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Artist

FRANCO & L'OK JAZZ

Title

1970/1971/1972


1970/1971/1972
Japanese Title 国内未発売
Date 1970 /1971 / 1972
Label AFRICAN/SONODISC CD 36514(FR)
CD Release 1992
Rating ★★★★
Availability


Review

 1970年はフランコが絶頂から奈落に落ちた年である。前兆はあった。スター・プレイヤー、ヴェルキスの脱退、永年の盟友ヴィッキーは体調を崩し事実上脱退したも同然だった。それでもシマロを参謀役に、ボーイバンダとユールーの若いヴォーカリストをフロントに立ててO.K.ジャズは進化を続けた。

 O.K.ジャズの名声はいまやアフリカ全土にまで拡がっていた。そこでこの年、ベニン、トーゴを皮切りにガーナ、ザンビア、スーダン、中央アフリカ共和国をまわる大規模なツアーを敢行した。

 トーゴではフランコの恩師アンリ・ボワヌと10数年ぶりに邂逅。ボワヌはロニンギサを去ったあとエセンゴ・スタジオの設立にかかわり、58年リコ・ジャズ Ry-Co Jazz (Rythm-Congoの意)を結成。ボワヌ本人は前線から退いてバンドのプロデューサー兼マネージャーに徹した。以後2年間、リコ・ジャズは船でコンゴ川を遡って、ウバンギ・シャリ(中央アフリカ共和国)、チャド、カメルーンを演奏してまわった。
 ところが、60年、メンバーたちはボワヌに三行半を突きつけると自分たちだけでリコ・ジャズをリニューアル。それからはセネガルに拠点を移して、ギニア、シエラ・レオーネ、リベリア、コート・ジヴォアールなど西アフリカ諸国で演奏を続けた。コンゴ音楽を西アフリカ諸国へ広めたかれらの功績は大きい。

 その後、リコ・ジャズはパリへ渡り、そこでオルケストル・バントゥをやめたエッスーと出会う。エッスーをメンバーに加えたかれらは67年末にカリブ海にあるアンティル諸島マルティニークへ渡る。そこでおよそ5年間にわたりコンサートやレコーディングをおこなった。リコ・ジャズがもたらした音楽は、60年代末にハイチに起こったミニ・ジャズ・ムーヴメントにつよい影響を与えたとされ、また80年代後半に世界を席巻したアンティル諸島生まれのズークのもとになったともいわれている。

 子分たちに見捨てられ落ちぶれていたボワヌを見かねたフランコはかれに大金を渡したという。アンリ・ボワヌとリコ・ジャズの演奏は英国のレーベル、レトロアフリークからHENRI BOWANE "DOUBLE TAKE - TALA KAKA"(RETROAFRIC RETRO6CD)RY-CO JAZZ "RUMBA 'ROUND AFRICA"(同 RETRO10CD)としてそれぞれCD化されている。
 
 また、ガーナの首都アクラではジェリー・ハンセンが経営するナイト・クラブで演奏した。ジェリー・ハンセンは、ダンスバンド・ハイライフのパイオニアのひとりキング・ブルース率いるブラック・ビーツの出身で、60年代のガーナ・ハイライフ・シーンをリードしたランブラーズのアルト・サックス奏者/リーダーである。50、60年代、ガーナやナイジェリアを中心に西アフリカ諸国を席巻したハイライフは、60年代なかばあたりからルンバ・コンゴレーズに圧されて衰退していくのだが、O.K.ジャズの演奏はハンセンの目にどう映ったのか興味のあるところだ。

 そして、スーダンには約1ヶ月滞在した。首都カルツームのスタジアムでおこなわれたコンサートでは、フランコに近づこうと興奮した群衆がステージになだれこみ6人以上も圧死するという事件が起こった。

 さらに、中央アフリカ共和国ではボカサ大統領の前で演奏した。そのさい、ボカサからO.K.ジャズの女性ダンサーのひとりを所望された。60人の妻を持つといわれたボカサは、76年にはみずから皇帝となってボカサ1世と称したエキセントリックな独裁者であった。この申し出をフランコはことわると、なぜか急きょツアーを切り上げてしまった。

 じつはこのダンサー、アニー・ムブレといってフランコの恋人とうわさされる女性であった。ボカサは彼女のことがあきらめきれず、ついには彼女の所在を突きとめるためにわざわざザイールにまで来てしまった。あわてたフランコは彼女を隠してしまう。
 時を経ずして中央アフリカ共和国からO.K.ジャズにコンサートを再度開くようにお呼びがかかった。アニーがツアーに同行しないことを知ったボカサは、キンシャサへ自家用飛行機を飛ばして彼女を連れてくるよう命じたという。フランコはツアーをキャンセルすると、ボカサの友人であったモブツ大統領にこの窮状を救ってくれるよう嘆願した。
 モブツの仲裁でなんとか事なきを得たフランコはまもなくアニーと結婚した。フランコにはポーリーナという長年連れ添った妻がいたのだが、アニーのことを聞くと彼女は子どもたちを連れてフランコと別れる途を選んだ。アニーはフランコの晩年まで連れ添うことになる。
 
 悲劇はO.K.ジャズのチャド行きの前後に起こった。出発前夜、フランコと弟のバヴォンが激しい口論をしているのが聞かれた。翌日、空港に到着したフランコの目は虚ろだったという。
 今回のチャド行きは、中央アフリカ12カ国の首脳が一同に会するサミットのレセプションとして、O.K.ジャズとロシュローのアフリザが招待されたものだった。ロシュローのステージのあと、いよいよO.K.ジャズ登場の段となり、ファンを自認していたモブツ大統領をはじめ、ひとびとは期待に胸を膨らませた。ところが、そこにフランコの姿はなかった。O.K.ジャズとしてはほとんど最後のステージとなったヴィッキーをリーダー役に、ギターは若いファンファンがフランコの代役を務めた。それでもステージはなんとか成功裡に終えることができた。フランコはその夜、ユールーに同行したルーシーが宿泊するホテルに泊まったという。

 チャドから帰国した70年10月8日の夜、O.K.ジャズのメンバーたちはギャラを受け取るために、かれらのホームグラウンドであるビザビ・クラブに集まっていた。そこにはユールーに同行したルーシーの姿もあった。すると、フランコとともにバヴォンが血相を変えてあらわれた。かれはメンバーたちを前にして、フランコはチャドで自分のガールフレンドのルーシーと寝たと告発しフランコを口汚くののしった。フランコは冷静を装いながらクラブから出ていった。次いでルーシーもクラブを出てタクシーに乗った。バヴォンはユールーをぶん殴ると、飛び出して自分の車で彼女を追いかけた。

 バヴォンは数キロ先でルーシーの乗ったタクシーを止めると、彼女を引きずりおろし自分の車に強引に乗せた。そして、Uターンすると猛スピードで走り抜けていった。が、闇夜の先でふたりを待っていたのは故障のため路端に放置されていた軍用トラック。バヴォンの車はトラックに正面から衝突して大破した。バヴォンは即死、ルーシーは両脚を切断するという大事故だった。

 母親を通じて、バヴォン事故死の報をもたらされたフランコは、すぐには事態を受け入れることができず、ただただ狼狽するばかり。やがて、悲しみがこみ上げてきてブルブルと体を震わせていたという。
 バヴォンの死は、かれの人気を妬んだフランコが呪い殺したといううわさが立った。かつて日本で発売されていたコンピレーション『コンゴからザイールへ』(オルターポップ WCCD-31009)収録のバヴォンのネグロ・シュクセの解説のなかで、田中勝則さんもこのことをとり上げていたが、あんな書き方をされたんじゃフランコがあまりに不憫だ。たしかにバヴォン事故死のきっかけをつくったのはフランコの軽率な行動だったのかもしれない。しかも事故車はフランコが弟に譲り渡したばかりのルノーだった。だから、フランコはおのれをきびしく責めたはずだ。なのにそれに追い討ちをかけるような残酷なうわさ。フランコがなにもかもいやになってしまったのも無理もない。こうしてO.K.ジャズ結成以来はじめての長い活動停止をむかえた。

 上に述べた事情から70年リリースとはっきり特定できるCDは本盤と"GEORGETTE / INOUSSA 1970/1973"(AFRICAN/SONODISC CD 36572)の2枚を除いてない。(ほかにも、バントゥ、ヴェヴェ、ネグロ・シュクセなどとのコンピレーション・アルバム"SUCCES DES ORCHESTRES DU CONGO - ZAIRE DES ANNEES 60/70"(SONODISC CD 36540)に2曲収められている。)

 数ヶ月の服喪期間を経て、71年、O.K.ジャズは活動を再開するのだが、フランコのテンションは依然として低いままだった。新たに設立されたレーベルEDITIONS POPULAIRES からリリースされたシングルはそれなりには売れていたけれども、フランコのやる気のなさがバンドのメンバーにも感染して、コンサートは空席ばかりが目立つようになった。その間にトゥ・ザイナザイコ・ランガ・ランガ、ストゥーカス、リプア・リプアといった若いバンドがのしてきて、O.K.ジャズの人気も風前の灯火だった。

 だから、本盤はフランコが大スランプに陥っていたまさにその時期のレコーディングを中心に集めたといえるだろう。じっさい、復帰まもないころにリリースされた数曲は、リハーサル中にフランコと一握りのメンバーでレコーディングされた、取り直しもミキシングも潤色もしっかりされていない代物だったという。本盤にこの「手抜き作品」が含まれているのかはわからない。また、70年のレコーディングはおそらくバヴォンの事故死以前のものだろうが、どれがそれにあたるのかもわからない。

 しかし、全体を通じてテンションはまちがいなく低い。バヴォンの死のショックもあったろうが、たとえそれがなかったとしても、ヴェルキスが抜けヴィッキーが抜け、第3世代と呼ばれるフレッシュなバンドが台頭してきて、O.K.ジャズが袋小路にはいっていたことはまちがいなさそうである。
 
 だが、たとえテンションが低くても、かならずしも演奏内容が悪いとはかぎらないところがO.K.ジャズのスゴさだ。これはひとえにフランコ不調といえども、シマロ、ボーイバンダ、ユールー、ビチュウといったコア・メンバーがしっかりバンドを支えてきたからだと思う。じっさい、全14曲中、フランコの楽曲はわずか4曲にすぎず、残りはファンファン作の'DJE MELASI' を除けば、すべて彼らの手によるもの。いわば、フランコはソロイストとしてかれらにのっかるかたちで参加しているように感じられなくもない。

 全体にネオアコっぽいサクサクした質感とゆったりとリラックスしたムードが感じられる。それはそれで耳に心地よいのだけれど、逆にいえば緊張感が欠けていて、これでは第3世代に熱狂する若い世代を惹きつけることはむずかしかっただろうことは想像にかたくない。

 でも、受ける受けないは別にして、シマロが書いた'FIFI NAZALI INNOCENTO' のように、フォーキーで美しい曲もいくつか含まれているし、ユールーが書いた'BANGO NIONSO BAMBANDA' のように、スカっぽいビートとお囃しのようなサックスにフランコの民俗的な歌がからむ冒険的な楽曲もある。
 しかし、いかんせんリズム隊が弱い。ホーン・セクションも曲によってはトランペットが加わりずいぶんとにぎやかではあるのだが、ヴェルキス在籍時とはちがってインプロヴィゼーションの機会はまったく与えられておらず、間奏部などでシンプルなリフをプレイするにとどまっている。

 むしろ、めずらしくアコースティック・ギターと女性コーラスを用いた'BOMA L'HEURE' のほうが印象ぶかい。ひしゃげたテナーサックスをしたがえフランコが哀愁たっぷりに歌うフランコ作によるこの曲、おそらく完全復帰後の演奏と思われるが、異色作では片づけられないみずみずしさにあふれた名演といえる。アコースティック路線の'FUNGOLA YA MBANDA' も同様。ただしこちらは、O.K.ジャズの定番であったエレガントで美しいハーモニーが主体。ヴィッキー在籍時ほどには甘ったるくなくザクザクした感じがいい効果を生んでいる。サリフ・ケイタのアコースティック・アルバム『モフー』よりはずっとすばらしい。

 しかし「新しさ」という点では、本盤のラストに収録されたフランコ作の'TESTAMENT' とファンファンが書いた'DJE MELASI' の2曲に尽きるだろう。
 'TESTAMENT' はキャッチーなメロディがみずみずしく、テンポアップしたセベンでのフランコのギター・ソロは力づよくイマジネイティブな輝きに満ちている。尻切れトンボなのがちょっと残念。

 そして、第3世代への対抗意識がありありと感じられるのが'DJE MELASI' 。セベンでのギター・プレイはザイコ・ランガ・ランガのマヌワク・ワクを思わせるいわゆるスークース・スタイル。あわせて、ザイコ・ランガ・ランガあたりからはじまった聴衆にダンスを煽るための掛け声である“アニマシオン”まではいるという念の入れよう。アニマシオンが「ソモ、ソモ」と連呼されていることからして、ここでギターをリードしているのはフランコではなくファンファンとみていいだろう。なぜなら、ファンファンはまもなくO.K.ジャズをやめて、ソモ・ソモという名のバンドを結成しているからである。
 'DJE MELASI' はスマッシュ・ヒットしたらしい。サブ・リーダーのシマロはファンファンの試みを高く評価していたらしいが、フランコはあまり感心しなかったのかもしれない。その証拠に、ファンファン脱退後、O.K.ジャズから第3世代を思わせるサウンドはいっさい聴かれなくなる。

 みてきたように、本盤は入門用にオススメできるとはいいがたい内容ではあるが、スランプをのりこえ変わっていこうとするフランコの苦闘ぶりが伝わってきてフランコ・マニアにははずせない1枚であるにはちがいない。


(9.25.03)



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by Tatsushi Tsukahara