰りの往復で五時間ないし六時間だ。現地での行動が六時間ないし七時間。通勤時間??がもったいない、と思うものの、歩行時間
や距離は体力的にはこれが限界。帰りの車中での時間は適度な休息、と思うことにした。お陰で鉄道の乗り換えなど、随分と慣れてき
た。車中での人間模様をそれとなく観察してみるのも結構面白いものだ。

 前回、半周した彦根城を今回は残りの半周を辿って湖畔へ。彦根城はほんとうに美しい。
「安政の大獄」での大老井伊直弼による、粛清の歴史とがからみあって複雑な気分だ。城内の井伊直弼を称えた「華の生涯」の石碑
が、歴史に疎い私には奇異に思えてならない。

 さて、今日の湖岸は、入り江や半島の少ない湖東地域だ。ゆったりとした住宅街と地方幹線道路が湖岸に沿って整備されていて、疾
走する自動車が湧き起こす風にあおられながらの行動はハイカーにとってはおもしろくないが、そんなところは一部に過ぎず、サイクリ
ング、ウオーキングラインもほぼ完備されていて、湖岸緑地も、所々切れてはいるが風情豊かな松林、開放的な広い砂浜、芽吹きかけ
た草原、それらを生かした公園など、ほんと、快適な散歩道だ。


ヤチハンノキ。水の中で元気。
こんな風景が湖北から湖東にかけて随所に見られる。
大きな琵琶湖ならではの風景だ。

 春とともに、旅行業者による琵琶湖一周ウオーキングツアーがはじまったらしく、ガイドさんに引率された集団を散見された。わたし
は、その種の集団の一員に加わるのが好きではない。さいわい、集団とは逆方向であり、一瞬の挨拶の後には遠ざかるのでたすかっ
たが・・。単独行動が目立って集団に注目されるのがわずらわしい。

 比良八荒

 午後になって春かすみの、のどかな天候が大げさではなく、にわかに掻き曇り、強風が湖の波頭から水滴をちぎりとって、霧雨のよう
な水滴を浴びせかけてくる。その豹変ぶりにあっけにとられつつ先を急いだ。「比良八荒」という気象現象なのだそうです。ほとんど突然
に吹き荒れて、それまでのさざ波がやさしく打ち寄せる湖岸の波のリズムが海岸の大波のように激変し、うねる波が時として小船の遭
難を引き起こすという。

 対岸の比良山系から吹き降ろす風が湖面の冷気と結びついて荒れ狂うのだろう。風下の伊吹山に記録されている世界一の積雪量
(詳しくは分からないが一日の積雪量11メートルという)をもたらしたのも、この比良八荒に起因するという。

 また、過去には、旧制第四高等学校(現在の金沢大学)漕艇部十一名の遭難が知られていて、「琵琶湖哀歌」として悲劇が語り継がれ
歌い継がれている。非常によく似た曲調に「琵琶湖就航の歌」というのがあり、意味も内容もまったく異なるのが不思議だ。そんな記憶
を思い起こしながら強風の中を歩いた。
 雨宿りの場所もなく、傘はあっても役に立たず、一時は途方にくれたが濡れるほどの雨にはならず、さいわいにもこの日の嵐は喉もと
過ぎれば何とやら・・で、およそ二時間後にはのどかな空模様に戻っていた。
 この地域特有の荒れる気象の一端に遭遇して、たまたま訪れた旅人として、無事に過ぎてみれば得がたい経験だったのではないか
と、納得してみた。

 伸びやかな近江平野に沿った湖岸は近江八幡市域に入ると、一転して山が迫ってくる。入り江に小さな港が点在する箱庭のような優
雅な風景を眺めつつ坂を登り、左右に曲がりくねった自動車道路を辿れば、この日の終着地「休暇村近江八幡」玄関前のバス停にた
どり着いてこの日の行程を無事に終えた。
休暇村近江八幡」は何度か家族で宿泊に利用したことがあり、懐かしさをおぼえる。午後たった2便のバスの最終便を待つあいだ、ロビ
ーでのコーヒータイムが疲れを心地よく癒してくれた。

淡水湖の中の有人島

 ロビーからは最大限に切り取ったガラス窓の正面沖合いに浮かぶ有人島「沖島」が視界いっぱいに入る。日本では唯一、世界でも珍
しいといわれる淡水湖のなかの人が住む小島も数年前に訪れた記憶があり、隔絶された別天地で源氏の落人の末裔といわれる四百
数十人、さながら【沖島一家】とも言うべき島の暮らしの雰囲気とともに懐かしさがにじむ。




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