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Artist

FRANCO ET LE TOUT PUISSANT O.K.JAZZ

Title

LE GRAND MAITRE FRANCO ET LE TOUT PUISSANT O.K.JAZZ


kita-mata-bloque
Japanese Title 国内未発売
Date 1983 / 1988
Label ESPERANCE/SONODISC CD 8474(FR)
CD Release 1990
Rating ★★★★☆
Availability


Review

 フランコの死の翌年、ソノディスクから"LE GRAND MAITRE FRANCO ET LE TOUT PUISSANT O.K.JAZZ" のタイトルで4枚のCDが連番 ESPERANCE/SONODISC 8473〜8476 で同時リリースされた。本盤はそのなかの1枚。

 91年にオルターポップから国内発売された『ル・グラン・メートル〜ザイール音楽の魅力を探る(2)』(AFPCD-3213)は、本盤とおなじ写真が表紙に使われているのでまぎらわしいが、こちらは上の4枚と、"FRANCO ET LE TOUT PUISSANT O.K.JAZZ" のタイトルで89年に発売された2部作ESPERANCE/SONODISC CD 8461〜8462、いわゆる'MARIO' シリーズの1枚から選曲された再編集盤。選曲にあたったのは中村とうようさんだが、ほかに入れるべき曲があったはずで「オレに選曲をやり直させてくれ」といいたい気分。

 発売直後、この4枚シリーズを『ミュージック・マガジン』でいち早く紹介したのもとうようさんだった。記事中、氏はこれらを70年代前半からなかばの録音だろうと自信ありげに書いている。だが、実際は、大半がフランコ晩年の87〜88年に発売されたLPから採られたもの。
 当時、フランコにかんする情報が少なかったことを差し引いても、「70年代のLPは大体持っている」と自負するひとが、なんでこうまで見当ハズレもはなはだしいミスを犯したのか理解できない。氏にはリンガラ音楽全般にかんして先入観で決めてかかってしまう悪いクセがある。だから「フランコがいいのは70年代だ」というのがまず頭のなかにあって、たまたま聴いてみたのがよかったもんだからそう決めつけてしまったのではないか。
 わたしのいうこともアテにならないが、エライ評論家の先生のいうこともアテにならないなあ。

 さて、この4部作は、全曲フランコの作品でしめられていた'MARIO' シリーズにたいし、フランコのほかにシマロ、ジョスキー、ダリエンスト、ンドンベといったメンバーの作品がならび、そのぶん音楽のバリエーションも豊富。いってみれば、フランコ個人よりもTPOKジャズというオルケストルに焦点を当てた構成になっている。
 別項でとりあげたシマロ作品集 ESPERANCE/SONODISC 8473 を除く3枚は、例によって3〜5種のLPから虫食い式に選曲されているが、どれも内容は濃い。
 そこで本盤を論ずる前に、やむなく選外とした2枚についてもふれておこう。

 白い開襟シャツに黒のベストを着て、家の前でリラックスした様子で微笑んでいるフランコが表紙のESPERANCE/SONODISC 8475 には、フランコの1曲にンドンベとダリエンストの作品をそれぞれ2曲収録。

 フランコ作の'J'AI PEUR' は、88年にメンバーに加わった女性デュオ、バニエルとナナをフィーチャーしたLP"CHERCHE UNE MAISON A LOUER POUR MOI,CHERIE" からの選曲。ここではめずらしくキーボードやシンセドラムが使われていて、これまでになくポップでメロウなサウンドに仕上がっている。

 ンドンベが書いた'ANJELA''TAWABA' の2曲は、フランコのラスト・レコーディングとなったサム・マングワナとのセッションを収めた"FOR EVER"(SYLLART/MELODIE 38775)の直前にリリースされた“フランコ、ンドンベとTPOKジャズ”名義のマキシ・シングルを音源としている。ともにTPOKジャズらしいさわやかでゴキゲンなナンバーで、現地ではそこそこヒットしたらしい。本盤のハイライトといえるだろう。
 ダリエンストは84年の終わりごろにTPOKジャズを脱退していたが、88年になって復帰。こうして、“フランコ、ダリエンストとTPOKジャズ”の名義で発売されたLPに収録されていたのが'NALOBI NA NGAI RIEN''DODO' である。ンドンベの前の2曲にくらべて、全体にサウンドがまったりした印象。悪くはないけど。

 4枚中、中村とうようさんがもっともほめていたのが、ダニエルとナナとおぼしき女性に囲まれ両手に花のフランコが表紙のESPERANCE/SONODISC 8476。この編集盤は5枚ものLPを音源とした玉石混淆の内容。

 ブラザヴィルのオルケストル・バントゥ・ドゥ・ラ・キャピターレ出身のシンガー、エメ・キワカナ Aime Kiwakana は、スターぞろいのTPOKジャズにあってイマイチ存在が地味だがなかなかどうして、かなりの実力派と見た。本盤冒頭の'EPERDUEMENT' は、86年にリリースされたLP"A NAIROBI" に収録されていたかれの代表作。スピーディでタイトなサウンドはかっこよさではピカイチ。

 ダリエンストの'MAMIE ZOU' は、前述の“フランコ、ダリエンストとTPOKジャズ”名義のLPから。ソングライターとしてのダリエンストのセンスが光る佳曲。
 ヨーロッパ組の副将格ジョスキーのペンなる'OSILISI NGAI MAYELE' も、ダリエンストの'MAMIE ZOU' 同様、メロディラインがキャッチーですばらしい。このサビ、どこかで聴いたことがあるような気がするのだが、それぐらいインパクトのつよいってことなのか。
 フランコ存命中のTPOKジャズにシマロが最後に提供した楽曲が、バニエルとナナをフィーチャーした'JE VIS AVEC LE P.D.G.'。途中、フランコのナレーションが入る。だが、シマロにしては平凡な曲。

 シマロによる上の1曲を除けば、バニエルとナナが歌った曲はすべてフランコの作品でしめられている。88年発売のLP"LES ON DIT" 収録の'FLORA, UNE FEMME DIFFICILE' もそのひとつ。はじめはフランコ自身が彼女たちとシンプルなコーラスのやりとりをくり返し、途中からマディル・システムにバトンタッチ。TPOKジャズ初の白人によるチャラチャラしたキーボードが入っているものの、全体としての内容は濃い。
 おなじくフランコ作なる'LA BRALIMA ET SA BRASSERIE DE L'AN 2000' では終始フランコ自身がヴォーカルを担当。コーラスをくり返すだけのシンプルな構成だが、いぶし銀のような味わいが感じられる。



 これら強力盤をさしおいてのエントリーというだけで本盤がいかに充実した内容であるかわかろうというもの。
 本盤の特徴をひと言でいうならば、ジョスキー作品集ということになろうか。実際は全4曲中、ジョスキーの作品は2曲だが、全体にジョスキーぽいカラーがつよく感じられる。

 73年にオルケストル・コンティネンタルからTPOKジャズ入りしたジョスキー・キャンブクタは、TPOKジャズ・サウンドのカナメというべき“ハーモニック・フォース”の壁を築き上げた功績者のひとり。だから、ジョスキー主導のチューンはいつもきまってソロよりもコーラスに重きを置いた集団性の高い演奏になっている。ジョスキーのスウィートな歌声もつねにそんな予定調和のなかにあった。しかし、このことは裏を返せば、個性が稀薄なマンネリズムに陥る危険ととなりあわせといえなくもない。フランコの音楽はよく「王道」といわれるが、このことばはむしろジョスキーにこそふさわしい。

 本盤に収められたジョスキーの2曲、'KITA-MATA-BLOQUE''MINZATA' は、そういう意味で「王道のなかの王道」といえそう。これらは88年に“フランコ、ジョスキーとTPOKジャズ”の名義で発売されたジョスキー作品集"MATA,KITA,BLOQUE" に収録されていたもの。ちなみに、このLPのもう1曲'OSILISI NGAI MAYELE' は、前述のESPERANCE/SONODISC 8476 に収録。

 代わりに、本盤には86年にリリースされたLP"A NAIROBI" から、フランコとジョーの合作'MASSIKINI' を収録。ジョーは、結成30周年記念アルバム"LA VIE DES HOMMES" でマラージュとデュエットしていた中堅シンガーだ。
 おもしろいことに、83年に発売された"FRANCO PRESENTE JOSKY" というLPにもジョスキーが書いた'MASSIKINI' というタイトルの曲がある。これは現在、CD"MAMOU" (TU VOIS ?) "(SONODISC CDS 6853)で聴くことができるが、もちろん同名異曲。しかし、フランコとジョーの'MASSIKINI'も、聴いた感じはジョスキーの作風ととてもよく似ていてまったく違和感ない。リード・ヴォーカルもジョーと思うがジョスキーのようにも聞こえる。

 楽曲の親しみやすさ、完璧なヴォーカル・ハーモニー、緩急自在のたくみなアレンジ、テクニシャンぞろいの伴奏陣、そしてフランコ自身のめくるめくギター・ワークと、TPOKジャズ30年の歴史が凝縮された音の果実がここにはある。なかでも、後期TPOKジャズの代表作のひとつとされる'KITA-MATA-BLOQUE' での思わず腰が浮いてしまう陶酔感といったら‥‥。

 さて、本盤には上にあげた3曲とは系統が異なる'C'EST DUR LA VIE D'UNE FEMME CELIBATAIRE' という長ったらしいタイトルの曲が含まれている。これを書いたのはフランコ、歌うはバニエルとナナ。初出はおなじく88年にリリースされたLP"LES ON DIT" から。
 センシティブなジョスキーとは対照的にあいかわらずぶっきらぼうな歌い方。むしろフランコに近いかも。メロディも反復的でいたってシンプルだが、これはこれでいい味になってる。

 以前に述べたように、女性デュオ、バニエルとナナの歌声は5、6種のCDに分散して収録されているため、なかなか論ずる機会がなかった。本稿を締めくくるにあたって、彼女たちをめぐるフランコとタブ・レイ・ロシュローの確執についてふれておくことにしよう。



 80年代なかば、タブ・レイのもとでムビリア・ベルが大ブレイクしたのを目の当たりにしたフランコは、86年、紅一点ジョリー・デッタをメンバーに迎え入れるもわずか数ヶ月の在籍で脱退。代わって白羽の矢が立ったのがバニエルとナナであった。
 ナナは、フランコが少年時代の兄貴分だったドゥワヨンの実弟にあたるジョニー・ボケロ(名門オルケストル、コンガ・シュクセの創設者)のバンドからの参加だったが、バニエルのほうは、ムビリア・ベルの門下生としてタブ・レイのアフリザに籍を置いていたのであった。このことが両巨頭対立の発火点となった。

 いまや「キンシャサのクレオパトラ」と呼ばれ、レイをしのぐ人気を誇っていたムビリア・ベルであったが、あろうことか師匠はこの教え子に手をつけて身ごもらせてしまった。ムビリアが出産休暇をとっているあいだの代役として、レイはバニエルをたてる気でいたのが、フランコの引き抜きによって計画は頓挫。レイが激怒したのも無理もない。
 やむなくレイは、当時19歳の新人ファヤ・テス Faya Tess を起用。ムビリアはまもなく仕事に復帰したが、今度は「クレオパトラ」と新人歌手とのあいだで不協和音がささかれるようになった。そして、ついに87年末、レイが手塩にかけて育てたムビリア・ベルはかれのもとを去っていった。ムビリアの背後で糸を曳いていたのは、これに先立つザイコ・ランガ・ランガ分裂騒動でも暗躍したガボン人プロデューサー、グスタフ・ボンゴ、通称“ンゴス”であった。

 じつはこのザイコ分裂さわぎにもフランコが1枚噛んでいた。事の発端は、リーダーのニョカ・ロンゴがギャランティを独り占めにしていることにたいし、イロ・パブロら主要メンバーが不平不満を洩らしたことにある。そこでフランコは、ニョカ・ロンゴとイロ・パブロを自宅に招いて和解させようとした。フランコが提示した調停案にイロ・パブロは合意したものの、ロンゴは断固これを拒否。かくしてザイコは分裂。イロ・パブロ、ビミ・オンバレ、ヤレンゴス、ポポリポは、88年、ザイコ・ランガ・ランガ・ファミリア・デイを結成する。主要メンバーに逃げられたロンゴはグループ建て直しのため、フランコの仇敵であるレイを頼ったという顛末。

 こんな具合に、タブ・レイとの対立を日に日に深めていったフランコは、88年、社長夫人と未婚の愛人との複雑な関係を歌にした'LES ON DIT'「風聞」)を発表。歌詞の内容といい、バニエルとナナに歌わせたことといい、これはあきらかにレイへの当てこすりであろう。ちなみに、この曲は現在"FRANCO ET LE TOUT PUISSANT O.K.JAZZ"(ESPERANCE/SONODISC CD 8462)にCD復刻されている。

 この時期、ザイールの音楽業界では不正コピーが大量に出回った結果、レコードの売り上げが極端に落ち込み危機的な状況に陥っていた。80年代はじめのころの蜜月時代も今は昔、フランコ、レイ、ヴェルキスは生き残りを賭けて三つどもえの抗争を展開したのだった。
 だが、いっぽうで思うのだが、売り上げが落ち込んだのはリンガラ音楽自体が完全に煮詰まってしまっていたせいでもあったろう。このアルバムでの完成された様式美の世界を耳にするにつけ、その思いをますます強くした。


(3.31.04)



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by Tatsushi Tsukahara