World > Africa > Democratic Republic of the Congo

Artist

FRANCO, SIMARO, N'DOMBE ET LE T.P.OK JAZZ

Title

MONZO 77/79


monzo
Japanese Title 国内未発売
Date 1977 / 1979
Label AFRICAN/SONODISC CD 36598(FR)
CD Release 1998
Rating ★★★★☆
Availability


Review

 グラン・サムライの主宰にして日本におけるコンゴ・ミュージックの伝道師ともいえるマエストロ・アライ氏によると、グラン・カレにはじまるアフリカン・ジャズアフリカン・フィエスタ〜アフリザの流れとフランコのO.K.ジャズの流れとはけっして交わることはなかったという。大筋ではたしかにそうかもしれないけれども、やはりこれはすこし誤解を招きやすい表現のように思える。

 再三述べてきたように、70年代半ばごろからフランコはサム・マングワナ、ウタ・マイ、ダリエンストといったアフリカン・ジャズ〜アフリザの流れを汲むミュージシャンを積極的に自陣にとりこんでいる。思うに、フランコはコンゴ〜ザイール音楽の2大潮流を統合して“大ザイール音楽”とでもいうべきものを構想していたのではないか。モブツ大統領という強力な後ろ盾を得て、いまやフランコはザイール音楽界におけるありとあらゆる権力と名声と財力とを掌中に収めていたから、かれが「欲しい」と感じたミュージシャンをひきいれるのは比較的簡単なことだった。

 グラン・カレはミュージシャンとしてはなかば引退状態だったから、唯一フランコに対抗しえたのはタブ・レイ・ロシュローぐらいのものだった。クァミーのアフリカン・フィエスタ移籍をめぐるゴタゴタ騒動に懲りたのであろう、フランコとタブ・レイとは、67年に互いに許しなくミュージシャンの引き抜きをおこなわないという紳士協定を結んでいた。アライ氏のいう2つの流れができてしまったことの背景にはこの協定の存在がすくなからず影響していたにちがいない。

 サム・マングワナにしても、ロシュローのアフリカン・フィエスタ66からTPOKジャズへ至るあいだに、ダリエンストやミシェリーノがいたレ・グラン・マキザール時代をはさんでいる。75年にTPOKジャズ入りしたヴォーカリストのンドンベ・オペトゥムも、72年にタブ・レイと改名したロシュローのアフリザをやめて、自身のグループ、アフリザムを旗揚げしたのちでの参加だった。しかし、ンドンベと同時期に加入したギタリスト、“ミシェリーノ”ことマヴァティク・ヴィシにかんしては約定違反にあたるとしてアフリザ側から抗議を受けたが、マヴァティクの契約は切れていたとしてフランコ側は取り合わなかった。
 マングワナはTPOKジャズをやめたあと、かれの故郷アンゴラで数ヶ月の冷却期間をおいて75年10月にアフリザに参加しているので、どっちもどっちというところか。

 なんにせよ、マングワナのTPOKジャズ入りをきっかけに2つの流れが複雑に入り組み合うようになったことはまちがいなさそうだ。そして、力関係で上回っていたフランコ側が次第にジリジリとタブ・レイ側を侵食していったといえそうだ。

 さらに、77年にO.K.ジャズ時代からメンバーだったヴォーカリストのボーイバンダとユールーが相次いでグループを脱退するに及んで、ジョスキー、ウタ・マイ、ンドンベ、ダリエンストとメイン・シンガーはすべてアフリカン・ジャズ〜アフリザ人脈でしめられるにいたった。もっとも、78年にはブラザヴィルの兄弟バンド、オルケストル・バントゥにいたギタリスト“パパ・ノエル”Antonine 'Papa Noel' Neduke(といってもキンシャサ-コンゴ出身)をメンバーに迎えていることからもわかるとおり、TPOKジャズがアフリカン・ジャズ化したというのではなくて、O.K.ジャズ・サウンドを核としてアフリカン・ジャズのエッセンスが加わったとみるのが正解だろう。

 77年と79年にEditions Populaires から発売された音源を集めたこの編集アルバムは、フランコ、シマロとならんで、タイトルにンドンベ・オペトゥムの名まえが クレジットされ、TPOKジャズにおけるアフリカン・ジャズ〜アフリザ人脈の台頭を物語るアルバムといえそうだ。全6曲中、フランコが3曲、シマロ、ウタ・マイ、ンドンベが各1曲を提供している。

 サウンドは軽快でタイトなルンバ・ロックで、基本的には『思い出の70年代』(AFRICAN/SONODISC CD 50382 / オルターポップAFPCD207)の延長線上とみていいと思う。冒頭の'MONZO 1&2' のみ77年で、残りは79年だろうか。

 シマロ作の'MONZO 1&2' は、"1972/1973/1974"(AFRICAN/SONODISC CD 36838)収録のジョスキー作とは同名異曲。シマロらしいソフトで親しみやすいメロディと、ハイハットとコンガがくり出すハギレのいいリズムが印象的なスピード感にあふれた演奏。ホーン・セクションが使われていないせいか、ギターがいつもよりきわだちシャープでタイトな仕上がりになっている。後半のセベン・パートでのめくるめくギター・アンサンブルもおそろしくキレがよくてクール。かっこよさでは本盤随一だ。

 フランコが書いた'MOBALI ABOYI NA YE KAKA''YO NA MAHENGE NGAI NA KABALO''LEKE NA NGAI ABALUKELI NGAI' の3曲はいずれも10分をこえる長尺曲で本盤のハイライトといえよう。どの曲もミディアム・テンポの、のんびりとリラックスした感じのリズム('MOBALI ABOYI NA YE KAKA' はレゲエ風、'LEKE NA NGAI ABALUKELI NGAI' はラテン風)にのせて、かぎられた行に目一杯を文字を詰め込んだせいで早口言葉のようにせわしなく(それでいて優雅に)歌われるコーラスではじまる。このパターンがしばらくつづいたあと、ホーン・セクションかなにかのブレイクをはさんで、いよいよ御大の登場とあいなる。貫禄が出てきて余裕さえ感じられるフランコのヴォーカルは、ますます多弁さに拍車がかかり説教じみてきている。ダンサブルであることをひたすら追求する若いバンドとちがって、フランコは歌詞の中味をより重視するようになってきているのがわかる。

 このようにシンプルなギター・リフをバックに、フランコの説教くさいヴォーカルと美しいコーラスのリフレインが間髪置かずにキャッチボールをつづけるパターンが延々とつづき、終了2、3分前になってようやくセベン・パートに突入する。ザイール・トップ・クラスのギター・アンサンブルをバックに、“デエッセ”エムポンポだろうか、陽気で思わず小躍りしたくなるようなよく歌うアルト・サックスのブロウがすばらしい。ヴェルキスほどのアクの強さはないが、ジャズのフィーリングがしっかり身についていて、O.K.ジャズ歴代屈指のテクニシャンだ。
 フランコは晩年近くなると最初から最後までおなじテンポでひたすら説教を垂れまくるようになるが、このころは音楽的な構成も緻密に練り上げられていて、歌詞と音楽との絶妙なバランスのうえに成り立っていたのが、70年代後半のTPOKジャズだった。

 ところで、フランコ、シマロとならんで本盤の主役級に抜擢されているはずのンドンベだが、フランコの存在感ばかりがきわだってしまってかれの個性がいまひとつ見えてこない。ンドンベ作の'MABE YA MABE' にしても導入部でソロをとっているのがかれだとわかるぐらいで、主題部でメイン・ヴォーカルをとるのはあくまでフランコ。そのせいか、前述のフランコの曲と受ける印象に大きなちがいは感じられない。あえていうなら、曲の組み立てがもうすこしシンプルで、歌も演奏も肩の力が抜けていてノリがストレートなことか。ウタ・マイの'MOLEKA OKONIOKOLO NGAI TINA' と同様、味わいというかコクの点ではやはりフランコやシマロの曲に一歩ゆずる。

 TPOKジャズのメンバーは、それぞれが一本立ちできるようなすぐれたアーティストたちばかりだったから、自分の曲でメインを張らせてもらえないなんてさぞやフラストレーションがたまったことだろう。じっさい、78年にンドンベはブラザヴィルでおこなわれたタブ・レイのコンサートにフランコの許可なく参加した。ンドンベはかれのかつての同僚“ミシェリーノ”ことマヴァティク・ヴィシと新バンドの結成を画策しており、その後ろで糸を曳いているのはタブ・レイだとうわさされた。怒ったフランコは、自分の音楽雑誌"Ye!" を使って、レイを厳しく弾劾した。それが功を奏して、ンドンベは以後、TPOKジャズに忠誠を誓ったのだった。
 
 アーティストというのは本質的に自己顕示欲旺盛な自由人である。しかし、“プロ”と名のつく以上、芸で身を立てていくことも必要だ。フランコはTPOKジャズのメンバー全員に楽器やらフォルクスワーゲンやらを買い与えて、かれらの生活を保証してやるのと引き替えにかれらの自由を拘束した。以前いったことのくり返しになるが、80年代なかば以降、コンガ〜ザイール音楽が失速していったことの責任の一端は、みずからを“全能”Tout Puissant の神であるかのように錯覚したフランコの権力的な態度にあったと思えてならない。

 「おごれる人も久しからず」とはいうけれど、まさに位人臣をきわめたフランコにも凋落のときが訪れる。78年、はじめてのヨーロッパ・ツアーを終えてキンシャサに戻ってきたフランコを待っていたのは、直前に発売された'JACKY''HELENE' の歌詞内容をめぐるセンセーションの嵐だった。結局、これらの歌はわいせつ罪と認定され、フランコとTPOKジャズのメンバーは逮捕されて刑務所に拘留された。この事件を機にフランコは手に入れた絶大な地位も権力も一気に失うはめに陥った。日は二度と昇らなかった。そして、80年、フランコはヨーロッパ移住を決意する。
 フランコ逮捕からヨーロッパ移住にいたるくわしいいきさつについては、つぎの機会にゆずることにしたい。


(11.08.03)



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by Tatsushi Tsukahara