World > Africa > Democratic Republic of the Congo

Artist

FRANCO,VICKY,ROSSIGNOL,ESSOUS,DE LA LUNE ET AL

Title

ROOTS OF O.K.JAZZ
ZAIRE CLASSICS VOL.3 1955-1956


roots of ok jazz
Japanese Title 国内未発売
Date 1955 - 1956
Label CRAMMED DISCS CRAW 7/CRA 2863-2(Belgium)
CD Release 1993
Rating ★★★☆
Availability


Review

 フランコが51年の生涯に残したレコードの数はぼう大な量にのぼる。単独リリースされたCDだけをとっても、2003年の時点で軽く80枚をこえる。まさにコンゴ・ミュージックの巨人である。
 わたしが所有するフランコのCDは数えたことがないので正確な枚数はわからないが、エンニオ・モリコーネやフランク・ザッパと肩をならべるぐらいはあるのではないか。これらのなかには何度もくり返し聴いたものもあれば、2、3回ぐらいしか聴いたことがないものもある。これまでは虫食い的にしか聴いてこなかったため、今回このサイトのために年代を追って聴いてみて、はじめてアイデンティファイできたアルバムが何枚あったことか。

 「フランコには興味があるけど、どこから手をつけていいのかわからない」というひとたちが、わたしのように遠回りをしなくてもすむようにと思い立ったこのコーナーだが、聴けば聴くほどにズブズブと深みにはまってしまい、ここ何ヶ月間かはフランコ専用のサイトと化してしまった。フランコを主人公にコンゴ〜ザイール音楽の流れをたどっていくと、個性的ないろんな人物があらわれては消えていって、ほとんど三国志の様相を呈してくる。ホームページに長文は禁物なのはわかるが、こればかりはどうしようもない。だから、大河小説が好きな方のみおつき合いください。

 わたしがフランコの音楽をはじめて耳にしたのは、87年発売のCDを89年にオルター・ポップが国内配給した『ライヴ・イン・オランダ』(UNIVERSE CDSP 8896-2 (NL)/オルター・ポップ AFPCD205(JP) )だったと記憶している(現在、ソノディスクから発売されている"LIVE IN EUROPE" はそのリイシュー盤)。相前後してサム・マングワナとの新録盤"FOR EVER" (SYLLART/MELODIE 38775-2)がリリースされたので、こちらもさっそく輸入盤で入手した。
 フランコの訃報を知ったのは、その直後、『ミュージック・マガジン』89年12月号に掲載された、いまは亡き山崎暁さんの追悼記事によってだ。“ワールド・ミュージック”が上り調子にあった時期だっただけにその死はたいへん惜しまれた。

*付記
『ライヴ・イン・オランダ』日本配給盤に海老原政彦さんが寄せた解説は89年10月とあり、そこですでにフランコの死にふれていた。したがって、上はわたしの記憶ちがいでした。

 ワールド・ミュージック・ブームに先立つ80年代後半に、日本ではリンガラ音楽が一時盛り上がりをみせた。が、このころになるとすっかり勢いを失い、ユッスー・ンドゥールサリフ・ケイタといった新しいスターたちに完全にとって代わられていた。わたしをアフリカン・ポップスの世界へいざなってくれたのはユッスーやサリフだったからリンガラ音楽に特別な思い入れはない。そんなわけで、わたしのなかでフランコはザイール音楽にあって“スタンド・アローン”としてあったのだ。

 フランコの死後、フランスのソノディスクを中心にフランコの旧録がぞくぞくと復刻リリースされるようになった。そのなかに60年代のO.K.ジャズ音源がいくつか混じっていた。80年代のフランコから入っていった身にはこれは正直いって相当手ごわいシロモノだった。なにしろサウンドがマッタリしていて、どれを聴いても同じように聞こえてしまうのだ。

 60年代のO.K.ジャズのすばらしさを実感できたのは、革命前のキューバ音楽にドップリと浸かる経験を経たのちのことであった。この間、およそ10年。ずいぶん遠回りをしたものだ。
 きっかけは、99年に英国のレーベル、レトロアフリークからリマスターで再発された"ORIGINALITE" 。かつてヴァケーションから国内配給されていたオリジナル盤も持ってはいたが、あまり真剣に聴いたという記憶がない。リマスタリングでずいぶん音質がよくなったが、もっと変わったのは聴き手であるわたしの意識のほうだった。

 ここからわたしのフランコ再発見の旅がはじまった。別室の収納キャビネットの奥のほうで長いこと休眠状態にあったCDを取り出してきてはむさぼるように聴いた。しかし、本盤についてはちがうコーナーに置いてあったせいもあり、不覚にもその存在さえわたしの頭からすっかり抜け落ちてしまっていた。これがリストアップが遅れた理由である。

 本盤は、O.K.ジャズの出発点であったロニンギサ・スタジオに残された音源をもとに編集された"ROOTS OF RUMBA ROCK: ZAIRE CLASSICS" という全3集からなるシリーズの第3弾にあたる。1956年6月6日にO.K.ジャズとして正式にバンド結成される直前に、“バナ・ロニンギサ”(ロニンギサの少年たち)の一員としてフランコが参加したセッション全19曲からなる。発売元のCRAMWORLDは、アクサク・マブール、タキシード・ムーン、ミニマル・コンパクトなど、おもにオルタナ系音楽を扱うベルギーのCRAMMED DISCS 傘下のレーベルである。

 91年に第1集が輸入盤で入荷したときには、リンガラ音楽の知られざるルーツをドキュメントした貴重な復刻としてファンのあいだで話題になったが、その2年後になぜか第3集、さらに2年後に第2集がリリースされたときは、ワールド・ミュージック・ブームがひと区切りついたあとだったこともあって、さして話題にのぼらなかった。

 95年に第2集が発売されたのを機に、第1集(遅すぎる!)とともにボンバが国内発売したが、この第3集だけはなぜか発売が見送られた。いまこうしてとおして聴いてみると、音楽的なおもしろさという点では、ヴァリエーションが豊富なだけ国内発売された2枚に分がある。
 しかし、これら2枚がキューバ音楽ほかカリブ圏の音楽からの影響をモロに受けたバタくさい演奏が主であるのにたいし(第1集収録の'MAZOLE VANGA SANGA' にいたっては'EL MANISERO' 「南京豆売り」のパクリ)、本盤は、ラテン・アメリカ音楽の要素とアフリカ的な要素とがうまく溶け合って、よりオリジナリティの高いポピュラー音楽として完成されつつあったのがわかる。

 ところで、これらの音楽が誕生した背景に、50年代、レオポルドヴィル(キンシャサ)に出現した“ヤンキー”と呼ばれるストリート・ボーイたちの存在を無視することができない。おそらくアメリカ文化にあこがれて奇抜なファッションに身を包んでいた不良っぽい若者たちのことを世間が揶揄を込めてこう呼んでいたのだろう。

 ここで思い出すのは日本の“ヤンキー”のことである。リーゼントやスカマン(「横須賀マンボ」の略称。マンボ時代に流行した腿のまわりがゆったりしたパンツを愛知県ではこう呼んでいた。横浜銀蝿のいう“ドカン”)をきめて、アメリカの最新流行をとりいれたつもりがはからずも土着文化と融合し、かえって濃厚な土着性を身にまとってしまった若者たちをさして関西人が“ヤンキー”と名づけたのは、その意味できわめてユニヴァーサルな表現だったといえる。かれらの姿には敗戦国の屈折感がよくあらわれていて興味深い。

 だが、コンゴの“ヤンキー”はむしろ日本の“太陽族”に近いような気がする。50年代、コンゴは鉱山への未曽有の投資ブームに沸いた。アフリカ人のなかにも新中間層があらわれ、首都レオポルドヴィルにはかれらをターゲットとした数多くのバーが誕生したという。好景気は海外から新しい文化をもたらし、これらに刺激を受けた若者たちのなかから“ヤンキー”が生まれた。これはちょうど“太陽族”の出現が神武景気の到来と期を一にしたのとよく似ている。

 フランコら“バナ・ロニンギサ”の音楽は、そんな“ヤンキー”カルチャーからあらわれた。“太陽族”にはロックンロールがあったが、かれらが演奏する音楽は先行世代と同じく、ベースにあるのはあくまでルンバであった。しかし、そこからは先行世代にはないロックンロール・スピリットのようなものが感じ取れるのだ。

 それならば、いっそのことチャック・ベリー流のロックンロール・ミュージックを演奏すればよさそうなものだが、なぜにルンバにこだわりつづけたのだろうか。理由はいろいろ考えられるけれども、これはロックンロールの源流であるアメリカ黒人音楽の演奏スタイルと関係があるようだ。『愛しのアフリカン・ポップス』(ミュージック・マガジン社)の著者大林稔さんはこんな興味深い説を紹介している。

 アメリカでは長いこと黒人が打楽器を演奏するのは禁止されていた。そのため、ジャズにしてもR&Bにしてもアメリカ黒人音楽ではパーカッションが主要な位置をしめることはなかった。それにたいして、ルンバのようなラテン・アメリカ系音楽ではアフリカ的な打楽器が使われていたのがルンバ人気の原因だという。
 しかも当時、ルンバは白人音楽としてとらえられていた。コンゴのひとたちは、ルンバに親近感を感じながらも、モダンで裕福な白人文化のシンボルとしてルンバにあこがれた。

 ちなみにいうと、ロックンロールとは一般にR&Bをまねた白人音楽をさす。エルヴィス・プレスリーがデビューしたのは53年だから、どっちにしてもロックンロールが浸透するにはまだ早すぎた。しかし、たとえルンバのスタイルをとっていても、ロックンロールを50年代なかばにカウンターカルチャーとして世界的な広がりをみせた若者文化のシンボルととらえれば、“バナ・ロニンギサ”の音楽は立派なロックンロールだったと思う。
 ザイールにジュール・プレスリーと名のるプレスリー狂いの若者がステージに立ったのはこれよりおよそ15年のちのことであった。のちのパパ・ウェンバである。

 1938年7月6日生まれのフランコが4歳年長のエベンゴ・ドゥワヨンとワタムを結成したのは50年(49年の説あり)フランコ12歳(11歳)のときであった。そして、ギリシア人のパパディミトリウが所有するレコーディング・スタジオ、ロニンギサと契約して初レコーディングをしたのは53年である。さのさい15歳のフランソア・ルアンボ少年は“ヤンキー”のヒーロー、アンリ・ボワヌから“フランコ”というニックネームをもらっている。

 同年末、フランコは初の自作曲'MARIE CATHO''BOLINGO NA NGAI BEATRICE ''LILIMA' をレコーディングして、早くもスターの仲間入りをした。
 こうして54年までに自分名義ですくなくとも4曲のシングルをヒットさせたフランコではあったが、かれがステージに立つことはなかった。というのも、当時フランコをはじめ多くのミュージシャンは自分の楽器を持っておらず、契約関係にあったロニンギサが所有する楽器のスタジオ外への持ち出しは禁じられていたのである。
 そこでフランコと仲間たちは、土曜の晩、スタジオから楽器や機材をこっそり持ち出しては市内にいくつかあるバーでライヴ演奏をするようになった。細身で精悍さと少年的なあどけなさをあわせ持っていたフランコに、世の女性たちはたちまち熱狂し、「愛しのフランコさま」'Franco de mi Amor' といわれるほどのアイドル的人気を博した。

 しかし、やがてこのことがオーナーのパパディミトリウの知るところとなり、かれは楽器の持ち出しを厳禁した。困り果てたかれらに、自分のバーへの出演と引き替えに楽器の貸し出しを了承した人物こそO.K.バーのオーナー、オスカー・カシャマだった。O.K.ジャズの前身である“バナ・ロニンギサ”(このころはまだ出演するメンバーは流動的だった)がO.K.バーのステージに立つようになったのは55年とも56年はじめともいわれている。

 さて、冒頭ふれたようにこのアルバムは、O.K.ジャズ名義ではないけれども、フランコをはじめとするO.K.ジャズのメンバーが大多数参加していることから、事実上O.K.ジャズによる演奏といっていいと思う。したがって、'ORIGINALITE' 前半部に収められた曲と演奏内容に大きなちがいはなく、とくにO.K.ジャズ結成が決まったことを祝福した、フランコ作による'LA RUMBA O.K.' にいたっては、O.K.ジャズそのものといっていいほど。

 しかし、なかには“ソロヴォックス”というアコーディオンを模した小さな電子オルガンが使用された曲もいくつかあって、O.K.ジャズとのちがいを出している。
 第1期O.K.ジャズにはエッスーというブラザヴィル出身のリード(おもにクラリネット)プレイヤーがいたが、ビギンやマズルカによく合う優雅さを信条としたかれのプレイはソロには適していてもサウンドに厚みを持たせるにはほど遠かった。この面を補う意味からホーン・セクションの代用として“ソロヴォックス”が使われたと思う。

 サウンドは総じて、キューバ本国というよりも仏領小アンティル諸島のビギンやマズルカの優美なエッセンスが加わったヨーロッパ流のラテン音楽をよりアフリカの土着的なカラーで染め直した感じとでもいえばよいだろうか。歌や演奏はたしかに未完成で粗削りではあるけれども、“ロックンロール魂”にたとえたように、チャレンジ精神にあふれた若々しい熱気とエネルギーが伝わってくる。

 O.K.ジャズに参加しなかったミュージシャンとしては、フランコの兄貴分ドゥワヨンをリーダー名義とする2曲がある。なかでも'VIS-A-VIS' は、タムレのようなビートを刻むダイナミックなパーカッションとフランコの勢いのあるギター・プレイが印象的な本盤屈指の好演といえよう。ドゥワヨン名義の演奏は、ほかにも"VOL.1" で3曲、"VOL.2" で4曲聴くことができる。

 ドゥワヨンはボワヌとともに“ヤンキー”たちの最初のヒーローだった。「半分はアーティスト、半分は犯罪者」といわれたように相当にワルだったらしい。かれは57年にボワヌとともにロニンギサをやめたあと、エセンゴ・スタジオに移って、そこで自分のバンド、コンガ・ジャズ Conga Jazz を結成する。しかし、60年にバンドは解散。その後、弟でギタリストのジャン“ジョニー”ボケロ Jean 'Johnny' Bokelo が58年に結成したコンガ・シュクセへ移籍するも弟とケンカして、62年、のちにO.K.ジャズのギタリストをつとめるパパ・ノエルをさそってコバントゥ Cobantou を結成した。
 
 本CDのバックカバーにはフランコの初レコーディングを収録とある。だが、ふれたようにフランコの初レコーディングは本盤より2年古い53年のことだから、この記述はまちがいである。しかし、残念なことに、フランコ自作自演による最初のヒット曲'MARIE CATHO''BOLINGO NA NGAI BEATRICE 'を含め、53、54年の音源はいまではほとんど紛失されてしまったそうだ。その意味で、本盤はフランコがはじめてエレキ・ギターを弾いたとされる'BOLOLE YA MWASI OYO' をはじめ、現存するなかでは確認できるもっとも古い音源であり貴重な復刻といえる。

 ちなみに53年から55年までの音源からなる"VOL.1""VOL.2"には、さきのドゥワヨンのほかに、フランコがバッキングをつとめたことがあるボワヌの演奏が各2曲収録されている。これらにフランコが参加していた可能性はあるものの確証にはいたらなかった。


(11.28.03)



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by Tatsushi Tsukahara