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Artist

FRANCO ET LE TP OK JAZZ

Title

RADIO TROTTOIR
SOUVENIRS DE "UN, DEUX, TROIS" 1974/1978


radio trottoir
Japanese Title 国内未発売
Date 1974 / 1978
Label AFRICAN/SONODISC CD 36556(FR)
CD Release 1996
Rating ★★★★
Availability


Review

 70年代後半の音源を集めたアルバムは、どれも標準以上の出来だが一長一短あってなかなか決定できないでいた。
 当初予定していた"SOUVENIRS DE UN DEUX TROIS"(AFRICAN/SONODISC CD 36551)は75年、77年、79年リリースのLPに収録されていたもので、O.K.ジャズの歩みを編年的にたどっていく観点からすれば適当な選択であるとは思うし、'MABELE' 'EBALE YA ZAIRE' とならんでシマロの3大叙情作品(個人的見解)のひとつとされる'MACE' が収録されている点でも捨てがたいのだが、個人的な好みの点からいまひとつ煮え切らないものがあった。

 こうして迷いに迷ったあげくドタン場で本盤に差し替えた。クレジットには74年と78年とあるものの、どの曲が74年でどの曲が78年なのか判然としないところは問題だし、しかも前出の"SOUVENIRS DE UN DEUX TROIS" と同様に音質がお世辞にもよくない。しかし、いつものTPOKジャズの演奏にくらべると、音質の悪さも手伝ってか混沌の海から立ちのぼるワイルドで破壊的なパワーが全体にみなぎっている。ヴェルキスの脱退以後、どちらかというとギター・アンサンブルの引き立て役にまわされがちであったホーン・セクションがひさしぶりに思う存分活躍しているのも特徴といえる。

 サブタイトルに"SOUVENIRS DE 'UN, DEUX, TROIS' 1974/1978" とあり、前出の同タイトル盤とおなじLPからとられた曲も含まれることから両者は姉妹盤といえそう。また、同盤ラスト2曲'MAMA NA KYKY' 'AZWAKA TE AZWI LELO' は、森砂さんのくわしいディスコグラフィによると、もともと"LIVE CHEZ <UN-DEUX-TROIS> A KINSHASA" というタイトルのLPに収録されていたもの。ということは、少なくともこの2曲はライヴ演奏のはずだが、いずれも不自然なフェイドアウトで曲が終わっていて、ほぼ同時期のライヴ盤"BOMBA, BOMBA, MABE 'MBONGO' (1977・1978・1979) "(SONODISC CD 36545)のような歓声がまったく聞こえてこないのはなんか不自然。

 ちなみにLPでは4曲構成だった"LIVE CHEZ <UN-DEUX-TROIS> A KINSHASA"は、新たに1曲追加してフランスのGRACE MUSICからCD復刻されている(わたしは持っていない)。ただしLPでは9分あったはずの'MAMA NA KYKY' がCD化にさいしてGRACE盤も本盤もともに5分前後で尻切れトンボのようにブチッと終わっていてなんとも後味が悪い。これは盤起こしであったため曲の後半部が再生に耐えなかったためだろうと推測する。

 それにしても「アン・ドゥ・トロワからのおみやげ」とはなんとも意味不明のタイトルだ。じつは'UN-DEUX-TROIS' とは、74年にフランコがプロデュースした1階ダンス・バー、2階ナイトクラブ、3階ホテルからなる複合型のアミューズメント・ビルのこと。もとはヨーロッパ人ビジネスマンが所有していたが、ビルの完成を待たずして軍の管轄に置かれていた。それがモブツ大統領の第1夫人の働きかけによって、フランコの手に委ねられたのである。ビルが新装オープンすると、フランコはそこのクラブに入り浸りになったというから自分の理想の城が持てたことがよほどうれしかったにちがいない。

 ところで1974年は、ザイールという新しい国名を一躍世界へ知らしめることになった空前絶後の一大ページェントがおこなわれた年でもあった。そう、徴兵拒否によりベルトを剥奪されたモハメッド・アリと現ヘヴィー級チャンピオンのジョージ・フォアマンとの因縁のタイトル・マッチがここキンシャサでおこなわれたのだ。
 そして、エキセントリックな名物プロモーター、ドン・キングの仕切りにより、タイトル・マッチの前後に大規模な音楽フェスティバルがセットされた。

 フェスティバルには、69年以来2度めの公演となるジェームズ・ブラウンをはじめ、B.B.キング、ビル・ウィザース、ポインター・シスターズ、スピナーズ、シスター・スレッジ、エッタ・ジョーンズなどのアフロ・アメリカン、ラテン・アメリカ系ではセリア・クルースレイ・バレート、ジョニー・パチェーコほかファニア・オールスターズ、欧米で活動するアフリカ人ではマヌ・ディバンゴミリアム・マケーバ、ヒュー・マセケラといった豪華なメンバーが一同に会した。
 ザイールからは、TPOKジャズ、タブ・レイのアフリザ、ザイコ・ランガ・ランガ、ストゥーカス、アベティ、ヴェルキストリオ・マジェシウェンドというベテランから中堅、若手までザイールの主だったミュージシャンが総出演した。

 まさにザイールのポピュラー音楽の絶頂期というにとどまらず、ザイールという国家にとっての絶頂期を象徴する出来事であったことはいうまでもない。
 ちなみにファニア・オールスターズのステージに感激したパパ・ウェンバは、このときジョニー・パチェーコが連呼した「ヴィヴァ・ラ・ムーシカ(音楽万歳)」にちなんで新バンド名を“ヴィヴァ・ラ・ムジカ”と命名したというのは有名なエピソードである。

 このアルバムがレコーディングされた70年代半ばはそんな時代であった。さて、本盤の構成は、フランコ4曲、シマロ、ウタ・マイ、ジョスキー、ダリエンスト各1曲の計8曲からなっている。フランコの'MAMA NA KYKY' は5分の尻切れトンボだが、残りはすべて8〜10分台の長尺曲がならぶ。

 フランコが書いた冒頭の'NALOBA LOBA PAMBA TE 1×2' (この'1×2' はシングル発売時にA面とB面とに分かれていたことの名残である)からいきなりパワー全開。ハイハット中心のキレのするどいドラミング、大地からモコモコと立ちのぼるようなコンガ、下腹部をビンビンとえぐるベース、「パンバパンバッ、パンバパンバ、パンバパンバッ」とひたすら煽りまくるコーラス。そして、フランコのヴォーカルにたえずまとわりついてくるファンキーなアルトサックス。ここでのホーン・セクションの充実ぶりはめざましい。歌姫ムポンゴ・ロヴを見出しプロデュースしたことでも知られるサックス奏者エンポンポ・ロワイ Michel Empompo Loway の加入が大きかったのかもしれない。
 
 アルバム・タイトルにもなっているシマロの作品'RADIO TROTTOIR' も出だしこそ“詩人”シマロらしい優雅なコーラスが展開されるが、1分半も過ぎるころにはホーンセクションの一閃を合図に一気にテンポアップして、グイグイと最後まで突っ走る。ここでも倍テンポを刻むドラムスとブロウしまくるサックスが光る。TPOKジャズにはめずらしく、ゴツゴツした粗削りな感じがまたたまらない。“すばらしい”というより“かっこいい”という言葉が似合う名演。

 この2曲にくらべると、ウタ・マイの'BASALA LA VIE 1×2' は、リード・ヴォーカルとコーラスとの覆い被さるような掛け合いを中心とした、いつものTPOKジャズらしい滔々と流れるようなサウンド。後半はめくるめくギター・アンサンブルにサックスのリフがからむ定番のセベンを展開。
 
 わたしが本盤でいちばん気に入っているのはフランコが書いた'COMPRENDERE NGAI 1×2' という曲。「コンプルンドゥルナイ」という舌を噛みそうなフレーズをコーラスが早口で延々とくり返し、これにひどくバウンスするコンガとドライブしまくるベースがからまる。穏やかな秋日和にポンポン船に乗って鼻歌まじりで釣りに出かけるフランコのごきげんな様子が目に浮かんでくる。わかります?

 ジョスキーが書く曲はいかにもイメージどおりのTPOKジャズ・サウンドであることが多い。この'FARIYA' も同様。しかし緻密で端正な表情とダンサブルなノリを併せ持ったおそろしく密度の濃い演奏内容である。なかでもベース、パーカッション、それにホーン・セクションがくり出すヘヴィなグルーヴが最高。

 ダリエンストの'TALA YE NA MISO 1×2' も典型的なTPOKジャズ・サウンド。ただ、強烈なグルーヴが感じられた'FARIYA' とくらべると間延びした印象があって平凡な出来。といっても、これはあくまで「TPOKジャズとしては」の話であって、ザイール音楽全般からすると充実した演奏といえるかもしれない。

 前にふれた“アン・ドゥ・トロワ”での「ライヴ・アルバム」からとられた'MAMA NA KYKY''AZWAKA TE AZWI LELO' はともにフランコの作品。編集は最悪だが演奏の内容はけっして悪くない。とくに'AZWAKA TE AZWI LELO' は、80年代後半のTPOKジャズを思わせるフランコの説得力あるヴォーカルがジワジワと心に沁み入ってくる名演といえる。
 『思い出の70年代』を紹介した稿でふれたように、当時、TPOKジャズは録音技術の問題からヴォーカルも含めフル・バンドで一発録りするのが通例だったらしいから、この2曲を聴いたかぎりではこれらが本当にライヴだったか否かはどうしてもわからなかった。ただ、わかるのは、この時期のTPOKジャズはおそろしく演奏能力が高いプロ中のプロ集団であったということである。


(11.01.03)



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by Tatsushi Tsukahara