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Artist

ARSENIO RODRIGUEZ Y SU CONJUNTO

Title

ABRE CUTO GUIRI MAMBO


abre cuto guiri mambo
Japanese Title アブレ・クト・グィリ・マンボ
[俺の言うことをよく聴きな]
Date 1945 - 1953
Label DISCO CARAMBA CRACD-230(JP)
CD Release 2004
Rating ★★★★★
Availability ◆◆◆◆


Review

 アオラ・コーポレーションのレーベル、ディスコ・カランバは、どちらかというと現代キューバ音楽が守備範囲だったせいもあって、これまでわたしとはあまり縁がなかった。そこからまさかアルセニオの未復刻音源19曲がCDリリースされようとはだれが思っただろう。

 中村とうようさんにいたっては『ミュ−ジック・マガジン』のレビューで「本当はトゥンバオから完全復刻盤で出してほしかった」などと注文をつけ、まるで「オメエなんかにアルセニオを出す資格なんてねえよ」といわんばかり。そんなこといわないで、この歴史的な音源の世界初復刻を日本人の手で成し遂げたということを素直に讃えようではないか。

 音源はハバナ在住のコレクターが所有するSPとマスター・テープ。そのため、音質はお世辞にも良好とはいえないが、CDはおろか、LPにもなったことがないレア音源であり、なおかつ、アルセニオ絶頂期の歌と演奏を収めるとあっては、マニアなら狂喜乱舞せずにいられようか。

 ところで、キューバ時代のお宝音源の復刻といえば、97年にプエルト・リコのレーベル、クバナカンからリリースされた"OYE COMO DICE..."(CUBANACAN CUCD 1703)が思い当たる。アルセニオ最初期の貴重な音源を含む全曲未復刻からなるこのCDの仕掛け人は、有名なラテン音楽コレクターにして、ラテン系ラジオ番組のホストでもあるキューバ出身のクリストバル・ディアス・アヤーラという人物。アヤーラはアルセニオのディスコグラフィを作成していて、そのコピーを手に入れることができた(すべてスペイン語)。

 63年のルースト盤"PRIMITIVO" が58年とされるなど、あきらかなまちがいはいくつかみられるものの、キューバ時代のSPレコードのリストが充実していてたいへん参考になる。それによると、52年春にNYへ移住するまでにアルセニオ・コンフントとしてレコード化された曲数は142曲。このうち、今回初復刻の16曲(その他3曲のうち1曲は未掲載、2曲はNY録音)を加えてもCD化されたのは全部で83曲。ということは、40パーセント以上の59曲が未復刻ということになる。とうようさんが要望した完全復刻がいかに困難な道のりであるか、このデータが裏づけている。

 本盤にはアヤーラのディスコグラフィに載っていない曲が1曲あると書いたが、それはアルセニオ作とされるソン・モントゥーノ'MI CHINA TIENE COIMBRE' のこと。原田尊志さんが解説でふれているとおり、この曲はトゥンバオ盤"MONTUNEANDO CON ARSENIO RODRIGUEZ Y SU CONJUNTO 1946-50"(TUMBAO TCD-031)収録の'ESA CHINA TIENE COIMBRE' とタイトルこそそっくりだがまったく別の曲想(ともに48年録音とある)。ということは、CDはおろかSPレコードにさえなっていない処女音源だったのか?
 それにしては、このノリ、この旋律、どこかで聞き覚えがあって、ずーっと引っかかっていた。が、このほどついに、その謎が解けた。(だからアップする気になった。)

 アルセニオ楽団の全盛期をささえた歌手のひとりにレネ・アルバレスがいる。いかにもアルセニオ好みの、潮風に揉まれたようなコクのある歌声で、'DAME UN CACHITO PA'HUELE''CHICHARRONERO''EL RELOJ DE PASTORA''CANGREJO FUE A ESTUDIAR'(46年録音ですべてTCD-031収録)などの名演を生んでいる。
 アルバレスは、アルセニオのもとを去ると、48年に自己のコンフント、ロス・アストロスを結成した。この知られざる楽団の貴重な歌と演奏が、RENE ALVAREZ Y SU CONJUNTO 'LOS ASTROS' "1948-1950: YUBALE"(TUMBAO TCD-062)として復刻されている。そのなかの'MI CHINA SI' こそ、まさしく'MI CHINA TIENE COIMBRE' なのだ。(クレジットをみると、アルセニオではなくトランペッターのファニート・ロヘル Juanito Roger 作ということになっている。)

 驚くべきことに、これら2曲はアレンジも歌も演奏の感じもまったくよく似ている。同一テイクかと思って何度も聴きくらべてみたくらい。ちがいがあるとすれば、アルセニオ盤のほうが、トレスが前面に出てボンゴもにぎやかで全体によりワイルドな印象を受けることか。
 もしかすると、同一セッションの別テイクなのかもしれないと思った。しかし、アルバレス盤のトレスはパーカッシブな力づよさに欠け、アルセニオのものとは思えない。そこで、こういう想像をしてみた。

 はじめに、アルセニオのコンフントとして 'MI CHINA TIENE COIMBRE''ESA CHINA TIENE COIMBRE' がレコーディングされた。レコード化にあたって、最終的に後者が採用されたことで、歌詞が似通っている前者はおクラ入りとなった。ボツになったとはいえ、完成度の高さからあきらめきれずにいたアルバレスと他のメンバーたちは、日を置かずアルセニオ抜きで同曲の再レコーディングをおこなった。これがロス・アストロスの'MI CHINA SI' として日の目を見た、という推理である。

 しかし、そうなると、ロス・アストロスはアルセニオのいないアルセニオ楽団ということになってしまう。この場合はそうだったのではないか。
 当時、キューバ音楽シーンはかつてない活気にあふれ、ミュージシャンの掛け持ちや引き抜きは日常茶飯事だった。アルセニオのコンフントとて例外ではなく、日替わりメニューのようにメンバーが目まぐるしく入れ替わっていた。ということは、アルセニオ楽団のアイデンティティとはアルセニオがリーダーでいる以外にはなく、リーダーがアルバレスに代われば当然、別の楽団ロス・アストロスになる。
 その証拠に、アルセニオ楽団は48年にコンガ奏者がアルセニオの弟“キケ”からフェリックス・アルフォンソ“チョコラーテ”に交替したことが報告されているけれども、その“チョコラーテ”が同時期にロス・アストロスのメンバーとしてクレジットされているのだ。もちろん、ロス・アストロスがアルセニオ楽団とつねにおなじメンバー構成だったとはいわない。だが、アルセニオ楽団を母体としていたことはほぼまちがいないと思う。

 その他の収録曲については、ブックレットに原田尊志さんのくわしい解説があるので軽くふれるにとどめておく。
 アフリカ起源の民俗的なルンバの一形式であるグァグァンコーをもとにアルセニオが創始したといわれるポピュラー音楽としての“グァグァンコー”がはじめてレコードになったのは、46年12月録音の'JUVENTUD AMALIANA'TCD-031収録)だと思う。本盤冒頭に収録の'TIMBILLA' は、これより約1年半前の45年7月録音。音楽形式は“ルンバ・デ・カホーン”とあり、ポピュラー音楽として洗練された“グァグァンコー”にくらべると、まだ泥臭く荒々しい。原田さんの解説にある「グァグァンコーの、完成一歩手前の瑞々しさ」とはいいえて妙。

 この'TIMBILLA' を除けば、あとの18曲は48年から53年のレコーディング。53年の2曲はNY録音だが、残りはすべてキューバ録音。なかでも、これまで2曲が復刻されたのみで謎が多かった渡米前の51、52年の演奏が、新たに10曲も日の目を見た意義は大きい。
 アルセニオがエレキ・トレスを弾くようになったのは、これまで渡米後と思っていたが、今回の復刻で51年には早くも使っていたことが判明した。スタンダード・ナンバー'LINDA CUBANA' のフレーズが引用されるソン・モントゥーノ'ME DIJO QUE SI Y LE DIJE QUE NO' や、ツッコミ気味のリズム・パターンがNY派マンボの影響かといわれる'MIRA CUIDADITO' におけるギラギラして躍動感あふれるプレイは、エレキならではの味わいといえるだろう。

 しかし個人的に最大の収穫は、なんといっても45年にグループを離れたきりと思っていたミゲリート・クニーの参加が確認されたことである。アルセニオ作のグァグァンコー'AMORES DE VERANO' では、多重唱を好んだアルセニオにはめずらしくクニーにソロをとらせる。そんなアルセニオの期待に応えるかのように、クニーは二代広沢虎造をほうふつさせる、粋と野暮とが交錯するアーシーなノドを思う存分披露してくれている。音楽形式が“モントゥーノ・アフロ”とあるチャポティーン作の'BURUNDANGA' にしても同様で、このシケモクのような味はクニーでなくては出せまい。
 ただ、2曲ともアルセニオとしてはやや重心が軽く、そのぶん疾走感はあるけれども、むしろチャポティーンのコンフントに近い感じがする。このことは、原田さんが推測したように、すでにチャポティーンに楽団のイニシアチブが渡っていたことの示すものなのかもしれない。

 ラストの2曲は渡米後の53年録音だが、クオリティではキューバ録音にけっして劣らない。
 このうち、サラという女性歌手を立てた'PRESTEME EL CUBO' は、渡米直後の52年4月から9月までの音源からなる復刻盤"CLASICAS DE UN SONERO"(SEECO SCCD 9352)に頻出する“ソン・カペティージョ”なるスタイルで演奏される。キューバ時代にくらべると、ミョーににぎやかで華やいだ印象を受けるが、黒曜石のような輝きは失われていない。ラフで躍動感あふれる歌と演奏は、(ポピュラー音楽としての)アフリカっぽさという点で本盤随一だろう。

 今回のリリースであらためて感じたのは、アルセニオのボレーロのすばらしさである。ロマンティックだがセンティメンタルに溺れすぎず、ビターでストイックな男のダンディズムが香り立つ。
 本盤にボレーロは(“ボレーロ・ソン”などのヴァリエーションまで含めると)全部で7曲収録されていて、どの曲も捨てがたいが、なかでもアルセニオが書いたボレーロの大名曲 'LA VIDA ES UN SUENO'「人生は夢」につうずる哀愁味を帯びた'TU FAZ MORENA' が好き。アルセニオといい、ベニー・モレーといい、ミゲリート・バルデースといい、フランコといい、偉大なアーティストはスローな曲においてこそ真価を発揮することを実感した。

 最後に、これは「ベスト・アルバム2004」で書いたことだが、キューバ時代とNY移住後のアルセニオとがまったく別物であるかのようにとらえていたこれまでの自分の見方には行き過ぎがあったことをこのアルバムは教えてくれた。すくなくともキューバ革命まではNYとハバナのあいだをアルセニオも他のミュージシャンたちも自由に行き来していたはずで、事実、アヤーラのディスコグラフィによって、56年の4月と10月にアルセニオがハバナでレコードを吹き込んでいたことがわかった。

 53年を最後に58年ぐらいまでの約5年間、アルセニオの音源はまったく復刻されておらず、いまだ謎に包まれている。キューバ時代とNY時代とに断絶を感じてしまうのは、このミッシング・リンクのせいだろう。マンボ〜チャチャチャの時代にNYとハバナを行き来しながらアルセニオがどんな音楽をやっていたのか、たいへん興味をそそられる。
 アオラさん、つぎはこのあたりの復刻を是非お願いします。


(2.15.05)



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by Tatsushi Tsukahara