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Artist

CONJUNTO CASINO

Title

1941-1946: RUMBA QUIMBUMBA


tcd030
Japanese Title 国内未発売
Date 1941-1946 ?
Label TUMBAO TCD-030 (CH)
CD Release 1993
Rating ★★★★☆
Availability ◆◆◆


Review

 1940年ごろに普及しはじめたコンフントという楽団編成は、おもにソンを演奏するセステート(セプテート)から発展したものだった。ギター、トレス(複弦3対の小型ギター)、ダブル・ベース(初期はマリンブラと呼ばれる木箱でできた大型の親指ピアノが使われた)、ボンゴ、マラカス、クラベスでセステート(六重奏団)。これにトランペットが加わるとセプテート(七重奏団)になって、さらにピアノ、トゥンバドーラ(コンガ)、2〜3管のトランペットで標準的なコンフントとなる。歌手はマラカスやクラベス、ときにギターを兼ねた3人とするのが一般的。コンフントになって演奏に幅と奥行きが加わり、ソンとともにボレーロとグァラーチャが重要なレパートリーとなった。

 コンフントの代表的な楽団はとしては、アルセニオ・ロドリゲス楽団とソノーラ・マタンセーラ、それにここに紹介するコンフント・カシーノがまずあげられるだろう。ソン・モントゥーノを中心にすえた黒く濃厚なアルセニオ系サウンドにたいし、ソノーラ・マタンセーラとカシーノはグァラーチャを中心にすえた陽気でポップなサウンドを身上としていた。アルセニオをキューバ音楽の理想型とみなしていたわたしは、“ナンパで軽い”かれらの音楽を長いことワン・ランク低くみていた。

 しかし、最近になって見方が変わってきた。きっかけはソノーラ・マタンセーラが人気をつかんだ40年代の初期録音(といっても、その前身セステート・トゥナ・リベラルの結成は24年!)を復刻した CONJUNTO SONORA MATANCERA "LA OLA MARINA"(TUMBAO TCD-114)。そこには、グァラーチャでありながらソンに近い骨太でワイルドな“トゥンバオ”(“グルーヴ”の意味)、誤解を怖れずにいえば、アルセニオに通ずる“重さ”が感じられた。

 このノリを引っぱって、苦手としていたコンフント・カシーノに突入してみる。するとわかったのが、自分がいかに50年代なかばごろのコンフント・カシーノのイメージに引きずられていたかということ。この時代のカシーノは凡百の楽団の演奏とくらべれば、はるかにクオリティが高いが、あまりにカチッと作られすぎていて“遊び”が感じられず正直いって飽きてくる(たとえば53〜55年の"MAMBO CON CHA-CHA-CHA"(TUMBAO TCD-080)、59年の"MOLIENDO CAFE"(CANEY CCD 507)、50年代のコンピレーション『ラジオ・キューバ1』『同2』(ユニバーサル UICY 1056/ 1057)など)。

 その点、40年代のかれらの演奏には、親しみやすさのなかにもソノーラ・マタンセーラの時とおなじ“トゥンバオ”が感じられ、じゅうぶんに聴き応えがあった。本盤は、"CANCION DEL ALMA"(TUMBAO TCD-040)とともに、そんなかれらの40年代の貴重な演奏を収めた良質の編集盤である。その内容に立ち入る前にコンフント・カシーノの経歴についてふれておかねばなるまい。



 コンフント・カシーノは、1937年に歌手のエステバン・グラウ Esteban Grau が結成したセプテート・カシーノを母体とする。コンフントになったのは40年(異説あり)で、翌年には歌手のロベルト・エスピ Roberto Espi が加入。そして、43年、グラウに代わってコンフント・クババーナから歌手のロベルト・ファス Roberto Faz が参加。楽団のリーダーシップはエスピに移り、以後、30年以上の長きにわたってグループを牽引した。

 40年代なかばごろには、エスピとファスの両ロベルトに、ギタリストも兼ねたアグスティン・リボー Agustin Ribot が加わり、ここに3名のフロント歌手を立てるカシーノ・スタイルが確立。トゥンバオ盤の解説では、43年とされているが、リボーの加入は45年とみるべきだろう。リボーは51年に脱退するが、これをコンフント・クババーナにいたオルランド・ヴァジェーホ Orlando Vallejo が穴埋めした。

 このほかにも、コンフント・コロニアルのリーダー、ネロ・ソーサ Nero Sosa、ベニー・モレー楽団にいたフェルナンド・アルバーレス Fernando Alverez、セプテート・ナシオナール出身のアルフレディト・バルデース Alfredito Valdes といった名だたる歌手たちが参加している。

 こうして40年代半ばから50年代にかけて、カシーノはキューバ本国はもとよりラテン・アメリカ諸国でつねに高い人気を誇った。しかし、56年に13年間在籍した看板歌手ロベルト・ファスが脱退したころから、徐々にではあるが勢いにかげりが見えはじめる。数多くのスターを輩出したカシーノであったが、ファスの存在あってのカシーノだったのかもしれない。



 ところで、コンフント・カシーノを語る上で欠かせないプレイヤーに、トゥンバドーラ奏者のカルロス“パタート”バルデース Carlos 'Patato' Valdes がいる。白人ばかりのカシーノにあって唯一の黒人だったパタートは、26年11月、ハバナ生まれ。「リズムのチャンピオン」'Los Campeones del Ritmo' といわれた楽団のキイ・マンだった。

 パタートは、歌手のアルベルト・ルイス Arberto Ruiz 率いるコンフント・クババーナを経てカシーノ入りしたとされているが、クババーナ唯一のCDCONJUNTO KUBAVANA DE ALBERTO RUIZ "RUMBA EN EL PATIO"(TUMBAO TCD-034)収録曲の録音年は44年から47年とされていて、たいするにパタートの名がクレジットされている本盤収録曲の録音年代は41年から46年とされている。これを信じるなら、カシーノ参加ののち、在籍しながらクババーナにも籍を置いていたことになってしまう。

 クババーナのCDには、ボーナス・トラックとして47、48年録音のカシーノの4曲が収録されているが、そこにはパタートの名がちゃんとクレジットされていて、これらについては参加はまずまちがいないだろう。
 問題は47年以前に参加していたかということだが、この点については耳を頼りにするほかない。そこで試みたのが、先にふれた"CANCION DEL ALMA"(TUMBAO TCD-040)との比較である。録音年が41年から45年と本盤とほぼ重なるにもかかわらず、この2枚は音の感じがかなりちがう。

 "CANCION DEL ALMA" は、ドン・アスピアス楽団やレクォーナ・キューバン・ボーイズなどとおなじ30年代の“ルンバ”の流れを汲む優雅でスウィートな展開の曲調が多い。これにたいし、本盤は感覚がより新しく、ずいぶんとアフロ・キューバンぽくなった。それはひとことでいうならビートのちがいである。そして、この力づよいビートの立役者こそ、ほかならぬパタートだったとわたしはみる。

 さらに、アグスティン・リボーの加入を45年とするわたしの説が正しければ、本盤全22曲中リボーが参加した14曲は45年か46年録音ということになる。'RUMBA QUIMBUMBA''APRETANDO''CON LA LENGUA FUERA''QUE AMIGOS''QUINTO ME LLAMA' など、トゥンバドーラが俄然活躍する曲はどれもこの14曲に含まれているのだ。となると、パタートの加入は45年以降か。

 そう結論したいところだが、本盤が録音されたとされる時期にパタートはそもそもカシーノにいなかったと解釈できるようなデータまであるのだからややこしい。
 84年発売のパタートのソロ・アルバム"MASTER PIECE" に2曲を追加して、93年にCDで再発された"MASTER PIECE"(MESSIDOR 1582-2)のライナーノーツ掲載の経歴がそれ。これによると、パタートがクババーナに参加したのは47年で、カシーノへは49年に加入し渡米直前の54年まで在籍したことになっている。この経歴はおそらくパタートからの聞き取りをもとに記述されたようで、本人の記憶ちがいもあろうが貴重な資料であるにはちがいない。

 まず、クババーナとカシーノへの加入の時期がいくらなんでも遅すぎる気がする。カシーノへは47年、せめて48年加入と考えないとつじつまが合わない。だとすると、本盤の録音時期を41年から46年までとする記述は誤りということになる。まさしくそのとおりだろう。本盤のもっとも新しい録音時期をせいぜい50年ごろと設定することで、"CANCION DEL ALMA" との曲想のちがいが説明できるし、もう1枚のトゥンバオ盤"MAMBO CON CHA-CHA-CHA" とのあいだのミッシング・リンクの問題もクリアできる。

 以上、パタートを手がかりに本盤の録音時期を推理してみた。あらためて結論をいえば、本盤収録曲の大多数は大戦後、しかも47年から50年ごろまでにレコーディングされたとするのが妥当な気がする。
 それは奇しくも先輩トゥンバドーラ奏者チャノ・ポソがNYへ渡ってアフロ・キューバン・ジャズ・ムーヴメントを巻き起こし48年12月、銃弾に倒れた時期とちょうど重なる。
 54年、渡米したパタートは、チャノの後継者としてケニー・ドーハム、ハービー・マン、ティト・プエンテら、数々の一流のプレイヤーたちとの共演を重ねて、アフロ・キューバン・ジャズを代表する名コンガ奏者として君臨しつづけた。



 そうそう。肝心の中味についてふれるのを忘れていた。おもなレパートリーはもちろんグァラーチャとルンバ。
 グァラーチャとは、2行連句と折り返し句(リフレイン)からなる諷刺の効いた歌詞を、8分の6拍子にのせてソロとコーラスが掛けあいでおこなうもので、もとは滑稽劇のなかの一要素だった。それがダンス・ホールで演じられるようになって軽快な4分の2拍子に変わったという。カシーノについては、この“軽快”というフレーズのほか、“華麗”“タイト”“ダンディ”ということばが頭に浮かぶ。

 しかし、トランペットのアルベルト・アルメンテロス Alberto Armenteros(アルセニオ楽団にいたアルフレド“チョコラーテ”アルメンテロスとは別人)作の'AY! NICOLAS' や、ベースのクリストバル・ドヴァル Christbal Doval 作の'DON FELIPE' ようなソン・モントゥーノもある。これがなかなかの名演で、トゥンバドーラとボンゴがつむぎ出す粘っこいビートに重心のかかった歌とトランペットがすばらしい。ただし、ソノーラ・マタンセーラとおなじくトレスははいっておらず、代わりをロベルタ・アルバーレス Roberta Alvarez のダンディなピアノがうまくカヴァーしている。

 かれらの代表曲'QUIQUIRIBU MANDINGA'(ほかでも聞き覚えがあるが思い出せず)、ドヴァルが書いた'SALAGENTE''RUMBA QUIMBUMBA'、アルメンテロスの'QUINTO ME LLAMA' などに典型的だが、ソロとコーラス、あるいは歌と楽器のスピーディでスリリングなインタープレイは、サルサの直接のルーツがアルセニオよりむしろカシーノだったことを教えてくれる。

 なお、国内盤としては93年にディスコ・カランバから、50、60年代のパナルト原盤による編集アルバム『カンペオーネス・デル・リトゥモ』が発売された(もちろん持っていない)。


(3.11.05)



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by Tatsushi Tsukahara