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Franco et O.K. Jazz (1956-89)

Antoine 'Papa Noel' Nedule Montswet, guitar(1978-)
Carlio Lassa, vocal(1989-)
Celestin 'Celio' Kouka, vocal (1957-60)
'Wuta Mayi' Blaise Mayanda, vocal (1974-82)
Flavien Makabi Mingini, bass (1976-)
Jean-Felix 'Du Pool' Pouela, tumba (?)


Artist

PAPA NOEL

Title

BEL AMI


bel ami
Japanese Title

ベル・アミ

Date 1984/1994
Label STERN'S AFRICA STCD 3016(UK) / オフィス・サンビーニャTS-4029(JP)
CD Release 2000
Rating ★★★★☆
Availability ◆◆◆◆


Review

 パパ・ノエル、本名 Antoine Nedule Montswet は、1940年ベルギー領コンゴ(のちのコンゴ民主共和国、ザイール)の首都レオポルドヴィル(のちのキンシャサ)生まれ。クリスマスの日に生まれたことから「パパ・ノエル」とニックネームされた。
 57年、16歳のときにシンガー・ギタリスト、レオン・ブカサのバックでギターを弾いたのがレコード・デビュー。ブカサはウェンド、ドリヴェイラ、カミーユ・フュルジ、エレンガらとともに、ジョセフ・カバセルのアフリカン・ジャズが台頭する以前の50年代前半のコンゴ・ポピュラー音楽シーンを代表するミュージシャン。その歌と演奏はコンピレーション"NGOMA: THE EARLY YEARS,1948-1960" (POPULAR AFRICAN MUSIC PAMAP 101) などで聞くことができる。

 57年末、元OKジャズのクラリネット奏者エッスーと歌手ロシニョールが、エッスーとおなじコンゴ〜ブラザヴィル(フランス領コンゴ、のちのコンゴ共和国)出身でサックス奏者のマラペとパーカッション奏者のパンディらをさそってロッカ・マンボを結成。ノエルはギタリストとして抜擢される。ロッカ・マンボの音源は長いこと、いまはなきオリジナル・ミュージックのコンピレーション"THE SOUND OF KINSHASA" (ORIGINAL MUSIC OMCD 010) で1曲がCD復刻されているのみだったが、最近になってアフリカン・ジャズやOKジャズほか、ルンバ・コンゴレーズ最初期のグループの貴重な録音を収めた"LES GROUPES CHOCS DES ANNEES 50" (TRECK CDFM417) で4曲が復刻された。

 59年6月、独立気運の高まりのなか、エッスー、パンディらはOKジャズにいた同郷のエド、セレスティン、ドゥ・ラ・リュヌらとともにブラザヴィルへ帰ってオルケストル・バントゥ(バントゥ・ジャズ)を結成する。翌年のなかばにはマラペもこれに合流。このとき、ノエルも川を渡りメンバーに加わる。
 バントゥは62年末に渡欧しブリュッセルで約50曲のレコーディングをおこなった。フランコ風にジャズ・ギターのエッセンスを加えたノエルの歯切れのよいギターワークは、エッスーのクラリネットとマラペのサックスとともにバントゥ・サウンドのかなめとなった。チャチャチャなどキューバ音楽の影響を受けた軽快でさわやかなルンバは、基本的にはロッカ・マンボの延長線上にありながら格段に洗練され同時期のOKジャズに匹敵するかその上をいくクオリティの高さだ。これらは LES BANTOUS DE LA CAPITALE "1963/1969" (SONODISC CD 36527) などで聞くことができる。

 ノエルはバントゥに約3年間在籍するとレオポルドヴィルへ戻り、フランコのかつての兄貴分で、実弟ジョニー・ボケロとケンカしてコンガ・シュクセを割って出たドゥワヨンにさそわれて新バンド、コバントゥに加入する。
 すると、今度はドクトゥール・ニコロシュローら全メンバーに見捨てられたグラン・カレことジョセフ・カバセルからグループ再結成のためのパートナーにと声を掛けられる。こうして新生アフリカン・ジャズに63年(64年)から67年ごろまで在籍した。
 コバントゥ在籍時の演奏はたぶんCD復刻されていない。アフリカン・ジャズ在籍時のものはGRAND KALLE & L'AFRICAN JAZZ "1966-1967"(SONODISC CD 36536)として復刻されている。発売元のソノディスク倒産のため廃盤だったが、最近シラール(SYLLART 823415)から再発された。

 67年、カバセルがアフリカン・ジャズを解散してパリへ移住すると、ノエルは同僚だったジャン・ボンベンガが起ち上げたヴォックス・アフリカに参加。ロシュローのアフリカン・フィエスタ・ナショナルにいたサム・マングワナ、のちにTPOKジャズのヴォーカルを務めるンテサ・ダリエンストなど、有能な若手の人材が多く集まった。ノエルは短期間でヴォックス・アフリカを脱退したことから、かれの参加が確実と思われる BOMBENGA & VOX AFRICA "NALUKI YO TROP ELODIE" (SONODISC CDS 7021) をあげておくことにする。

 そして68年11月、ついに自己のグループ、オルケストル・バンブーラを結成。のちにTPOKジャズへ加入し、現在はケケレの中心メンバーである歌手のウタ・マイこと、ブレイス・パスコ・マヤンダ、のちにサム・マングワナのアフリカン・オール・スターズに加入し、ヨーロッパでセッション・プレイヤーとして活躍するギタリストのボポール・マンシャミナ、おなじくTPOKジャズの看板歌手になるマディル・システムもメンバーとして名を連ねた。残念ながら、わたしはバンブーラの演奏を聞いたことがない。たぶんCD未復刻だろう。

 バンブーラでノエルはバンドリーダーとしてやっていくことにホトホト嫌気が差し、おそらく3年ぐらいでグループをたたんでしまう。それからというもの、あるグループに短期間籍を置いては別のグループに、という具合にギターを持った渡り職人のようなライフ・スタイルを続ける。しかし、73年にボンベンガとヴォックス・アフリカを一時再結成したということ以外、この期間、かれがどのようなバンドでプレイしていたのかはよくわからない。

 78年、ノエルは長い渡り鳥人生に見切りをつけ、フランコのTPOKジャズに加入。以後、フランコが89年10月に死去するまでの約12年間在籍する。TPOKジャズは生活を保証する代わりにメンバーへの規制がきびしいことで知られていた。結果としてノエルは自由より安定を選んだことになる。

 フランコ自身が天才ギタリストだったこともあって、TPOKジャズ時代のパパ・ノエルは音で聞くかぎりでは印象度が薄い。これはモーズ・ス・ファンファンがそうだったように、フランコのソロにぴったり寄り添ってこれを引き立てたり、またときにはフランコの代わりにソロをとったりと個性よりも職人的なプレイが求められていたせいではないか。
 このことを端的に示していると思うのが、フランコの死から2年後の91年にシマロを中心にまとまったTPOKジャズがおこなったヨーロッパ・ツアーのライヴを収録した『スフィンクス・フェスティヴァル(前篇・後篇)』(A.P.L. DIFFUSION CBC CD19&CD23 / GRAND SAMURAI PGS-44D&45D)である。このなかでフランコ時代のナンバーが何曲かとりあげられ、ノエルはフランコがよみがえったのではないかと思えるような、まさに職人技というべき完璧なコピーを聞かせてくれている。

 フランコは許可なくメンバーがライヴやレコーディングなどの活動をおこなうことを堅く禁じていた。80年代になって、この禁を破ったのはあろうことかTPOKジャズの大番頭シマロとその片腕というべきパパ・ノエルだった。
 80年、フランコがヨーロッパへ拠点を移すと、ジョスキー、マディル、ダリエンスト、ンドンベ、ウタ・マイら主要メンバーも相次いで移住した。しかし、シマロ、パパ・ノエル、シェケンらはキンシャサに残った。こうしてTPOKジャズはヨーロッパ組とキンシャサ組と二つ存在することになった。

 83年、キンシャサの対岸ブラザヴィルに最新の録音機材を備えたスタジオIADが誕生。翌年、シマロとパパ・ノエルはフランコに内緒でこのスタジオを使ってそれぞれのソロ作をレコーディング。シングル・カットされたシマロの'MAYA' もパパ・ノエルの'BON SAMARITAN' もともに大ヒット。フランコの'TU VOIS?' をさしおいて、その年のベスト・ソングの第1位と第2位に選ばれたものだからフランコの怒ったのなんのって。

 本盤は、このときに発売されたLP"BON SAMARITAN" の4タイトルと、10年後の94年にパリのスタジオでレコーディングされたLP"HAUTE TENSION" の4タイトルのカップリング。
 全曲がノエルのオリジナル。ギター職人にふさわしくノエルは双方のLPで、全ギター・パートを一人で多重録音している。アレンジもおそらくノエル本人だろう。"BON SAMARITAN" ではプロデュースまでしている。まさにノエルの一人舞台だ。

 楽器編成はいたってシンプル。まず、TPOKジャズからフラヴィアン・マカビのベース、デュ・プールのパーカッション。バントゥ時代の仲間だったリッキー・シメオンのドラムス。コンゴ〜ブラザヴィルの軍楽隊がホーン・セクションを担当。ヴォーカルには、シマロの'MAYA' で抜擢された23歳の新人カルリートと、バントゥ出身のベテラン、セレスティンを起用。
 カルリートは"HAUTE TENSION" にも参加。元バンブーラ、TPOKジャズでは同僚だったウタ・マイとのコンビを組む。楽器編成はホーンズがシンセサイザーに代わった以外は"BON SAMARITAN" のときとおなじ。

 ジャズ・ギター風のメロウなトーンで軽やかに紡がれていくノエルのギターをバックに、ビロード・ヴォイスといわれるカルリートのファルセットが甘美に舞う。1曲の演奏時間は平均して6、7分台とリンガラ音楽としてはコンパクト。はじまりのヴォーカル・パートから終盤のセベン(インスト・パート)にいたるまで、無駄がいっさいなく一音一音に奥行きが感じられる。

 "BON SAMARITAN" では、メロディ・ラインも質感も展開も基本的にはTPOKジャズ(なかでもシマロ)サウンドと重なるところが多い。ところが、"HAUTE TENSION" になると、ギターのトーンはいっそうアコースティック感覚を帯び、曲調もいわゆるリンガラ音楽の典型的なパターンから脱してきている。"RUMBA ON THE RIVER" の著者ゲイリー・ステュワートが「灰色の90年代」と言い当てた時代にあっては、ひときわ光彩を放つスコアの数々である。しかし、個人的には"BON SAMARITAN" のサウンドのほうが好み。
 なお、まだ聞いたことがないが、"BON SAMARITAN""HAUTE TENSION" とのあいだにもう1枚、86年にリリースされた"ALLEGRIA" というアルバムがあるらしい。

 98年にサム・マングワナがアコースティック・サウンドにチャレンジしたアルバム"GALO NEGRO" (MUSIDISC 122532 / PUTOMAYO PUTU 140-2) を手伝って以来、マングワナのコンサート・バンドの音楽監督を務めた。また、2000年に英国で開催されたウォーマッドのハイライトとして、モーズ・ス・ファンファン、マングワナのアフリカン・オール・スターズやカトゥル・エトワルに在籍したシラン・ムベンザと3人のギタリストでアンプラグドのギグをおこない評判を呼んだ。おそらくこのことがきっかけとなって、ノエルが愛してやまなかったキューバ音楽の、本場のミュージシャンたちとの共演が実現し2枚のアルバムとして結実した。

 1枚はヌエバ・トローバの若きシンガー・ソングライター、アダン・ペドロソとのデュオによるライヴ・レコーディング PAPA NOEL & ADAN PEDROSO "MOSALA MAKASI" (YARD HIGH YHCD3)。もう1枚はトレス(複弦3対の小型ギター)の名手イサーク・オヴィエドを父に持ち、チャポティーン楽団やエストレージャス・デ・チョコラーテにも在籍したベテラン・トレス奏者パピ・オヴィエドとのコラボレーション PAPA NOEL & PAPI OVIEDO "BANA CONGO" (TUMI 107)。

 前者はオール・アコースティック・ギターによる弾き語り。ノエルが5曲、ペドロソが4曲提供。残り1曲は若き日の恩師レオン・ブカサのカヴァー。パートナーのペドロソは白人のいわゆるフォーク・シンガーだし、またギター・フェスティヴァルでのライヴということもあって、ダンス性はなく聞くための音楽に終始。したがってアフリカやキューバの黒っぽさよりもスペイン的な感覚がつよい。繊細で内省的なギターの響きと素朴だが奥深い歌声から、アルゼンティンのフォルクローレの大家ユパンキを想像してしまった。

 対照的に後者は、「アフリカ・ミーツ・キューバ」の期待を裏切らない内容。アコースティック・ギターにベース、ラテン系打楽器、ときにトランペットが加わる程度のシンプルな楽器編成。ノエルが音楽監督を務めた5曲はすべてかれのオリジナル曲。うち3曲でみずから歌う。歌はお世辞にもうまくないが、適度なヘタレ具合がトレス風に響くギターとあいまってラテン音楽ならではの哀愁味を放っている。
 他方、オヴィエドがトレスを弾き音楽監督を務めた5曲はスペイン語で歌われるソン〜サルサ系の正統派キューバ音楽。ノエルのギターはあまりに違和感なく音楽に溶け込みすぎていて、かえってかれの必然性が感じられなくなっている。演奏の良し悪しとは別に、ノエルの職人気質が裏目に出てしまった典型的なケース。

 余談だが、アフリカ人はなぜか、キューバ内陸部のスペイン系農民の音楽であったグァヒーラを好む傾向があるみたいだ。たとえばセネガルのオルケストル・バオバブアフリカンドの音楽にもその影響が感じられる。そういえば、ケケレの"KINWAKA"は、30年代にグァヒーラをポピュラー音楽として広めたキューバのシンガー・ギタリスト、ギジェルモ・ポルタバーレスへ捧げたアルバムであった。思うに、これは60年代後半にNYから火が着いたブーガルーとも無関係ではないだろう。

 2001年、ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブの成功にあやかって、古き良き時代のルンバ・コンゴレーズを知る生き証人たちによって結成されたスーパー・グループ、ケケレに参加。カトゥル・エトワルにいたニボマ、ウタ・マイとシラン、ジェスキンの愛称で知られる元トリオ・マジェシのロコ・マセンゴなど、50代以上のベテランたちが居並ぶなかでノエルは最年長。
 アルバムは、2006年現在で3枚リリースされているが、このうちノエルが参加しているのは1枚目の"RUMBA CONGO"(STERN'S AFRICA STCD1093) と3枚目の"KINWAKA"(STERN'S AFRICA STCD1101)。アコースティックな質感にこだわったサウンド・プロダクトは、90年代以降ノエルが地道に実践してきた方向性と重なる。カトゥル・エトワルなんかシンセやうちこみを多用したパリ・リンガラの典型だったのに、そのメンバーが売れなくなったからってちゃっかり宗旨替えし、あたかも「昔からこんな音楽やってました」みたいに開き直る態度が許せない気がする。それをいうなら本家ブエナ・ビスタの面々だって怪しいものだが‥‥。ノエルにはそういう商魂があまり感じられず好感が持てる。

 2006年現時点で66歳をむかえたノエルは、フランコとドクトゥール・ニコという二大ギタリストの遺業を受け継ぐただ一人の現役プレイヤーだろう。老境に入ってから脚光を浴びたことといい、本家ブエナ・ビスタでいえばコンパイ・セグンドのようなものか。あるいは、ギター1本でさまざまなグループを渡り歩いたところからキューバの名トレス奏者ニーニョ・リベーラにたとえるべきか。「永遠のギター少年、パパ・ノエルこそ、コンゴ・ポピュラー音楽の人間国宝である」といってしまおう。



(12.6.06)



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by Tatsushi Tsukahara