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Artist

SAM MANGWANA

Title

THE VERY BEST OF 2001


very best of 2001
Japanese Title

国内未発売

Date 1981 - 1986
Label B. MAS BMP02/BMP00158-2(FR)
CD Release 2001?
Rating ★★★★
Availability ◆◆◆◆


Review

 サム・マングワナについては、フランコとの共演盤フェスティヴァル・デ・マキザールティエール・モンド・コオペラシオンをとりあげたさいにさんざん論じてきているのでこれ以上つけ加えることはない!と思っていた。しかし、考えてみると、ネーム・ヴァリューが高いわりには正当に評価されていない感じがしてならない。それは、このひとならではの融通無碍、というか優柔不断さが影響しているのだと思う。しかし、わたしはこのことをむしろ積極的に評価したいと思う。すなわち、

「マングワナは、様式化が進み閉鎖的になったルンバ・コンゴレーズに風穴を開け〈外〉へ向けて相対化した」と。


 マングワナは、フランコのTPOKジャズを脱退後、旧師タブ・レイのもとに一時身を寄せたあと、77年はじめ、コート・ジヴォアールの首都アビジャンに流れ着く。翌78年、アビジャンでタブ・レイのグループにいたギタリストのディジー・マンジェク 'Dizzy' Mandjeku Lengo とロカッサ・ヤ・ムボンゴ Lokassa kasia 'ya Mbongo' らと合流。元バントゥ・ドゥ・ラ・カピタルのシンガー、テオ・ブレイス・クンク Theo Blaise Kounkouも誘ってアフリカン・オール・スターズ African All Stars を結成する。

 ここでかれらはスローなヴォーカル・パートの前半とスピーディなダンス・パートの後半との2部構成をとっていたコンゴ・スタイルを捨て、のっけからハイペースで飛ばす新しいスタイルを採用した。しかし、いっぽうではザイコ・スタイルによらず、オールド・スクールの優美なハーモニーやジャジーな即興のスタイルを受け継いだのだった。

 かれらのねらいは的中し'GEORGETTE ECKINS' は西アフリカで大ヒット(SAM MANGWANA / GEORGETTE ECKINS(SONODISC CDS 7002)収録)。しかし、79年、早くもオール・スターズはマングワナのグループとマンジェクのグループに分裂してしまう。マングワナは、新たにヴィッキーのロヴィ・デュ・ザイール出身のギタリストのシラン・ムベンザ Syran M'Benzaとギタリストで有能なコンポーザーでもあったパブロ Pablo Lubadika、ジョスキーとオルケストル・コンティネンタルをやっていたギタリストのボポール・マンシャミナ 'Bopol' Mansiamina を仲間にひきいれ、勇躍パリへ進出する。

 仏領アンティル諸島出身のプロデューサー、エディ・グスタヴのレーベルEddy'Son のためにパリで再レコーディングされた2枚のLP"GEORGETTE ECKINS" "MATINDA" は予想以上のヒットとなった。この成功に気をよくしたかれはみずからのプロダクションSAM (Systeme Art Musique) を設立。歌詞に英語やフランス語を用いたり、ヨーロッパのミュージシャンをバンドに入れたりして、このころから“インターナショナル”サム・マングワナと名のるようになる。
 SAMから79年にリリースされたヒット・アルバム"MARIA TEBBO" には、ジンバブウェの独立を祝う'TCHIMURENGA ZIMBABWE'と、カメルーンの子どもたちにささげた'BANA BA CAMEROUN' が収録されているが、このように汎アフリカ的な視点に立って書かれた楽曲も目につくようになった("MARIA TEBBO" (STERN'S STCD301)としてCD化)。

 SAMから3枚のアルバムをリリースしてマングワナはグループを解散。82年、キンシャサでフランコのTPOKジャズと'COOPERATION' セッションをおこなう。フランコとの共演を終えるとマングワナは、その年の後半に、かつて袂を分かったディジー・マンジェク、ロカッサ・ヤ・ムポンゴ、リンゴ・モヤ Ringo Moya とアフリカン・オール・スターズを再結成する。

* マングワナと別れたメンバーのうち、シランとボポールは元TPOKジャズのシンガー、ウタ・マイ Blaise Pasco 'Wuta Mayi'、元ベラ・ベラ、リプア・リプアのシンガー、ニボマ Nyboma Mwan Dido と、83年、パリでカトゥル・エトワル Les Quatre Etoiles を結成。パブロはセッション・プレイヤーとなってカトゥル・エトワルとも共演する。



 ここにとりあげたアルバムは、タイトルからして2001年に発表された音源のベスト集と思いたくなる。しかし、じっさいには第2次アフリカン・オール・スターズを解消後、87年にパリにあるイブラヒマ・シラのレーベルSyllart と契約して国際舞台に復帰するまでの“空白の4年間”を知る手がかりとなる貴重な音源集である。

 この4年間にマングワナはなにをしていたかというと、アフリカ中を転々としていた。83年なかば、マンジェクと南部アフリカのモザンビークへツアーを敢行。ふたりは首都マプトで現地のミュージシャンとLP"CANTA MOCAMBIQUE" を吹き込んだ。独立後、南ア共和国の干渉によって政治的にも経済的にも危機に瀕していたモザンビークへの応援歌で、マングワナはモザンビークの主要言語ポルトガル語で歌った(マングワナの父母の祖国アンゴラもポルトガル語が主要言語)。本盤には、2曲吹き込んだうちの1曲'MOCAMBIQUE OYE' が゚'CANTA MOCAMBIQUE' として収録されている。

 不思議なのは、マングワナとマンジェク以外にエンポンポ・ロワイ Empompo Loway 'Dwyesse' のようなザイールのミュージシャンの名まえが何人か散見されることである。しかも、この曲が発売された83年から3年もあとの顔ぶれと重なるのだ。これはおそらくこういうことだと思う。
 本盤収録の'MOCAMBIQUE OYE' は、86年にケニヤで発売されたベスト盤"HITS OF MANGWANA"'CANTA MOCAMBIQUE' とタイトルを変えて収録された同曲の復刻ではないか。ベスト盤の発売にさいして、モザンビークで録音したマスターテープにオーヴァーダビングが施されたのだろう。

 わたしの推理がまちがいないとすると、本盤ラストの'MARABENTA' は、'CANTA MOCAMBIQUE' とミュージシャンの顔ぶれがおなじで、しかもポルトガル語で歌われていることからして、LP"CANTA MOCAMBIQUE" のもう1曲'VAMOS PARA O CAMPO' の86年リマスター・ヴァージョンとみるのが妥当だ。
 この曲のどこがユニークかというとメレンゲなのである。もうひとつは、マンジェクのギター・ソロがなんだかフランコっぽいこと。前年の'COOPERATION' セッションの影響なのか?

 モザンビーク・ツアーを終えると、マンジェクと別れてキンシャサに入る。そこでサックス奏者のエンポンポ・ロワイ、TPOKジャズを抜けたばかりのシンガー、ンドンベ・オペトゥム 'Pepe' Ndombe Opetum の3人でティエール・モンド・コオペラシオン Tiers Monde Cooperation を結成する。83年発売のかれらのファースト・アルバムに収録された4曲は、2003年に発売された"TIERS MONDE COOPERATION / BOWAYO & OMESONGO"(NGOTARTO NG0100)で復刻された。

 しかし、ファースト・アルバムがリリースされた直後に、マングワナはまたキンシャサを旅立っていった。84年、今度は東アフリカへ大がかりなツアーを実施。東アフリカのマーケットを意識して、スワヒリ語で歌ったというアルバム"IN NAIROBI" をリリースする。マングワナのスワヒリ語なんてとても興味をそそられるが、残念ながらCD未復刻のため未聴。

 86年、ブラザヴィルでエンポンポと再会しティエール・モンド・(レヴォルシオン)Tiers Monde Revolution として3枚のアルバムをリリース。本盤の'BUAYIKI''LE PARISIEN' はここからの音源。ともにエンポンポの楽曲。マングワナはむしろ客分扱いで主役はあくまでエンポンポだ。

 ティエール・モンド・コオペラシオンのころよりさらに音がメロウになったが、うわついたところはまったくなく、音が厚くビートに粘りがある。わたしはエンポンポがつくり上げたサウンドこそ、コンゴ・ミュージックのひとつの到達点だと思っている。90年、かれは惜しくも世を去るが、かれのスタイルを継承・発展させた音楽にいまだ出会えていない。

 ティエール・モンド・(レヴォルシオン)の音源は、このほかに"SAM MANGWANA / WENZE WENZE"(GLENN GM 395001 CD)'WENZE-WENZE''FATIMATA''ADOLO-TIMBI' の3曲、"SAM MANGWANA ET L'AFRICAN ALL STARS 1980/1984: EYEBANA VOL.2"(NGOYARTO NG 71)'ZIMBABWE MY LOVE' が復刻されている(3枚11曲のうち、6曲復刻済み)。

 以上みてきたように、マングワナの“空白の4年間”は空白どころか“充実の4年間”だった。南部アフリカの現実をこの目で見たことで、かれは部族をこえ国家をこえたアフリカ人としての自覚をますますつよくしたにちがいない。それはまさにかれが真の“インターナショナル”になったときだった。

 本盤には“空白の4年間”の4曲のほかに、フランコとの'COOPERATION' セッション直前の81年にSAMプロダクションからリリースされたアルバム"LES CHIENS ABOIENT, LA CARAVANE PASSE" 全4曲を収録。バッキングはシラン、パブロら(ボポールは不参加)。
 アフリカン・オール・スターズ以来のスピーディでライトなサウンドだが、いちばんの特徴はアンティル諸島生まれのズークの影響がかなりつよく感じられること。

 ズークという音楽のスタイルがパリに誕生したのは80年代はじめというから、マングワナはかなり早い時期にこれに着目していたことになる。
 なかでも'AFRIQUE-ANTILLES' は、さまざまなカリブ系音楽にリンガラ音楽の要素がブレンドされて生まれたとされるズークを象徴するようなナンバーだ。ズークならではの親しみやすく楽観的なビートにのせて、マングワナはアフリカの国々の名まえをつぎつぎと連呼しながらその連帯を訴える。それはまさにハイチのミニ・オール・スターズが86年にズークの要素を大幅にとりいれた傑作ナンバー'RARAMAN'『ララマン』(Pヴァイン PCD-2201)収録)とクリソツ!'RARAMAN' は、'AFRIQUE-ANTILLES' のパクリのように思われてならないのだが如何?



 この稿を終えるにあたって、批評が間に合わなかった2004年発売の注目盤についてすこしふれておくことにしよう。
 それは"THE VERY BEST OF FRANCO & SAM MANGWANA ET L'ORCHESTRE T.P.OK JAZZ" (NGOYARTO NG 0106 / NG 0107)のタイトルでフランスのンゴヤルト・レーベルから2集にわたって発売されたCDのことである。わたしは長年求めてやまなかったフランコの真のラスト・レコーディングが復刻されるものと大いに期待に胸を膨らませていた。だが、残念ながら、この2枚にそれは含まれていなかった。コンプリート・ヴァージョン、別テイク、ライヴ・ヴァージョンが一部含まれるのを除けば、復刻済みの音源ばかりで正直いって肩すかしを喰らわされた。

 あえて新発見というのなら、以前から慣れ親しんでいた曲にマングワナが参加していたことをはじめて知ったということか。それでも、フランコとマングワナが共演した演奏は、総じてクオリティがきわめて高いので、ここにとりあげたCDを買うぐらいなら、まずはこれらをおすすめしたいと思う。


(9.27.04)



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by Tatsushi Tsukahara