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Artist

FRANCO & L'OK JAZZ

Title

1968/1971


1968/1971
Japanese Title 国内未発売
Date 1968 /1971
Label AFRICAN/SONODISC CD 36529(FR)
CD Release 1993
Rating ★★★★★
Availability


Review

 60年に一時グループを離れたものの、結成直後から一貫してフランコを支えてきたパートナー、ヴィッキー・ロンゴンバがO.K.ジャズを去ったのは70年とも71年ともいわれている。ふたりの関係は60年代終わりごろには冷え込んでいたようで、おなじO.K.ジャズ内のレーベルでもフランコの作品はBOMA BONGOから、ヴィッキーがイニシアチブをとった場合はVICLONGからレコードがリリースされるというように、おそらく利益配分をめぐる確執が直接の要因だったのだろう。

 ヴェルキスの後任サックス奏者としてメンバーに加わったロンド 'Rondot' Kasango wa Kasangoはこう語っている。「フランコは、O.K.ジャズがうまくいくように必死になんでもやった」が、ヴィッキーはそれをしなかった、と。フランコとヴィッキーはアーティストであると同時に、O.K.ジャズという会社の社長であり副社長であった。なのにヴィッキーは経営的な努力を怠った。それでいながら役員報酬を要求するのはスジちがいだとロンドはいいたいのだろう。ロンドの発言はフランコに寄りすぎている感はあるが、一面真実だったと思う。

 そうはいっても、これはフランコにかぎらず、アフリカのバンドは往々にして富と権力をリーダーが独占し、その結果、内紛や分裂をくり返すという例が現在も跡を絶たない。これは、部族的な社会システムを色濃く残したまま、急速な近代化を迎えたがために、近代的な組織形態が未成熟だったせいだろう。だから組織をまとめ上げていくにはフランコのようなカリスマ的存在が、強力な独裁体制を敷くよりほかなかったと思う。このことは政治の世界でなおさらいえることではあるが‥‥。

 さらにいえば、フランコが結果としてヴィッキーの首を切ったことのウラには、好きとかキライといった個人的な感情以上に、O.K.ジャズがサバイバルしていくのにヴィッキーの音楽性はもはや古いとのフランコの判断があったように思えてならない。このアルバムでヴィッキーの作品ばかりが浮いて聞こえてしまうのが、そのなによりもの証である。

 ヴィッキーはのちにグループ脱退は双方の合意にもとづいて円満におこなわれたと発言しているが、じっさいは呪術師をさがしてフランコを呪い殺さんばかりの激怒であったという。その後、オルケストル・ロヴィ Orchestre Lovy を結成するもヴェルキスのオルケストル・ヴェヴェのようには成功しなかった。ヴィッキーには'CHERI LOVY' FRANCO ET L'OK JAZZ "1967/1968"(AFRICAN/SONODISC CD 36518)に収録)という曲があるが、バンド名はこれにちなんだものだろう。

 ロヴィの71年から73年までの演奏を収めた貴重な記録が"VICKY & LOVY DU ZAIRE"(SONODISC CD 36528)としてCD復刻されている 。全15曲中、大半をヴィッキー作品がしめ、わずか3曲で作者にユールーとファンファンの名がクレジットされている。このバンドについてはほとんど知識を持ち合わせていないけれど、このことからO.K.ジャズ脱退組を中心に結成されたとみていいと思う。ラストのファンファンの曲にはやや新しさは感じられるものの、そのほかはヴィッキーらしいまろやかなルンバ・コンゴレーズが展開される。時代状況を考えれば、このバンドが売れなかったのも無理もないと思う反面、時代遅れと切り捨ててしまうには惜しいクオリティの高さはある。品切れ無念。

 さて、話題を元に戻すと、68年と71年の音源13曲からなるこの編集アルバムは、さしずめO.K.ジャズにとっての「夜明け前」と位置づけることができると思う。
 69年5月、ジェームズ・ブラウンという“黒船”がキンシャサに来航する。サッカー競技場に10万人の聴衆を集めたコンサートはテレビでも中継されてコンゴのポピュラー・ミュージック・シーンに大きな衝撃を与えた。ヴェルキスのオルケストル・ヴェヴェから派生したトリオ・マジェシ Trio Madjesi などはJBの洗礼をモロに受けたクチだ。
 フランコもこのコンサートを目の当たりにしたひとりであったが、吉田松陰のように危険を冒してまで“黒船”に乗り込もうとはしなかった。それどころか、JBの音楽はそのルーツであるアフリカ音楽にたいする敬意が感じられない退屈な音楽と断じていた。さらに痙攣するようなかれのダンスはまるでサルのようで下品きわまりないと周辺に漏らしていたという。

 しかし、“攘夷論者”であったフランコといえどもその影響をまぬかれることはできなかった。
 本盤冒頭に収録のフランコのナンバー'KOUN KOUE! EDO ABOYI NAGAI' は、重層的なコーラスが美しいミディアム・テンポのルンバ・コンゴレーズではじまるが、フランコのメタリックなギター・リフを合図に2分40秒あたりから曲調がアフロ・ファンク調に一変する。ホーン・セクションの分厚いリフをバックにフランコが、ときに英語をまじえ「ウッ!」とか「イェーッ!」とかシャウトしながらファンキーに熱唱。ファンクとよぶにはビートがまったりしているが、これはこれでJBやフェラ・クティにはないエレガンスがあってなかなか聴かせる。
 つづく'MAIE NABOYI' もフランコ作で、中盤あたりから曲調がファンクっぽくなったかと思うと、ギターとサックスの濃密なインタープレイがはじまって、最後はフランコによるキューバのミゲリート・バルデースとJBが合体したような巻き舌のシャウトでしめるというめまぐるしい展開。これら異色の傑作2曲はファンクにたいするフランコからの回答といえるかもしれない。

 異色といえば、おなじくフランコのペンなる'OBWA OSUD JEME' も負けていない。フランコが伴奏なしでなにやらフニャフニャモグモグしゃべりつづける。フランコの決めゼリフを機に、伴奏が加わりキャッチーな短いリフレインがはいる。そのあと、またフランコがしゃべる。リフレイン。しゃべる。リフレイン。しゃべる。リフレイン‥‥が延々とくり返されるだけ。たとえていえばアフリカ版「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」
 これにつづく'NSONTIN' は、ちょっとファンクがはいったごきげんなナンバーだが、サビの部分が'OBWA OSUD JEME' のリフレインとおなじ。ということは、これらは曲調こそちがえ、2曲一体ととらえるべきなのかもしれない。なかなかヒネリが効いている。

 ヴィッキーが書いた'LIWA YO NDE MABE BOYE ' は、めずらしくアコースティック・ギターとベース、パーカッションを加えただけのフォーキーなラテン調ナンバー。ポール・マッカートニーの「ブラックバード」をどことなく思わせる、肩の力が抜けた佳曲である。同様にシマロの'JEROME' やフランコの'MBANDA ASILIKI' もアコースティックな響きをもつ涼やかな演奏内容といえる。ちがいがあるとすれば、ヴィッキーの曲は売上げを度外視したごく私的な歌のように聞こえることだ。

 O.K.ジャズが新境地を切り拓いたといわれる記念碑的作品'INDELITE MADO''MA HELE' も、基本的にはこれらの延長線上にあるといえよう。ここではO.K.ジャズの売りのひとつであったサックスがいっさい用いられていない。'MA HELE' では代わりにトランペットが活用される。そのため、フランコのメタリックなギターが前面に出てきて、サウンドが全体にハギレよくシャープな仕上がりになった。
 また、この2曲のレコーディングにヴィッキーがいっさいかかわっていないことも特筆すべきだろう。というのも、そのとき、ヴィッキーは病気療養のためヨーロッパにいたのだ。そのため、メイン・ヴォーカルはフランコ、シェケン、ボーイバンダがつとめている。
 にもかかわらず(というか、だからこそ)、これらはザイコ・ランガ・ランガ、ベラ・ベラら新世代の台頭によって苦戦を強いられていたO.K.ジャズのひさびさのヒットとなった。

 'INDELITE MADO' の作者はビチュウ、'MA HELE' の作者はシマロ。じつはヴェルキスが在籍中にフランコに内緒でメンバーを集めたバンドのために書かれた曲で、フランコがヴェルキスから曲の権利をもぎとったのちは長いことお蔵入りになっていたもの。数年後、アレンジを変えて甦ったこれらの曲が、O.K.ジャズのその後の方向性を決定づけるマイルストーンになったというのだから皮肉な話である。

 'MA HELE' には、ほかにもこんなエピソードがある。
 71年、O.K.ジャズに新たに加わったトランペット奏者4人のひとり“ヴュー”カルー 'Vieux' Kalloux は、リハーサルでフランコのギター・パートを聴いておそるおそる口を開いた。「ボス‥‥おれは‥‥ギタリストじゃないけど‥‥そんなおれでさえ‥‥あれよりは‥‥まともな‥‥セベンを‥‥プレイできます」。フランコは一瞬気色ばんだが、気を取り直してこのおそろしく口べたなトランペット奏者の意見に耳を傾けてみることにした。
 それからフランコと“ヴュー”カルーのふたりは夜を徹してリハーサルを重ね、ようやく納得がいくセベンが完成したときにはすでに朝をむかえていた。リハーサルが2日間におよんだのはこれがはじめての経験であった。そんな努力の甲斐あって、フランコのハードでメタリックなセベンは若い世代にも大いにアピールしヒットに結びついた。
 O.K.ジャズにあってフランコの権威は絶対的であったが、それでも独善に陥ることなく若い世代の意見にも耳を貸す器の大きさがあったればこそ、30数年の長きにわたってつねにトップ・バンドとして君臨しつづけることができたのだろう。

 じつはこのアルバムの音源である68年と71年のあいだに、フランコの人生を一変させた衝撃的な事件があった。
 70年10月8日未明、ネグロ・シュクセ Negro Succes のスター・プレイヤーとしてO.K.ジャズをしのぐ人気を得ていた6歳年少の弟バヴォン・マリー−マリー Bavon Marie-Marie を突然の交通事故で失ったのだ。兄フランコの嘆きはたいへんなもので、音楽を創作するすっかり意欲を失い、O.K.ジャズは結成以来はじめて機能停止に陥ってしまった。喪が明けて仕事に一応復帰してからも、かつてのような輝きを取り戻すことはなかったという。
 そんなスランプから立ち直るきっかけとなったのが、さきの'INDELITE MADO''MA HELE' だったのである。

 以上みてきたように、このアルバムにまつわるエピソードはあまりに多すぎて、書いているうちに自分でも収拾がつかなくなってしまった。そこで最後に要点をまとめておくことにする。
(1)ヴィッキーの脱退前後のレコーディングであること。
(2)弟バヴォンの事故死によりスランプに陥る前後の演奏であること。
(3)フランコ自身がメイン・ヴォーカルをとる曲が多く含まれていること。
(4)ソウル=ファンク路線の導入が試みられていること。
(5)サックスを使わないギターバンド・スタイルの演奏が含まれていること。
(6)シマロの存在感が高くなってきていること。

 なお、冒頭でこのアルバムを「夜明け前」と称したのには、O.K.ジャズが古いスタイルから新しいスタイルへと変わっていく過渡期の演奏のように感じられるためである。したがって、古いタイプの曲、新しいタイプの曲、新旧スタイルが入り交じった曲、またファンクのように一過性に終わった曲など、ヴァリエーションに富んだ内容となっている。
 O.K.ジャズ時代の単独CDとしては最初に買ったアルバムであり、当初はそのつかみどころのなさに戸惑いもしたが、いまとなっては愛聴盤のひとつになっている。


(9.18.03)
(3.13.04加筆)



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by Tatsushi Tsukahara