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Artist

ORQUESTA RIVERSIDE

Title

BARACOA


tcd052
Japanese Title 国内未発売
Date 1953/1954
Label TUMBAO TCD-052 (CH)
CD Release 1994
Rating ★★★★☆
Availability ◆◆◆


Review

 世界でも指折りのキューバ音楽大国といわれるこの日本で、知名度と実力の割には正当に評価されていない思うのがオルケスタ・リバーサイド(リベルシーデ)である。

 アナログ時代のことは知らないが、CDになってからの単独盤としては、わたしの知るかぎり、92年にPヴァインから2枚が国内発売されていたと思う。オルケスタ・リバーサイド『チャウァウァ』(Pヴァイン PCD-2361)『ティト・ゴメス&オルケスタ・リバーサイド』(同 PCD-2365)がそれだ。当時、すでにわたしはそれなりのキューバ音楽ファンではあったが、そのときは見向きもせず発売の事実さえ長いこと忘れていたほど。発売当時、『ミュージック・マガジン』のラテン音楽部門で総合レビューを担当していたのが田中勝則さんで、かれはリバーサイドについてつぎのように評している。

「同時代のニューヨークのバンドにくらべてシャープさはないが、その分キューバらしいふくよかな味は濃厚で‥‥」(92年8月号)

「けっして一流じゃないがキューバのビッグ・バンドらしい味はしっかり濃厚」(同9月号)

 ある意味でそのとおりなのだけれども、7点と8点の評価は思いのほか辛い。当時はまだ『MM』に信頼を寄せていたから、この評価をみて素通りしてしまったのかと思った。

 ところで、日本でのキューバ音楽史観を作り上げたのは、いうまでもなく中村とうようさんである。そのなかで意外と軽視されていると思うのが、キューバ国内におけるジャズバンド・スタイルのオルケスタである。ビッグバンドの話になると、なぜかキューバを出て成功したマチートペレス・プラードか、NY派マンボになってしまうのだ。例外といえばベニー・モレーのバンダ・ヒガンテがあるが、この場合は楽団ではなく歌手としてのベニー・モレーに焦点が当てられる。

 前の田中さんのコメントがこの中村史観に沿ったものとみるならば、リバーサイドはやはり傍流であり、“一流”でないのは必然だったといえる。幸か不幸か、わたしはペレス・プラードもNY派もそれほど高く買っていない。だから、自分のなかでそれらはスタンダードになっていない。そんな耳で、田中さんのことばをもじってリバーサイドを評するとこうなる。

「同時代のニューヨークのバンドのような直線的、幾何学的な感覚はなく、キューバらしいふくよかな味は濃厚で‥‥」

「キューバの名門ビッグ・バンドらしく味はしっかり濃厚」



 オルケスタ・リバーサイドは、1938年にハバナの若手ミュージシャンたちが協同で起ち上げた楽団で、拠点としていたダンス・クラブにちなんでオルケスタ・アバナ・リバーサイド(リベルシーデ)Orquesta Havana Riverside と名づけられた。初代リーダーは、投票によりヴァイオリン奏者のエンリケ・ゴンサーレス・マンティシ Enrique Gonzalez Mantici が選ばれた。トランペット、サックス、トロンボーンの管楽器を主体に、ピアノを加えた編成は、当時、“ジャズバンド”と呼ばれ、前年にはハバナで、ミゲリート・バルデース、アンセルモ・サカサスらがおなじく“ジャズバンド”、オルケスタ・カシーノ・デ・ラ・プラーヤを起ち上げている。

 ミゲリート・バルデースは、カシーノ・デ・ラ・プラーヤを辞めたあと、40年4月にニューヨークへ旅立つが、その直前にアバナ・リバーサイドの一員としてレコーディングをしている。39〜40年の音源計22曲からなる ORQUESTA HAVANA RIVERSIDE "ROMPAN EL CUERO"(TUMBAO TCD-058)には、40年にバルデースが歌った12曲が収められている。
 エンリケのヴァイオリンのせいか、パンチの効いたリズムよりもムーディな優美さが際立っていて、ジャズというよりジャズ風味の白人系ラテン・ダンス音楽の趣。打楽器が活躍するにぎやかな曲調もあるが、メンバー全員が白人だったせいか、弾けるようなビート感はなくやや平坦な印象を受ける。ライヴァルのデ・ラ・プラーヤにくらべると、この時点ではたしかに“一流”じゃない。

 転機はまず43年に訪れた。コンフント・クババーナ結成のために脱退したアルベルト・ルイスに代わって、ティト・ゴメス Tito Gomez と名のるハバナ出身の23歳の若きシンガーが加入。45年にはエンリケが脱退し、あいだにアントニオ・ソーサ Antonio Sosa をはさんで47年にアルト・サックスのペドロ・ヴィラ Pedro Vila が楽団の新たなリーダーに収まった。このころには“オルケスタ・リバーサイド”を名のるようになっていたようだ。

 ヴィラはホーン・セクションを強化することで、サウンドをよりブリリアントに、よりエネルギッシュに作り替えた。名門ナイト・クラブ、トロピカーナに週2回出演するかたわら、コカコーラをスポンサーとする人気ラジオ番組のレギュラーを務めて、高い人気と幅広い支持層を獲得するにいたった。52年には「ベスト・オルケスタ・オブ・ザ・イヤー」に選ばれるなど、ベニー・モレーのバンダ・ヒガンテと並ぶ50年代キューバを代表するビッグ・バンドとなった。

 1975年まで30余年の長きにわたってリバーサイドを牽引したのが歌手のティト・ゴメス。ティトは白人だが、ベニー・モレー“7”に対しミゲリート・バルデースを“3”加えたような、力づよく弾力性にあふれた歌いっぷりで、ソン・モントゥーノから、グァラーチャ、ボレーロ、マンボ、チャチャチャまでなんでも器用にこなした。
 なかでも、ボレーロは絶品。オーケストレーションも含め、この芳醇な味わいはNY派には絶対マネできない。本盤でいうと'ASI TAN CIEGAMENTE''NO LO DIGAS''ALMA CON ALMA''SIN ESPERANZA ESTOY' の4曲(“ボレーロ・マンボ”とある'ALMA DE MUJER' を加えると5曲)がそれで、どれも涙が出るほどの名唱。

 ティトの、この強靱なヴォーカルに一歩もひけをとらぬダイナミックなサウンドのアレンジを担当したのがピアニスト、ペドロ・フスティス“ペルチーン”Pedro Justiz 'Peruchin'。ペルチーンは、サンティアーゴ・デ・クーバの名門ビッグ・バンド、オルケスタ・チェピン・チョーベン出身で、46年、ハバナへ上京すると、カシーノ・デ・ラ・プラーヤ、コンフント・マタモロスなどを経て、50年代はじめにリバーサイドに参加した。
 かれのアレンジのどこがスゴイかというと、とにかくアンサンブルの重なり具合が絶妙で、サウンドは重厚だがNY派の切迫感はなく、つねに祝祭性(もしくは牧歌性)を帯びていることだ。一音一音がふくよかで当たりがまろやか。でもって、星の子カービーみたいな音たちがポヨンポヨンと楽しく飛び跳ねまわっている。

 また、かれはアレンジャーとしてのみならず、ピアニストとしても非凡だった。本盤でいうと'DAIQUIRI' でのイマジネーティブなプレイは特筆ものだ。思うに、ペレス・プラードと並ぶキューバ音楽最高のピアニストなのではないか。
 そういえばスペイン語でジャム・セッションを意味するデスカルガを最初に本格的に記録した歴史的名盤といわれるフリオ・グティエーレスの『キューバン・ジャム・セッション』(ボンバ BOM607)で、実質的な音楽監督をつとめピアノを弾いているのはペルチーンであり、マンボの創始者はかれとの説があることもつけ加えておこう。

 それといい忘れたが、前述のボレーロ'ASI TAN CIEGAMENTE''NO LO DIGAS''ALMA CON ALMA' の3曲のみ、ペルチーンではなく、それぞれアドルフォ・グスマン Adolfo Guzman、エルネスト・ドゥアルテ Ernesto Duarte、ファニート・マルケス Juanito Marquez がアレンジを担当。
 グスマンは、ラジオ・テレビ畑の大物音楽家。51年から59年まで、4チャンネルのテレビ番組(キューバでのテレビの家庭普及率は世界的にも高かった)でリバーサイドの指揮を務めた。60年には健康の理由でリバーサイドを辞めたペドロ・ヴィラに代わって、リーダーに選ばれた。ドゥアルテは、ベニー・モレーの名唱で知られるボレーロ'COMO FUE'、ボレーロ・ソン'DONDE ESTABAS TU' を作曲・指揮した人物。

 本盤は、そんなかれらのもっとも勢いがあった53〜54年の歌と演奏22曲を収める。ティト・ゴメスの歌が入るのはそのうちの12曲(アルバムに11曲とあるのはまちがい)で、インスト・ナンバーとほぼ交互に配されている。ソン・モントゥーノとボレーロに加えて、当時大流行していたマンボとチャチャチャの曲が多く含まれる。
 いま、気づいたことだが、このおおらかでウキウキしたムードはチャチャチャの影響かもしれない。それでいて、チャチャチャ本来のお行儀のよさはなく、マンボ的なやんちゃさがうまく生かされている。こうした部分がNY派とのちがいを際立たせていると思った。

 そうはいっても、ティトの歌にしろ、オーケストレーションにしろ、結局はベニー・モレーのものまねじゃないか。そういいたくなる気持ちもよく理解できる。しかし、ベニー・モレーがメキシコから帰国したのは52年(53年とも)、バンダ・ヒガンテの結成は53年7月であり、このころにはすでにリバーサイドは名声を確立していた。
 といってもモレーは40年代後半からメキシコでペレス・プラード、ラファエル・デ・パス、マリアーノ・メルセロンなどの楽団をバックに歌っていたから、リバーサイドが手本にしていたとしても不思議はない。だが、メキシコ時代のモレーと聴きくらべてみると、たしかに似ているが“そっくりさん”とまではいかない。
 となると、リバーサイドが一方的にモレーを模倣していたのではなく、リバーサイドとモレーのバンダ・ヒガンテとは互いに影響し合いながらサウンドを組み立てていったとみるほうが正しいような気がする。リバーサイドのキーマンだったペルチーンがバンダ・ヒガンテに移籍しているのがそのなによりもの証拠だ。

 モレーとの比較といえば、この時期、リバーサイドは黒人のソング・ライター、ラモン・カブレラ Ramon Cabrera の楽曲を多くとり上げている。本盤でいうと'BARACIA''SANTIAGUERA''BANES''AHORA SI TENGO UN AMOR' の4曲がそれで、ほかに'BAYAMO''ORIETNTE QUERIDO' もカブレラの作品。音楽スタイルはソン・モントゥーノかマンボの系統で、どの曲もティト・ゴメスの声との相性はぴったり。
 じつはベニー・モレーの名唱で知られる'GUANTANAMO''SAN TIAGO DE CUBA''MANZANILLO''ADIOS PALMA SORIANO''MARIANO' もカブレラの作品。どちらが先というよりも、カブレラよって両者は通底し共振し合っていたととるべきだろう。

 リバーサイドのCDは、アバナ・リバーサイド時代の前述のアルバムと本盤のほかに、トゥンバオからもう1枚リリースされている。"DE BAYAMO A PINAR DEL RIO"(TUMBAO TCD-109)がそれで、カブレラ作品'BAYAMO' を含む53年から59年までの音源22曲を収録。ティト・ゴメスとともに、女性歌手メルセディタス・バルデースを迎えためずらしい2曲を含む。
 個人的にお気に入りは元気なチャチャチャ'EL BARBERO DE SEVILLA'。ティトが「よしてけろ、よしてけろ」を連呼するのを聴いて、図らずも「老人と子どものポルカ」で左卜全が連呼した「やめてけれ、やめてけれ」を連想してしまった。これで「ズビズバ」「パパパヤ」のコール・アンド・レスポンスと、「助けてくれ〜」の断末魔で締めていれば満点だった。惜しい。

 この文章執筆中に、エル・スール・レコーズの3割引セールで、冒頭にあげた『チャウァウァ』の輸入盤"CHA-HUA-HUA"(ANTILLA CD-541)を手に入れた。プチート原盤によるこのアルバムは、"BARACOA" とサウンド・カラーが近いことからメンバーも録音時期もほぼ同じと思われる。だから、内容はたいへん充実している。なのに田中さんが7点しか付けなかったというのはやはり納得がいかない。かれらの不幸はベニー・モレーがあまりに偉大すぎたことにあったのだろう。


(4.1.05)



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by Tatsushi Tsukahara