住持雑感
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住職の春日井浩道です。はじめて慈眼寺のホームページを作ってみました。野口悠紀雄というえらい先生の本に触発されたのです。ホームページのいろんな効用が書いてありました。
じつは、私、近年のパソコン文化に、いささか反感をもっておりました。お手紙ごっこや、ゲームくらいのために、こんな高い機械を買う人たちを、さめた目で見ておりました。そんな私を、わが不肖の息子は、半分軽蔑しながらも、わが妻にコンピュータを押し付けていったのです。そういえば、彼にコンピュータを教えたのは、はるか昔の私でありました。彼がまだ小学生の時に、10年分のお年玉と引き換えに、当時まだ出たばかりのFM−7という機械を買ってやり、流行っていたインベーダーゲームとやらを、キーボードから機械語で打ち込んで遊んだものでした。その後、彼が中学生になった時には、ベーシック言語で円周率の計算などもやって見せました。私と、コンピュータの関係はこのあたりで途絶えていました。今から20年近く前の事です。
そんな私が、2年程前からコンピュータに触れるようになったのは、県営のテニスコートの予約申込が、インターネットでできるようになり、その役員の手伝いを始めたからです。おかげでAVなども沢山みられるようになりました。これで、息子の置き土産のコンピュータ君も、やっと日の目を見られることになったわけです。その後は、ほとんど、デジカメ写真の整理くらいにしか使っていませんでしたが、1年程前に整備事業の関係で「慈眼寺整備だより」という新聞を発行する事になって、いろんなソフトとまじめに付き合うことになった次第です。ただ、紙に印刷した新聞は、一方的で、即効性に欠けるという難点もありましたが、これをどの程度カバーできるかということが、ホームページの課題になってくると思います。
とにかく、これを通してできるだけ多くの人たちと接触できればと思っております。 (14年10月6日)
以下新しい順に並べます。まとまったものから一番上にタイトルをつけて整理しておきます。
空とは、何にもない事である。文字どおりの空っぽという意味です。この一切空というのが仏教の真髄なのである。なんと寒々しい言葉ではないか。まるで一切の救いの手を差し伸べる事を拒否するような。多分人間の社会では、宗教というのはそれを信じれば救われる、少なくとも安心の境地になるようなものではないだろうか。この一切空という言葉は、私にはあのカンダタが落下してその後、寒風が吹きすさぶ虚空にゆれている蜘蛛の糸の風景が連想されるのです。
おそらく、そんなつまらない事を考えるのは、人間だけなんでしょうね。でも、この思想は何となく日本人の心の根源になっているような気がするのです。前にも真理なんてことに少し触れましたが、あれはとても人々を安心させる要素があるのでしょう。ほら、これが真理なんだよ。正しいことなんだよ。これに寄りかかればあなたは救われる・救われる・・・・・。一切空なんて言葉は、そんな甘さを完璧に吹き飛ばしてしまうのです。だって頼りになるようなものは何もないのですから。(2月5日)
アメリカがまた戦争を始めようとしている。イラクが大量破壊兵器を保持しているのが許せないからやっつけるのだと言う。およそこんな論理が通るのだろうか。自分のところが持っていなければそういう主張は認められよう。しかし、自分で持っていなければそんな態度にはとても出られまい。自分は正義の監視人であり、世界の警察官であって、イラクは世界の悪党だと思っているのだろう。確かにアメリカには輝かしい民主主義の歴史があり、反対にイラクには前科があり、そのトップはかなり曲者の独裁者である。しかし自分たちこそ真理・正義の具現者だと公言するものは本当はかなりなイカサマなのではあるまいか。かつてプラウダ(真理)という新聞があったり、なんとか真理教という集団があったりしたが、何れも誰かの利権体質を隠すのにそんな言葉が使われたような気がする。間近くは、俺たちこそ科学的に歴史的真理を知っているというような政党もあったが・・・。
それはともかく、破壊兵器を保持しているというだけで、おそらく何も知らされていないイラク国民を犠牲にするのはどうだろうか。彼らはどうしてアメリカが攻めてくるのか理解できないだろう。フセインのような悪者を大統領に選んだことに対する罰といってしまうには気の毒な気がする。フセインだってアメリカの言うことを全面的に受け入れたのでは自分の地位そのものが危なくなってしまう。この点は金正日さんも同じような立場か。何れにしてもほころびの見え始めた独裁者は辛いものだ。でもまあ、疑惑や保持だけでは他国を侵害したわけではないから攻撃するのは不当だろう。他国を侵害した時点で国連決議により制裁に動き出してもおそくはないと思う。その時の制裁なら、憲法9条の話はさておき、日本の世論も同調しそうな気がする。
それにしても、アメリカはマイナーな戦争をとてもやりたがっているように見える。アメリカはというよりブッシュ政権はというべきか。ほんとに共和党というのは、軍需産業と軍人の利益代表なんだろうか。ケネディがベトナム戦争に消極的だったので消されたという説も信憑性を帯びてくる。(1月29日)
パウエルという国務長官が、イラクが大量破壊兵器などを隠匿しているという証拠を出して、攻撃を正当化しようとしている。また、アメリカはフセイン政権を倒してイラクの石油を奪ってしまうのが目的だとも言われる。これではまるで、昔の帝国主義と同じではないか。世間の言葉で言えば強盗だよ。個人でやれば大犯罪だが、国家がやれば正義なのか。そうだとすれば大量破壊兵器や、テロ支援なんてことは単なる言いがかりに過ぎなくなる。(2月7日)
カルロス・ゴーンという人がいる。自動車メーカーの日産を立て直した救世主である。でも、彼はほんとにそんなに傑物なのか。停滞しきった日本の古い経営体質が彼を際立たせただけではないのか、そんな気がしてならない。
日産という会社は、わりに突拍子もない車を作っては話題を集めたが、何れも会社の繁栄には貢献してこなかった。ほとんど死に体の会社が藁にもすがる気持ちでルノーに泣きつき派遣された若造を社長にいただいたのであろう。彼はおそらく日本社会の、がんじがらめのしがらみを何も知らなかったのではないだろうか。だからこそ、旧弊をバッタバッタと切り捨て経済性至上主義で合理化出来たのではないだろうか。馴れ合いも情実も彼の前には何の障害にもならなかったであろう。
こうしたやり方をみていて思い浮かべる人が二人いる。一人は織田信長である。彼は合理性のみを頼りにしたような人物で、役に立たない者は譜代の重臣でも容赦しなかった。年功など笑止な事だったのであろう。この彼をあらしめたのは、おそらく慣行に対する無頓着ではなかったか。極端に言えば無知だったかもしれない。でも、そのお陰で彼はのし上がり、挙句、高転びに転げてしまった。私がゴーン氏に感じるのはこの無知である。無知なるがゆえに、合理主義一辺倒でやり通せたのではないかという気がする。でも、このくらいの合理主義は、いまどきのあまり組織に毒されていない若い人なら持ち合わせているのではないかと思うがどうでしょうか。年功や情実の組織の中で段々身動きの取れない人格が形成されていくのではないだろうか。日本の社会は富士山が雪をかぶるように、上に行くほど儒教的な文化に深く覆われているのです。ここで言いたかったのは、日産という会社の中にもゴーン氏に匹敵する人は多々いたであろうということ。でも彼らはなんら顧みられる事はなかった。なぜか。ひとつには、ルノーという会社の後ろ盾がゴーン氏の担保であったこと。もうひとつは、会社の責任者が、そんな大抜擢をする勇気も能力もなかったこと。さらには、毛色の違った人を持ってくるのは、なんら日本の平等主義という良俗に反しなかったということである。
思い浮かぶもう一人は、いま、我が慈眼寺の改修を請け負っている田辺建設の田辺社長である。これについてはまた機会を改める。(平成15年1月22日)
上の記事を書いたら、23日の朝日新聞の天声人語にゴーン氏のことがのっていました。えらくほめてあったので何となく気後れがしています。まあ、こんな見方もあるものだということにしておきます。(24日)
「山本山の海苔」というコマーシャルがあった。耳の不自由な老夫婦がお歳暮かお中元かをもらって「婆さんや。山本山の海苔じゃよ。」と「違いますよ、お爺さん。山本山の海苔ですよ。」と言う会話の後に、上から読んでも・・・というようなナレーションが入ったものでした。昔はこれをなんとバカバカしいコピーかと思ったものでした。ところが、自分が年とってみて、愕然。全くこれと同じ場面をやっているのです。お互いに耳が遠くなったのが原因なんでしょう。極端な場合には、お互い同じことを主張しながら、あわや喧嘩寸前ということもままあったようなのです。
でも、耳の遠くなっただけならそういう進展の仕方はしないはずです。もうひとつの原因は、「自分は常に正しく、相手は常に間違っている。」と言う認識があるのです。
よくよく考えてみると、これは耳の聞こえるとか聞こえないとかの問題ではなく、コミュニケーションの不完全による事なのです。人間の言葉なんてのは、きわめていい加減なものなので、意図した事が正確に伝わる事など本当はまれなのでしょう。又、言葉の意味を誤解しあっている事もあるでしょう。同じことをを言葉を変えて主張し合って対立、喧嘩することもあったようです。でもまあ、夫婦喧嘩なら、それだけの事ですから何とかなります。
これが、国際間の対立や、政党の主張になると発言者の面子や、挙句の果ては政治生命の喪失にもつながることですから、お互い後にはひけず戦争になる事もありうるのでしょう。コミュニケーションはすべからく、一方的にならずトコトン理解しあうようにしたいものです。後ろめたさを感じながらも虚勢を張るのは一番危険な事だと思います。
(平成15年1月18日)
平成14年の大晦日。いま紅白歌合戦をやっています。いやでも耳に入ってきます。こういう「国民的行事」というのは何となく肌に合いません。一つ間違うと大政翼賛会に繋がるような雰囲気があるからです。
ともあれ、今年はいろんなことがありました。いちばん身近なことは、このホームページを立ち上げたことです。何でもないことのようですが、世界が少し広くなったきがします。見ず知らずの人にも自分の心のはしが伝わっていくのはすばらしいことです。
慈眼寺の本堂も完成しました。総桧造りのすばらしい建築です。本当に皆様方のご支援の賜物です。300年後の子孫たちに伝えたいと思います。頑張ってくれた田辺建設の社長はじめ宮大工の皆さん方にも感謝いたします。また立派な客殿も建設中で3月には竣工いたします。
私事になりますが、今年は長男と次女がそれぞれ良い相手を見つけて、結婚しました。欠点だらけの私の息子や娘を選んでくれた人達に心から感謝したいと思います。昨日から鎌倉の息子の嫁さんが、寺の仕事を手伝いに来てくれました。息子は仕事だそうですから独りで来たのです。けなげな心遣いがとてもうれしかったです。
また、孫も一人増えました。にっこり笑えるようになりました。ワシの遺伝子の第三走者です、四分の1ですが。がんばれ、チビ。頑張れ、チビ。・・・これもうれしい出来事でした。
いろんな人に支えられて生きてきました。来年は皆さんにもいい年になりますように。(平成14年大晦日)
この2ヶ月、この欄には何も書き込みませんでした。物を書くというのが実に億劫な仕事であるということが分かりました。普段は、あれもこれもと色々考えるのですが、いざコンピュータに向かってキーをたたくというまでに気が萎んでしまうんです。漠然とした妄想をそれなりの文章にするというのはかなり労力を必要とするのでしょう。でも、心に浮かぶ由無し事はそのままにしておけば、バブルのように消えてしまって、次の時にも又同じことを考え込んでしまうことが多いのですが、一旦書き残しておけば、まず自分の思考にも役立つことが分かりました。これは、最近日記をつけてみて感じたことです。というわけで、又つまらないことを書いていきます。
最近、曹洞宗の大本山(自分で『大』の字をつけて名乗ることにいささか抵抗を感じるのですが)総持寺というお寺の副貫首という地位をめぐって選挙が行われようとしています。選挙自体は結構なことだと思いますが、かなりどぎつい誹謗中傷が行われ、又現金もばら撒かれているといううわさも流れます。そんなにおいしいポストなんでしょうかね。崇め奉られたいのでしょうか。すばらしい衣を着てみたいのでしょうか。猊下(げいか、高僧の敬称)と呼ばれてみたいのでしょうか。すでに立派な方ばかりと見受けられますので、あまり品位を落とさないでもらいたいものです。主導権争いに勝ってBossになりたいというのは、高崎山の兄弟たちを見れば我が霊長類の△△かも知れません。
それに皆さん、ご高齢すぎると思いませんか。道元様も、瑩山様も50歳半ばでなくなりました。別に長生きすることが悪いというわけではありませんがあまりにも、△△にしがみついているという感じで○○ないです。とても対岸の火事というような気はなれません。そういえば自民党は、比例区の候補者の年齢制限を73歳と決めたようです。73歳でいいのでしょうか。外国の大統領、首相といった方々は40歳台が多いようですね。(12月21日)
このホームページは、MICROSOFTのWORDというソフトを使って書きました。本屋の棚で見る限りこれが一番簡単そうに見えたからです。でもやはり、あまり易きを求めては良くないようです。こういうことに詳しいわが弟はWORDは良くないというようなことを言いました。HTML専門のソフトではないからだそうです。刀を持っているという理由で侍に板前をやらせているようなものなんでしょう。そういえば他のホームページに比べるとなんとなく泥臭い。そこでADOBEというソフトを置いていってくれました。でもそれを使うとなると、またはじめから勉強しなおさなければなりません。まあ少なくともこのホームページが完成するまでWORDで行こう。 (14年10月7日)